36-リサ/Lisa
恩師であり、同時に宿敵でもあったガレス・オブライエンの息の根を止めたアマディオは、赤く濡れた自らの手を見つめたまま、しばらく動くことができなかった。
狂気じみた銃撃戦の余韻が残る潜水艦『アーク』の狭隘な回廊。
もはやアークは、巨大な移動海上要塞と化していた。非常用の赤い警報灯が、明滅を繰り返しながらアマディオの無骨な横顔を血のような赤で染め上げている。
胸を押し潰すのは、勝利の達成感などではない。底なしの激しい後悔と、果てのない虚無感だった。
重い足取りで、アマディオは潜水艦の最深部――マザーフレームを目指して歩みを進めた。
金属床を踏み鳴らす彼の歩みに合わせるように、一羽の青い蝶が闇の奥から立ち上り、後ろからふわりと彼を追い抜いていく。
まるで、迷える亡霊を導く道しるべのように。
青い光を引いて飛ぶ蝶の羽ばたきを見つめながら、アマディオの意識は己の歩んできた血塗られた半生へと沈み込んでいった。
研究機関『ザ・ラボ』のエージェントであるサマラと交わした残酷な傭兵契約。
かつて新合衆国陸軍の一兵卒として、国家という巨大な機構の歯車に過ぎなかった日々。
ガレスに見出され、ハイテク特殊部隊『KANINE』の空挺隊員として、感情を殺して凄惨な暗殺任務に身を投じた泥沼の戦場。
さらに記憶は遡る。
下層街の薄汚れた孤児院で、サイモンと出会った幼少の記憶。
身を寄せ合い、冷え切った夜を温め合った仲間たち――スパークやノヴァと過ごした温かな日々。
フィクサーであるライルとの危険な出会い。
刃を交え、死闘の果てに互いを認め合ったセッカとの絆。
そして……無機質な部屋で出会い、ただの保護対象から、いつしか己の生きる意味そのものとなった少女、リサの面影。
数々の出会いと、それ以上に多くの死。
散っていった者たちの遺志と怨嗟が、いまやアマディオという肉体を形作る唯一の重みとなっていた。
* * *
リサが繋がれているであろう最深部の重厚な隔壁の前に到達した瞬間、耳元の通信器からサマラの悲痛な声が滑り込んできた。
『聞こえる、アマディオ……!? エシュロンの主力部隊が公式に降伏を宣言したわ。あなたの役目は……ディレクター・ケインの野望を挫き、リサを取り戻すことだけ。ケインの身柄は、追いついた合衆国正規軍が即座に拘束するわ』
「リサは……要塞艦のマザーフレームに囚われている。この巨大な艦の制御系として負荷を掛けられ続けているんだ。さっきの……大型兵器『メドゥーサ』を破壊した衝撃も、彼女の脳神経に破滅的なダメージを与えたはずだ……このままでは、俺も彼女も命がもたない」
『諦めないで! 私もいま、正規軍の強襲艇でそちらへ向かっているわ。あなたたちを絶対に死なせはしない……! だから、お願い……なすべきことを果たして!』
「了解した……感謝する、サマラ」
通信を切ると同時に、アマディオは全身の力を右脚に込め、最深部のセキュリティ扉を力任せに蹴破った。
――バァンッ!!
破断した鋼鉄の扉の向こう、幾重もの生命維持チューブと電子ケーブルが絡み合う中央演算系室の中央に、リサの生体槽が鎮座していた。そしてその直下に、すべての元凶であるディレクター・ケインが力なく膝をついている。
「ケインッ!!」
「ジョシュア・アマディオ……! 我が創り上げた完璧な世界の秩序に侵入した……たかが不完全なバグふぜいが……ッ!」
ケインは膝をついたまま激しく吐血し、狂気と無念に満ちた瞳でアマディオを睨みつけた。
「……アマディオ、教えてやろう。第二次世界大戦の終結以降、なぜこの世界が決定的に歪み始めたかをな! 世界中の愚民どもは、ファシズムへの勝利を『民主主義』の勝利だと甘美に錯覚した! それこそが最大の破滅の始まりだったのだ! だからこそ、私が再び『真のアメリカ』による支配を確立せねばならなかった……そのための礎が『プロジェクト・アリス』だッ!!」
ケインは血反吐を散らしながら、絶叫を続ける。
「この移動要塞艦『アーク』と、守護神たる『メドゥーサ』、そして艦底に眠る戦術核……これら絶対的な力が存在して初めて、我ら企業の帝国は不滅となる! 耳障りの良い偽りの平和などではない! 圧倒的な力による『真実の戦い』こそが、この混沌とした世界を正しく統制し、ひとつに束ね上げるのだァッ!!」
胸を逸らし、虚空に向かって手を伸ばすケインの姿は、すでに正気を失った狂信者のそれだった。
「私のシステムこそが世界を正しく導く! アメリカを苛む最大の敵は、軟弱な民主主義そのものだ! 我がエシュロンの牙城を崩すということは、貴様自身が愛したアメリカという国家の命運をも永遠に食い潰すことを意味するのだぞッ!」
「そうかもしれないな」
アマディオは銃口を下げず、足音を忍ばせてケインへ一歩ずつ近づいた。
「だが、貴様が築き上げた帝国の裏で、どれほど無残に踏みにじられた命があったか、俺はこの目で見届けてきた……まだ、やり直せるはずだ。一人の傷ついた少女を救い出すことくらいはな。リサを今すぐ解放しろ」
「無駄だ! リサはもう人間に戻ることなどできん……! あの小娘は、お前たち『生きる兵器』を完全に統制するためだけに作られた、ただの生体制御ユニットに過ぎないのだからな!」
ケインは懐から暗号化された小型の起動端末を引っこ抜いた。
「アークに搭載されていた戦術核はすでに最終発射シークエンスに入っている! 私がこの端末のスイッチから指を離せば、この要塞艦ごと自爆プロセスが起動する……! だが、再建の地となるこのニューヨークを焦土に変えるのは本意ではない……どうだ、取引をしないか?」
ケインの瞳に、不吉な交渉の光が宿る。
「お前が死んだガレスに代わり、第二の『メメント・モリ』となれ。我が帝国の敵を排除し、エシュロンによる新秩序の基盤を再び完璧なものにするのだ」
「――断る」
アマディオの低い声には、微かな迷いすら存在しなかった。
「俺は、国家や企業のために戦ってきたわけではない……俺の『親愛なる隣人』を守るために、ここに立っている。政府や企業の不正を常に見張り、一線を超えた悪に裁きを下す。お前みたいな腫瘍は、俺が取り除くッッッッ……! ……俺は、ヴィジラントだッッッ」
「……そうか。ならば、選ぶ道はひとつだ」
ケインが不敵に口端を歪め、壁面の大型モニターを指し示した。
そこに映し出されていたのは、アンダー・クロフトの生中継映像だった。
先ほどアマディオが完全に破壊したはずの超大型歩行兵器『メドゥーサ』が、火花を散らしながら再びその巨体を立ち上がらせ、アメリカ政府軍の戦車隊を次々と踏み潰している凄惨な光景。
「な……なぜだ!? あの機体は破砕したはずだ……!」
「言ったはずだ、あれはリサの脳神経と直結した自動兵器だと……! あの子の脳が物理的に焼き切れん限り、彼女の常軌を逸した演算能力が何度でもあの悪魔を再起動させるのだ! ……行け、メドゥーサ! 戦術核を装填し、発射せよッ!!」
ケインが狂気の高笑いとともに、制御端末のボタンを強く押し込んだ。
「や……やめろォォォォォッ!!」
直後――アマディオの『キンバー1911』が激しい咆哮を上げた。
一射目がケインの右腕を砕き、端末が宙を舞う。間髪入れずに放たれた二射、三射目がケインの両膝を正確に撃ち抜いた。
「ぐっ……あぁぁぁぁぁっ!?」
激痛にのたうち回り、床へ崩れ落ちるケイン。だが、男は血の海の中で薄汚い歯を剥き出しにして笑い続けた。
「はは……ハハハッ! 貴様の負けだ、アマディオ……! 私が倒れようとも、志を継ぐ者が必ずや帝国の再建を成し遂げる! そして今宵……このニューヨークの地は、美しきグラウンド・ゼロとして生まれ変わるのだッ!!」
「クソッ……! サマラ、聞こえるか……! 核が……発射されてしまう!」
頭痛に顔を歪めながら、アマディオは通信ノードへ叫んだ。
『冷静になって、アマディオ! メドゥーサが弾頭を完全に装填するまで、まだわずかなタイムラグがあるわ! 今すぐリサを生体槽から引き抜き、そこから脱出して……ッ!!』
「……わかった……!」
アマディオは血だまりの中でのたうつケインを踏み越え、ガラス体で覆われた生体槽へと必死に手を伸ばした。
だが――その指先がリサの頬に触れようとした、その刹那。
限界を超えて焼失した脳神経の拒絶反応により、アマディオの身体から一切の感覚が消失した。
糸が切れた人形のように、彼の巨体は無機質な床へと崩れ落ちていった。
「……え――――――」
* * *
――数時間後。
移動海上要塞『アーク』および大型歩行兵器『メドゥーサ』はすべての機能を停止し、追いついたアメリカ新政府軍の主力部隊によって完全に制圧された。
見苦しく憎しみの雄叫びを上げるディレクター・ケインは手枷を嵌められて連行され、深緑の野戦服を着た正規軍人たちが、漆黒の装甲を身にまとったエシュロンの残党兵らを次々と収容していく。
激しい雨が降り注ぐネオ・マンハッタンの港湾エリア。
停車した軍用トラックの幌の内部に、アマディオとリサの姿があった。
致命的な脳神経破絶を起こしたアマディオは、トラックの細い座席の上に静かに横たえられていた。
その傍らで、リサはアマディオの頭を己の膝の上に優しく乗せ、慈愛に満ちた瞳でその眠り顔を見つめ続けている。
リサの姿は、柔らかな淡い光の粒子に包まれていた。それはすでに肉体を持った人間というよりは、この世にとどまる純粋な霊体に近いものだった。
「……リ……サ……?」
重い瞼を開いたアマディオの視界に、光を纏う少女の姿が映り込む。
「……ずっと、リサはあなたのすぐそばにいたのよ」
「……何を……言っているんだ……?」
「あなたの瞳を通して、この冷たい世界を見つめていたの。あなたの強い意思が、私の心の中に流れてきた……でも、それはとても暖かくて、優しい心地がしたわ」
アマディオの混濁する意識の中で、リサの声だけが穏やかに響く。
「……リサは、とても罪深い存在です。あの時……あなたの目の前で命を落としたあなたを、私の力で強引に呼び戻してしまった……本当は、ただ自由になりたかっただけなのかもしれない。でもね、あなたの想いに触れて……あなたの命が続いてほしいと、心から願ってしまったの」
リサの唇が、ゆっくりと弧を描いた。
それは出会ってから今まで、彼女が見せたことのない、聖母のように気高く美しい微笑みだった。
「一緒に過ごした時……あなたの話も、たくさん聞かせてもらった。あなたの心の中も……全部覗いちゃった……ふふ、アマディオ、最初はリサのこと、あまり好きじゃなかったでしょう? でも……誰よりもリサのことを心配してくれていた。自分のためなんかじゃなく……」
アマディオは胸を締め付けられるような痛みに耐え、歯を強く食いしばった。
「自分のためじゃないなら……一体何のためだって言うんだ……」
「あなたの精神の奥深くに触れて、はじめて分かったの。あなたがリサを想ってくれていた理由……そのあたたかな光の正体は……『慈しみ』の心だったんだね」
「慈しみの……心だと……? リ……サ……違う……俺は、ただの血塗られた人殺しだ……」
「……うそをつかなくてもいいよ、アマディオ……もう、銃を握らなくてもいいの」
リサはそっと顔を近づけた。艶やかな黒い長髪が、アマディオの頬を優しく撫でる。
「あなたの中には、いつだって深い慈しみがあって……その心が、たくさんの温かな『絆』を繋いできたの。あなたの心で、世界を見回してみて。あなたの周りには、あなたを愛してくれる人たちが……こんなにもたくさんいるんだよ」
限界を迎えたアマディオの瞼が、重く閉じられようとしていた。
「……リサとアマディオを結んでいた糸が解けてしまったから……残されたお別れまでの時間は、あと半年くらいかな? ……でも、あなたならきっと、最高に満ち足りた時間にできる」
静まり返ったトラックの荷台。
どこからか迷い込んだ一羽の青い蝶が、アマディオの胸の上に静かに羽を休めた。
リサはそっと顔を伏せ、アマディオの乾いた唇に、暖かな口づけを重ねた。
「さよなら、アマディオ……大好きだよ」




