28-注釈『CIAのテロ幇助について』
〈PM 15:00〉――ミッド・ティア、地下駐車場。
湿ったコンクリートの匂いと黄ばんだ蛍光灯が明滅する汚れた洗面台の前に、アマディオは突っ立っていた。
蛇口から流れる冷たい水で顔を洗う。そして、濡れた手で顔を拭い、目の前のひび割れた鏡を見上げた瞬間、彼の息が止まった。
鏡に映っていたのは、自分ではない――あの少女、リサの顔だった。
あまりの不気味さに固く目を擦り、視界を振り払う。再び目を開けると、鏡の中にはいつもの酷く摩耗した己の顔に戻っていた。
だが、安堵する隙など与えられない。
胸の底から激しい排斥感が込み上げ、アマディオは洗面台に突っ伏して何度も深く咳き込んだ。口から吐き出されたのは、黒く凝固しかかった血の塊だった。
「くっ……ぐ、あああッ……!」
頭蓋の奥で、異物が暴れ回るような感覚。かつて一度焼き切れたはずの脳細胞が、ナノマシンによって強引に再構築されていく。文字通り、頭骨の中に指を突っ込まれ、脳味噌をかき混ぜられるようなおぞましい蠢動。
自身のオプティックに明滅する、緋色の生体アラート。今やこの都市の人間なら誰もが体内に巡らせているナノマシン――だが、己の肉体の中にあるそれは治療のための装置などではない。宿主の遺伝子構造を書き換え、内側から食い尽くそうとする『寄生虫』だった。
そして、エシュロンの超心理学研究が産み落とした悪夢の結実――プロジェクト・アリスの被検体『リサ』。
彼女が秘める圧倒的な力は、『オーグメンテッド』という言葉を単なるサイバーウェアの装飾やハッタリから、真に人間を進化・超越させた存在へと昇華させるものだった。
「奴らは……エシュロンは、なんて技術を作ってしまったんだ」
サイバネティクスによる肉体の置き換えなどではない。既存の常識と生物学的限界を根底から破砕する本物の進化。
「――うッ……ぐえッ、うぁあッ……!」
耐え難い拒絶反応が全霊を打ちのめす。肉体の所有権が、指の先からゆっくりと剥ぎ取られていく。
ジョシュア・アマディオという人間の存在が、あのリサという少女の遺伝子コードによって不可逆的に上書きされていく恐怖。
その時、アマディオの瞳孔が、妖しく青く発光した。
視界が歪み、再び見上げた鏡の中に現れたのは――リサではなかった。冷ややかな嘲笑を浮かべた男の顔。ガレス・オブライエン。あの死神、『メメント・モリ』の残影だった。
* * *
翌朝――〈AM 05:59〉。
荒い吐息と共に目を覚ましたアマディオの容態は、どうにか落ち着きを見せていた。だが、胸の奥で渦巻く不吉なざわめきだけは、どれだけ時間を置いても消えることはなかった。
重い鉄製の扉がキシりと音を立てて開き、ライル・シェンが部屋へと入ってきた。
「酷いうなされようだったぞ、ファントム。昨晩、重大な仕事の話をしに来たというのに、出直す羽目になった」
ベッドの上に身を起こし、汗に濡れた髪をかき上げながらアマディオは低く答えた。
「わかってるだろ。俺の時間は……もう残り少ない」
「だからこそ連れてきたのさ」
ライルは振り返り、廊下に向かって声をかけた。
「サマラだ。彼女が君に付きっきりで、その歪んだ身体の『メンテナンス』を引き受けると申し出ている。どうだ?」
「……今は、何にでも縋りたい気分だ」
「よし。入れ、サマラ」
扉の向こうから、白衣を羽織ったサマラが静かに入室してきた。彼女は迷いのない手つきで畳み式のパイプ椅子を広げると、アマディオのベッドの脇に腰掛けた。
そして、彼女の背後に影のように続いて入ってきたのは――過激なタトゥーと白いおかっぱ髪の少女、ミオラ・シェンだった。
アマディオはミオラを見つめ、ライルに目を向ける。
「お前の妹か」
「ミオラは腕利きのハッカーだ。ニューヨークの都市ネットワーク全域で立ち回れる。君がエシュロンという巨人を引きずり降ろすには、絶対に欠かせない人材だよ」
ミオラはどこか居心地悪そうに立ち尽くしたまま、短く呟いた。
「……よろしくナ」
サマラは会話に気を取られることなく、淡々と診断用プラグを取り出すと、アマディオの無骨な胸元へ取り付けていった。インジケーターが青く点滅を始める。
「時間はないわ、アマディオ。私の弾き出した計算によると……あなたに残されているのは、あと半年。いい? あなたはあと半年の命よ」
冷徹な余命宣告。アマディオは、自身の体に次々と診察器具を接続していくサマラの手首を、力強く掴んで止めた。
「お前の研究のための被検体になるつもりはない。教えてくれ、解決策を。お前は安全に、俺とリサの接続を切る方法を知っているはずだ。そうだろ?」
サマラは手首を掴まれたまま、感情の起伏を感じさせない黒い瞳でアマディオを真っ直ぐに見つめ返した。
「……リサは救えるわ。でも、あなたは違う。あなたはあの時、一度死んだのよ。その事実をまずは受け入れなさい。接続を解除し、全ての問題を解決させた上であなたに与えられる残された時間――それこそが、半年のタイムリミットなのよ」
嘘をついていない。彼女はただ、残酷なまでの事実だけを提示している。アマディオは掴んでいた手をゆっくりと緩めた。
「俺に待っているのは少しずつ機能が停止していく静かな死。そういう事か?」
「……残念だけど。そうよ」
* * *
その時――ギギギ、と遅れて部屋の扉が開いた。
そこに立っていたのはセッカ・ザ・ラビットだった。
「あらあら。その女は誰かしら? えらくいいご身分じゃない、ファントム」
セッカの皮肉めいた乱入に、ライルの表情が一気に険しくなった。
「ラビット……これはただの利害の一致だ。だが、君の所属するあのクソコーポに、この場所の情報を売りつけるような真似はするなよ?」
「ハッ……誰がそんなこと。あんたみたいな胡散臭い男と一緒にしないでくれる? あんたの経歴を洗いざらい調べ上げて驚いたわよ、ライル。ただの小悪党かと思ってたら……あんたの本当の雇用主は……」
ライルの手が、ジャケットの裏――腰のホルスターへと滑りかけた。だが、彼はその動作をコンマ数秒で踏みとどまり、大袈裟な咳払いをしてみせた。
「止せ。俺の口から言う」
ライルは胸ポケットから重厚なIDバッジを取り出し、掲げてみせた。
「俺の真の雇用主は……『新アメリカ合衆国』政府そのものだ」
バッジに刻まれた鷲の紋章とCIAの刻印。
「俺は、CIA工作員としてアメリカ政府の命令に従って動いている。潜入先はチャイナタウンのギャング、東欧系マフィア、エシュロン、そしてフィクサー連合……数え切れん。君とコンタクトを取って以来の『連日の契約』――あれはすべて、エシュロンの資金源やインフラに深刻なダメージを与え、奴らを表舞台へ引きずり出すための緻密な布石だったんだ。そして目論見通り、エシュロンはついに動いた」
アマディオはベッドの上からライルを鋭く睨みつけた。
「……最初から俺を利用していたわけか」
「お互い様さ。俺は『調停者』として観測者のデータに従い、君は『執行者』として牙を振るった。スパークとノヴァの死は痛ましいアクシデントだったが……今、この部屋に揃ったメンバーこそが、アメリカ政府と俺が描いたエシュロン打破作戦を完遂するための『最後の鍵』なんだ」
ライルは胸ポケットから、重厚なホログラム仕様のIDカードを取り出し、アマディオの前へ放り投げた。
「次のターゲットだ。これはアッパー・ティアの超一等地……『ネオ・マンハッタン』への最高級偽造パスポートだよ」
「……ネオ・マンハッタン?」
「最高級ホテル『デュー・シエル』。そこで近々、特別代替大統領――ディレクター・ケインの講演会とVIP限定のディナーパーティーが開催される。ケインはエシュロンの経営者だ。アマディオ、君の任務はパーティーへ潜入してディレクター・ケインに接近し、彼が所有するエシュロン・タワーの電子キーを強奪することだ」
ライルは手を広げ、部屋にいる者たちを指し示した。
「巨大要塞たるエシュロン・タワーを攻略するには、そのキーが絶対に不可欠だ。そして、今回の単独潜入作戦のために、完璧なサポートチームを組み上げた」
ライルの説明に応じるように、サマラが脇に置かれていた重厚なコンポジットケースを引き寄せ、ロックを解除した。
中に納められていたのは、鈍い光沢を放つ極限まで薄く仕立てられた漆黒のスーツだった。
「サマラ特製の『スニーキングスーツ』だ」
サマラはスーツの表面を撫でながら、静かに語りかけた。
「単独潜入用に完全密閉型の光学・熱源迷彩、電子遮蔽機能を搭載しているわ。そして何より……死に向かって急降下しているあなたの身体機能を、内蔵されたナノマシン抑制シグナルと微小アクチュエーターで強引に引き上げ、補助する仕組みを組み込んである。これがないと、あなたは潜入の途中に心肺停止を起こして死ぬわ」
アマディオは黒いスーツを見つめ、静かに呼吸を整えた。
「サポート体制はどうなっている」
「サイモンが用意したこの地下駐車場のセーフハウスを、前線司令基地とする」
ライルが整然と役割を告げる。
「サマラはここから君のバイタルデータをリアルタイムで監視し、スーツの生命維持システムを微調整する。ミオラはネオ・マンハッタンの強固なファイアウォールへサイバー攻撃を仕掛け、電子諜報戦でアマディオの動線を確保。そしてセッカ……君にはドライバーとして、作戦前後の脱出の足取りを完璧に担ってもらう」




