10-仕事の時間/Hotline
浴室から出たアマディオは、鏡に映る己の顔から目をそらした。
肌の表面を這うような微かな悪寒。オプティックの隅で、生体シグナルが明滅している。
ナノマシンの侵食と、リサの意識との同期――二人の生命機能は不可逆的に結びつき、その猶予は刻一刻と削り取られていた。
生き延びるには、金がいる。リサの脳を維持するための特殊な処置、エシュロンの追手から身を隠すための設備、そして壊れかけた己の肉体を繋ぎ止めるための医療。
すべては巨額の資金の上にしか成り立たない。
アマディオは濡れた手をタオルで拭うと、携帯を取り出し、自ら発信ボタンを叩いた。
『よう、アマディオ。珍しいな、自分からかけてくるなんて』
「仕事をくれ、サイモン。今すぐだ」
『……ハッ、余裕がなさそうだな。いいぜ、俺の店に来い。話を聞かせてやる』
通信を切り、モーテルの汚れた窓から外を見下ろす。雨に濡れた街路の先に、ネオンを乱反射させる酒場〈パッチ〉の看板が見えた。
* * *
都市下層――『ロウワー・ティア』、ネオ・ハーレム地区。
過剰な人口密度、高止まりする犯罪率、そしてエシュロンの統治下で蠢くストリートカルチャーの温床。
サイモンが取り仕切る『ハイヴ』は、この混沌とした泥濘の中に根を張る新たな裏社会の生態系だった。
酒場〈パッチ〉のドアをくぐると、安酒と紫煙の匂いが鼻を突く。
カウンターやテーブル席には、死臭を漂わせた流浪の傭兵たちが蠢いていた。アマディオは歩を進めながら、視覚インプラントを起動し、周囲のプロファイルを無感情に走査する。
【ムサシ・ガイデン/男性/42歳/Cランク傭兵/最近、胃潰瘍の手術を受診】
【ディム/男性/22歳/Dランク傭兵/姉がネオ・ハーレム地区『殺人通り』に居住】
【ライル・シェン/男性/38歳/Aランク傭兵/警告:オプティック端末の個人情報、閲覧不可】
視線を切り、奥へと向かう。
ザ・ラボとの契約を破棄して逃走中の身である以上、正規のルートで仕事は請け負えない。ニューヨークの裏社会では、闇掲示板のIDと紐づけられた『傭兵ランク』がすべてを支配していた。
報酬の跳ね上がるA〜Bランクの仕事はアッパーやミッド・ティアに限られ、名声のないCランク以下にはロウワー・ティアのドブさらいのような仕事しか回ってこない。
だが、サイモンがスポンサーを務めるハイヴ・ギルドの掲示板は別だった。アマディオのように実力はあっても名声のないはぐれ者に対し、リスクに見合う高額なギグを斡旋してくれるのだ。
重い鉄扉を開け、サイモンの極秘ハッカースペースへ足を踏み入れる。
青白いモニターの光が蠢く部屋の中央で、回転椅子に座ったサイモンがアマディオを出迎えた。
「来たな、相棒」
「……前置きはいい。仕事の話をしろ」
「焦んなよ。だが……その焦りは嫌いじゃないぜ」
サイモンは回転椅子を止め、真顔になってアマディオを凝視した。
「いいか、アマディオ。お前とリサの身体は、今この瞬間も崖っぷちに向かって走ってんだ。金を稼いで、まともな飯を食い、高度な医療設備を備えた施設を確保しなきゃ、遠からず二人まとめてくたばる。トップランカーになって、リサを匿いきれるだけの城を築け。俺のギルドをそのための踏み台にしろ」
サイモンは手元の端末を操作し、データをアマディオのオプティックに転送した。
「取っておきの仕事だ。任務内容は車列襲撃。ターゲットはエシュロンの下請け企業、アーク・フード社の役員『ヴァーノン・グラス』だ。奴は粗悪で重金属に汚染された廃棄物食料をロウワー・ティアに流し込んで利益を貪ってる。ギルドを通した契約だから報酬にも色が付くし、エシュロンの面を汚す仕事なら尚更だ」
「目的は?」
「二つだ。車列を叩いてエシュロンの運ぶ金を強奪すること。そして、ヴァーノン・グラスの排除。エシュロンの関連企業をこのシマから追い出せば、俺たちの純正食料がスラムに行き渡り、ギルドの利益率も跳ね上がる……双方にとって得しかない話だろ?」
アマディオは迷うことなく電子契約書をダウンロードし、傭兵IDで承認を行った。
* * *
銀のAudi A7が、ロウワー・ティアの荒廃した往来を駆け抜ける。
テールランプの紅い光が、濡れたアスファルトと廃墟群を怪しく照らしていた。
『目標の通過ルートは廃墟地帯だ。人目につかない場所で、現地のギャングと不正資金の洗浄を行うつもりらしい』
通信越しにサイモンの声が響く。
「……配置に着いた」
アマディオは車を止め、廃屋となった元果物店の店内へ潜みこんだ。
携帯端末を取り出し、路地の監視カメラをハッキング。指向性マイクの音声をオプティックの聴覚モジュールに同期させる。
やがて、黒塗りの車列が停止し、高級スーツを着た男――ヴァーノン・グラスが降りてきた。同行する役員との会話が拾われる。
『――しかしグラス課長、ニューヨークの実権を握っているのはエシュロンです。新合衆国政府の影など今さら……』
『甘いな。奴らは復権を狙っている。最近、我が社へ妨害工作を仕掛けている極右組織「コロンビア人」……背後にはCIAがつき、革命を煽って利権を奪い返そうとしているのだ』
『バカバカしい、都市伝説でしょう』
『ふん、まあいい。では「仕事」を終わらせよう』
グラスが手を挙げると、警備兵たちが車から数人のスラム住民を引きずり下ろした。
『ぼ、僕たちを殺すのか! エシュロンめ! 僕たちの金を返せ! 僕たちから奪ったデータを返せ!』
その時、闇の奥からゆっくりとした足音が響いた。
「そうだ。お前たちから搾取した」
姿を現したのは、洗練されたトレンチコートを纏う男――エシュロンの総帥、ディレクター・ケインだった。
『え……!? ディレクター・ケイン……!? なぜここに……』
グラスが狼狽する。ケインは淡々とした足取りで歩み寄ると、静かに口を開いた。
「グラス課長。なぜ合衆国政府は権力を失ったと思う?」
『は……21世紀初頭の「暗黒の10年」です。要人暗殺、民衆弾圧、テロの激化……政府の信用は失墜し、国家統制は我がエシュロン社に委託されました』
「その通りだ。そして今、我が社もまた同じ過ちを犯そうとしている。電脳化とナノマシンによって人類は自由を得た。だがその結果生み出されたのは、野蛮なクリプト・アナーキズムと、支配への拒絶だ。この時代を正常化するために必要なのは……もう一度のハード・リセット、すなわち核戦争だ」
ケインは胸元から古典的な〈M1873〉レバーアクション銃を引き抜いた。
「旧時代の文化的遺伝子を持つ害虫ども……コロンビア人、そしてハイヴ。奴らを一掃するための核弾頭を、我々はついに手に入れたのだからな」
(核弾頭……!?)
暗闇の中でアマディオは唾を飲み込んだ。
――バァン!
ケインは容赦なくヴァーノン・グラスの胸を撃ち抜いた。
『がはッ……な、なぜ……!? ディレクター……ディレクターァァァ……!』
「君に与えた仕事はすべて敵を欺くためのカモフラージュだ。君がここで死ねば、コロンビア人の計画も再び暗礁に乗り上げる」
ケインは倒れ伏すグラスを一瞥もしないまま、引きずり出されたスラムの住民たちに向き直った。
「行け。都市下層のギャングどもよ。秩序を乱し、システムの調和を証明しろ」
住民らを解き放ったケインは、不意にアマディオの潜む廃屋の方向へと視線を向けた。
「……付近にハイヴのネズミが潜んでいる。警備兵、見つけ出して処分しろ」
ケインはそう言い残し、闇の中へと消えていった。
『アマディオ、聞こえるか!?』
サイモンの通信が入る。
『罠だ! ケインはお前たちの存在に気づいていた! 金を回収して即座に離脱しろ!』
「聞こえていたさ! この仕事自体、ケインに読まれていたんだ!」
『だが金は本物だ! お前にはリサを救うための資金がいるんだろ!? 目の前のチャンスを捨てる気か!』
「ちっ……クソが!」
ドローンのモーター音が近づき、赤外線レーザーが廃屋の内部を走る。
赤外線がアマディオを捉えた瞬間――
『被疑者を捕捉――』
アマディオの視界が極限まで加速する。リサとの同期によって引き出される、異常な動体視力と反応速度。1秒が永遠のように引き伸ばされる。
引き金を引く。一発。ドローンが火花を散らして撃ち落ちた。
「いたぞ! 射撃開始!」
直後、MP7の徹甲弾流が廃屋を蜂の巣に変えた。木屑とコンクリート片が舞い散る。
「……やったか? 確認してこい!」
「俺が行きます」
警備兵の一人が警戒しながら店内へ踏み込む。
静寂。足元に転がる破壊されたドローン。
警備兵が振り返ろうとした瞬間――暗闇から跳び出した影が、その間合いを潰していた。
――ジャギン!
展開された特殊ステンレス警棒が、鋭い一撃となって警備兵の顎を砕く。
「かはっ――」
崩れ落ちる敵から銃を奪い取ると同時に、アマディオは携帯のハックコマンドを起動した。
【実行:エリア停電】
――バチバチバチッ!
一帯の電飾と街路灯が一斉に弾け、完全な暗黒が路地を支配した。
「な、なんだ!? 停電か!?」
「敵はハッカーか!?」
「ソロの傭兵だよ! 例の『ファントム』って!」
悲鳴と錯乱の銃声。だが、暗視モジュールを補正したアマディオにとって、暗闇は自身の領域だった。
消音されたM1911の発砲音が闇に溶け込み、一人、また一人と警備兵が泥の中に倒れていく。
「ひ、ヒィっ……見えない! 助けてくれ!」
やがて非常電源が復旧し、青いサイレンの光が路地を照らしたとき、立っていたのは最後の一人だけだった。足元には全滅した同僚の死体。
「お、お前は……何者なんだ……!?」
恐怖に震える警備兵の額に、ガバメントの銃口が突きつけられる。
「俺は――ファントムだ」
――パァン。
乾いた一砲が静寂を切り裂いた。
アマディオはグラスの乗っていた車両から金塊と紙幣の詰まったブリーフケースを回収すると、追っ手が到着する前に銀のAudi A7へと滑り込み、闇の中へと消え去った。
* * *
翌朝。高層ビルの影に遮られ、陽光の届かないネオ・ハーレムの片隅。
アマディオとリサは、信頼できる闇医者の路地裏クリニックにいた。
心電図と脳波モニターの電子音が規則的に響く中、老医者は興味深そうにリサのプロファイルデータを眺めていた。
「超心理学……プロジェクト・アリスの被検体か。彼女の脳OSは通常の人間とは根本的に異なる。量子コンピュータに匹敵する演算領域が形成されているな」
「……何が異なるんだ?」
アマディオが問いかける。
「現状、彼女の自我や知識は極めて未発達だ。だが、その代わりに『ESP』というべき特殊な知覚領域が突出している。君との生体同期も、電脳空間と現実世界を同時に知覚するノード・アクセス能力も、すべてはこのESPに起因するものだろう」
医者はベッドで静かに横たわるリサを見つめ、溜息をついた。
「問題は、彼女の肉体が『研究所の環境』を前提に作られていることだ。定期的な脳波の同調処理と、専用の分子栄養剤の投与……それが途絶えた今の状態では、彼女の身体は内側から急速に衰弱していく」
「……俺の命も、彼女と繋がっている」
「ああ。リサが倒れれば、共生している君の脳も耐えきれず焼き切れる。二人とも……猶予はないぞ」
医者は自嘲気味に首を振った。
「専用の栄養剤を入手し、完全密閉型のクリーンルームで長時間の処置を行う必要がある……だが、ここロウワー・ティアのドブ街じゃ逆立ちしたって不可能だよ。せめてネオ・マンハッタンの最高級医療施設でも買収しない限りは」
金。結局のところ、すべては圧倒的な力と、金に行き着く。
アマディオは拳を固く握りしめ、静かに眠るリサの青白い顔を見つめた。
「……手立てはあるはずだ」
「そうだな。生き残れよ、アマディオ。お前と、その娘の命のために」
アマディオはゆっくりと立ち上がり、ジャケットの襟を立てた。




