32-血塗られたダイヤモンド
ブラックウォーター・パークへの総力戦を目前に控えた夜、サイモンが行方不明になった。
とはいえ、それはパッチの仲間たちにとってはよくある日常に過ぎなかった。
酒癖の悪いサイモンは、己の過去や重圧に耐えかねて泥酔すると、放浪癖を起こしてフラリと路地裏へ消えていく。
そして大抵、三日もしないうちに通信ノード越しに泣きついてくるのがお決まりだった。
『助けてくれ……アマディオッ!』
アマディオは救難信号の警報が鳴る前から、既に装備の点検を終え、出撃の準備を整えていた。
「どこにいる」
『ミッド・ティアの四番街だ……頼む! 助けてくれ……!』
アマディオは奪取したVTOL機のスロットルを押し込み、暗雲と粉雪が垂れこめるミッド・ティアの夜空へと飛び立った。
* * *
ミッド・ティア、四番街――ネオ・ブルックリン地区。
高層ヘリポートに降り立ったアマディオを、湿り気を含んだ冷気と、色鮮やかなホログラム広告の残光が出迎えた。
サイモンの生体データが途絶えた座標は、街の深部にひっそりと暖簾を掲げる違法ナイトクラブを指し示している。
そこは、欲望と逃避が渦巻く混沌の場所だった。
ロウワー・ティアがスカベンジャーやハイヴの死に物狂いな生存闘争だとすれば、ミッド・ティアには『中途半端な豊かさ』ゆえの退廃が蔓延している。
企業の裏雇われ傭兵、小規模ギャングの構成員、日々の労働に擦り切れた平凡な市民――あらゆる人間がここに集い、脳内に直接快楽物質を流し込む違法デジタル・トリップに身を投じていた。
ドアマンのサイバネ兵を鋭い一瞥で牽制し、アマディオはクラブの奥へと足を踏み入れた。
重低音が重く鼓膜を揺らす薄暗いフロアのボックス席。サイモンはそこにいた。
頭に大型のVRゴーグルを装着し、よだれを垂らしながらカウチの上で死んだように伸びている。
「サイモン、おい。起きろ」
応答はない。アマディオはサイモンの顔面から強引にゴーグルを引っぺがすと、その煤けた頬を容赦なく二、三度叩いた。
「……あ……アマディオ……?」
焦点の定まらないサイモンの瞳が、アマディオを捉えた。その顔には生気がなく、激しく衰弱している。
「死にたい気分だよ、アマディオ……」
サイモンはカウチから転げ落ち、濡れた床に這い蹲った。
「最後の……最後のチャンスを逃したんだ……」
「チャンス? 何のだ」
「俺の……俺のすべてを取り戻すためのチャンスだッ! あれさえ……あの金さえ手に入れれば、パッチを立て直せた! スパークやノヴァだって、俺のもとへ帰ってきたはずなんだ……!」
アマディオはサイモンの端末から溢れ出ていた暗号化データを拾い上げ、視界のオプティックで高速解析した。
「これは……密輸されたダイヤモンドの情報か?」
「そうだ!! 金さえあれば……金さえあれば俺はッ……死にたい……もう死にたいよ……!」
地面を血が出るほど爪で引っ掻くサイモンを見下ろし、アマディオは静かに言った。
「サイモン、落ち着け。資本主義などまやかしだ。金があっても、一度失ったものは二度と戻らない」
「……俺に金さえあれば!!」
サイモンは血吐くような悲痛な叫びを上げた。
「俺に金さえあれば……奴隷として売られた妻と娘だけは……買い戻せたかもしれないだろ……ッ!?」
その叫びが、静かにアマディオの胸を突いた。
「……わかった。そのダイヤモンドを追跡してやる」
アマディオはステルスアーマーの紐を引き締め、踵を返した。
* * *
クラブを出ると、積荷の経路データを視界に描いた。
ミッド・ティア四番街の視界は、上層から吹き降ろす激しい粉雪によって白く遮られていた。
「……雪か」
ふと、VTOL機内で身体を寄せ合ったセッカの顔が脳裏をよぎる。
彼女の声が、耳奥でリフレインした。
リサと離れ離れになってから、実に二ヶ月が経過しただろうか。
企業との傭兵契約から始まった生活。リサとの無機質で温かな共同生活。
フィクサー連合のエージェントへの転身、そしてアメリカ政府の暗闘への加担。
そして今、俺は傷ついた仲間一人のために、再び銃を握り締めている。
路地裏を加速して進むと、そこはネオンの途切れたギャングの縄張りだった。
アマディオは右手に『キンバー1911』を抜き、左手には逆手に軍用ナイフを握った。身体を極限まで低く屈め、ガン・フーの構えをとる。
遮蔽物の影から滑り込むように敵陣へ肉薄。
気配に気づいたギャングが銃口を向けるより速く、ナイフの柄頭で相手の顎を砕き、頭部へ.45ACP弾を叩き込む。
そのまま跳ね返る反動を利用して背後の兵士の胸元に刃を突き立て、軸足にして反転しながら残りの二頭へ必殺の射撃を叩き込んだ。
一瞬の静寂。崩れ落ちる敵兵たち。
だが、ここにもダイヤモンドの現物はない。アマディオは血を払い、さらに奥の物流経路へと踏み込んでいった。
整然とコンテナが並ぶ、ブロック状のミッド・ティア工業団地。
空を旋回する警戒ドローンの赤外線レーザーを紙一重で回避し、アマディオは構内に潜入した。
エンジン音を響かせる大型トラックの荷台の下へ滑り込み、呼吸を殺して巡回兵の足音をやり過ごす。
トラックが去ると同時に、構内の地下搬入口へと降り立った。
そこには、凄惨な銃撃戦の痕跡が残されていた。壁には無数の弾痕と、ギャングおよび企業兵の死体が転がっている。
(交戦が終わってから、まだ時間が経っていない……)
生々しい血痕が、黒く濁った汚水が流れる下水道へと続いていた。
浸水した足元を泥にまみれさせながら、アマディオは進む。
音を殺し、闇を切り裂いて下水道を通り抜けると、そこはミッド・ティアの緩やかな丘陵地帯に作られた人工公園に出た。
管理されたわずかな木々と合成芝生。
幾何学的なモニュメントの根元に、一人の男が倒れ込んでいた。黒い野戦服に身を包んだ、企業兵の生き残りだ。
「……サイモンの使いか」
腹部を血で染めた企業兵が、掠れた声で笑った。
「あいにく……お前が欲しいものは、俺は持っていないぞ」
「教えてくれ。俺の仲間がそのダイヤモンドを欲しがっている」
「……フン、あれは『呪いのダイヤモンド』だ。もとはヨーロッパの奴隷商人の私財だったのさ」
ヨーロッパの奴隷商人――アマディオの脳裏に、あの『ホテル・デュー・シエル』で身代わりとなった悪党クリスピンの顔が浮かぶ。
「その商人がアメリカに本拠を移すにあたって、ダイヤだけが遅れて密輸された。だが……ロウワー・ティアの港で何者かに盗まれた。元を辿れば、ブツを掠め取ったのは『ハイヴ・ギルド』の傭兵どもだ……サイモンはずっと、その盗難事件に一枚噛んでいたんだよ。ダイヤを奪い、それをダミーにして、商人と妻子の買い戻しについての取引を持ちかけるためにな……」
男は途切れ途切れに語った。
サイモンの妻子は昔、企業の拉致部隊に浚われ、奴隷としてヨーロッパへ売られたのだと。
下層の人間は、いつだって企業のオークションや内臓売買の標的にされる。
「だからサイモンは……力のない弱者が寄り添い、生き延びるための盾として『ハイヴ・ギルド』を設立したんだ。弱者も群れれば、捕食者に対抗できるとな……」
そして男は死の淵で吐き捨てた。
サイモンは今年、奪ったダイヤモンドを手札に、妻子の奪還取引に打って出た。
だが取引は破局。サイモンが雇った野良傭兵、ヨーロッパの商人が差し向けた企業兵、そしてダイヤの噂を聞きつけたギャングどもが入り乱れる血の惨劇となり、全滅したのだと。
「……ダイヤを抱えて逃げた最後の男が……そこの公衆トイレに隠れている。蹴りをつけろよ……俺は雇い主にどう言い訳するか……考えるとするさ……」
男はそこで力尽き、ガクリと首を垂れた。
* * *
冷たい粉雪が舞い散る中、アマディオは公衆トイレの錆びたドアを押し開けた。
床に引かれた血痕は、一番奥の個室へと一直線に続いている。
言葉は要らなかった。
アマディオは背中から『ネゲヴ・コマンド』を引き抜くと、躊躇なく個室の薄いドアへ向け、重厚な火線を打ち込んだ。
――ドガガガガガガガガッ!!
ドアを穿ち、激しい金属音とともに中に潜んでいた男を蜂の巣に変える。
煙が充満する個室の扉を足蹴にして開けると、倒れた男の血塗られた手から、一粒の巨大なダイヤモンドが転がり落ちた。
ホログラムのネオンを反射し、禍々しく黄金色に輝く石。
アマディオはそれを拾い上げると、通信ノードを開いた。
「サイモン、俺だ……ダイヤモンドを回収した」
『……ありがとう……』
ノードの向こうから、サイモンの擦り切れた声が聞こえる。
『だが……俺の妻子は……もう戻らない……』
激しい咽び泣きが混ざり込む。
『俺はずっと……自分を責めていたんだ。下層出身の薄汚い貧乏人が、あの美しい子を好きになったのが間違いだった。妻子に捨てられたんだってな……! だが違った……彼女は俺を裏切ってなんか知らなかった! 全てはエシュロンの……権威の下の犯罪ビジネスのせいだ。奴らは、裏社会に資金を流している。お前だって……見てきたはずだ……ッ!』
サイモンの絶望が、冷たい通信線を震わせる。
『必死に生きて、真っ当なやり方で幸せを掴もうとしても……企業は平然とそれを踏みにじり、奪い去っていく! このダイヤモンドは……奴らと取引するための、俺の最後の希望だったんだ……こんなちっぽけな石ころ一つで、俺の愛した家族が買えるはずだったのに……!』
サイモンは問いかけてきた。虚空に向かって助けを求めるように。
『俺は……これからどうすればいい、アマディオ……? 死んだ奴らの顔が、このダイヤモンドの輝きみたいに目に焼きついて離れないんだ……! 妻も娘も、売られた先でとうの昔に死んでいたと知って……俺は、俺は……』
手のひらの中にあるダイヤモンドを、アマディオは強く握りしめた。
角が皮膚に食い込み、微かな痛みが走る。
「サイモン……俺は誓う」
アマディオの低い声には、もはや一切の迷いはなかった。
「俺は、リサを取り戻すためだけじゃない。自分が生き延びるためだけでもない……エシュロンが創り出したこの歪んだシステムの不正と戦う。その闇を、すべて暴いて叩き潰す。相手が企業だろうと、政府だろうと……関係ない」
『……アマディオ。あんたは……どこまでも、いい奴だな……』
ザザッ……というノイズとともに、通信が途絶えた。
静寂が戻ったミッド・ティアの公園で、アマディオは血と泥に汚れたダイヤモンドを見つめていた。
エシュロン本部『ブラックウォーター・パーク』への突入まで、あとわずか。
己の自由意志と、踏みにじられた者たちの無念を胸に、戦士は静かに夜の闇へと歩み出した。




