25-死地へ続く闇/Going Dark
アッパー・ティア。
セッカが運び込まれたのは、巨大複合企業フロンティア・アームズ社が秘密裏に契約する、フィクサー専門の隠蔽医療施設だった。
病室は無菌の白と鈍く光るクロム鋼で統一され、無機質な高級感に満ちている。
分厚い防音ガラスが外の世界の喧騒を完全に遮断し、室内を満たしているのは、バイタルモニターが奏でる規則正しい電子音と、ナノ培養液の循環音だけだった。
イザベラ・アイアンクローとの死闘による壊滅的な重傷は、最先端の生体再生医療と細胞修復パックにより、わずか数日で表面上の傷口を塞いでいた。
だが、極限状態で行った肉体の過剰出力は、彼女の生体神経系に苛烈な過負荷を焼き付けていた。
肉体が形を取り戻しても、なお残る烈痛と全身を苛む麻痺。それがセッカの自由を奪っていた。
――静かな駆動音とともに、電子ロックが解除され、スライドドアが開く。
「入るぞ」
ベッドの上で白い医療用シーツに包まれていたセッカが、ゆっくりと顔を上げた。ルビー色の瞳がアマディオを捕らえる。
「……へ、へえ……また来たんだ、物好きね」
強がりな笑みを浮かべようとしたセッカだったが、かすかに眉をひそめた。微かな運動の刺激すら、彼女の神経に激痛の電流を走らせるのだ。
アマディオは無言のままパイプ椅子を引き、ベッドの脇に腰を下ろした。
彼はフィクサーとしての依頼を最低限に調整し、リサ救出に必要な資金と情報を集める傍ら、こうして頻繁にセッカの病室を訪れていた。
イザベラ・アイアンクローとの激闘の渦中、傷ついた彼女を前に自身が流した涙――あの瞬間、アマディオが頑なに維持しようとしていた『冷徹な計算機』としての自己は打ち砕かれていた。
それでも彼は、自分に言い聞かせ続けていた。彼女の回復はリサ救出に不可欠なデータであり、合理的判断に過ぎないのだと。
「体調は?」
「……最悪よ。全身の神経を細かい針で刺され続けてる気分……あんたの顔を見たら、もっと痛くなってきたわ」
「そうか。なら神経回路の再構築が順調な証拠だ。痛覚の伝達が正常に戻りつつある」
アマディオの無表情な回答に、セッカは呆れたように小さく息を吐いた。
「相っ変わらず、味も素っ気もない答えね……」
セッカはベッドの上でゆっくりと上体を起こそうとしたが、腕の震えが止まらず、シーツの上に崩れかけそうになった。
アマディオの手が素早く伸び、彼女の細い肩を優しく受け止める。
セッカの体が小さく跳ねた。医療用のシンプルなインナー越しに、アマディオの武骨で温かい手のひらの感触が伝わってくる。
「……離してよ。自分で起きられるわ」
「無理をするな。筋肉の支配権を失った状態で動けば、バイオファイバーが断線する」
淡々と告げるアマディオの眼差しには、冷徹な言葉とは裏腹に、隠しきれない深い憂いと献身が宿っていた。
セッカはその温もりに困惑しながらも、そっと彼の胸に寄りかかる形になった。
激痛と、憎んでいたはずの男の体温。そしてどこまでも不器用な優しさに、胸の奥が締め付けられる。
「バカなヴィジラント……貴方のせいで私のデータが乱れるわ……こんな無駄な労力、私に使う必要なんてないのに」
セッカの抗議には、もはや棘はなかった。ただ羞恥と戸惑いに赤くなった頬を覆い隠すように、彼女は伏し目がちにつぶやく。
「……でも、ありがとう」
蚊の泣くような囁き。アマディオはセッカをベッドの背もたれへ静かに戻すと、視線を落とした。
「……俺がお前を助けたのは、お前の知識がリサに必要だからだ……だが」
言葉が途切れた。合理的な言い訳の壁を突き破り、胸の奥の感情が溢れ出そうになる。
「俺は……」
アマディオは固く拳を握りしめ、絞り出すように言った。
「あれ以上……お前が痛めつけられるのを見るのは、耐えられなかった」
静寂が病室を支配した。
隠すことのなくなった彼の誠実さに、セッカのルビー色の瞳が大きく見開かれる。
「……素直じゃない……ね……私も人のこと言えないけどさ……」
セッカは呆れたように、けれどどこか愛おしそうに目を細めた。
「……舐められたものね、私も」
セッカは残る力を振り絞り、身体を乗り出した。
アマディオが反応するより早く、彼女の柔らかい唇が、彼の頬に小さく触れた。
甘く、切ない、かすかな接触。
「……景気づけよ。感謝しなさい」
セッカの顔から冗談めいた色が消え、裏社会を生き抜いてきた冷徹なフィクサーの顔に戻る。
「エシュロン社に、旧時代の『核兵器の発射キー』が存在するという情報が、裏の世界で漏れているわ……あなたの狙いも、そうでしょう?」
アマディオは口を噤んだ。ただ赤い瞳を見つめた。
「私たちは、エシュロンよりも先に核兵器を確保しなければならないの。奴らがそれを使えば、この街どころか世界が完全に終わりを迎える……」
セッカの手が伸び、アマディオの手の甲に重ねられた。細い指先から、確かな意志が伝わってくる。
「ライルも、今は同じ目的で動いているわ。エシュロンは……私たちの契約上の障壁よ。だから……絶対に死なないで」
* * *
病院を後にしたアマディオは、アッパー・ティアの巨大エレベーターを下り、ミッド・ティアへと戻っていた。
近未来のニューヨーク――かつての栄華を誇った高層ビル群は、怪しく蠢く巨大なホログラム広告の光と、色あせたネオンの群れに侵食されている。
空中を交差するエアカーの軌道の下、濡れたコンクリートの路上には酸性雨の濁った水たまりが広がり、蒸気孔から白煙が噴き出していた。
ホログラムの巨大な女性モデルがサイケデリックな微笑みを振りまく街角で、トレンチコートの襟を立てたライルが佇んでいた。
「首尾はどうだい、ファントム。セッカちゃんの機嫌は直っていたかな?」
ライルは吸っていたシガーを水たまりに投げ捨てると、アマディオの隣に並んで歩き出した。
雨に濡れる怪しい街並みを、二人の男が静かに歩を進めていく。
「彼女から核兵器の発射キーの話を聞いた」
「話が早くて助かるよ……だが、その前に君に伝えておかなければならない『現実』がある」
ライルは周囲の雑踏に紛れるように声を落とし、ポケットに手を突っ込んだ。
「エシュロンのバイオ・ラボに潜入させていた俺の調査員が、君とリサ嬢の『命の共有』に関する解析データを持ち帰った」
アマディオの足が一瞬、わずかに止まり、再び歩み始めた。
「言え」
「言葉通りだ。彼らは解析を終えたようだ」
ライルは前を見据えたまま、淡々と事実を羅列していく。
「宿主であるリサ嬢が死ねば、ナノマシンで『遠隔操作された』君の生命維持システムも停止し、君は即死する……だが、逆は違う。君が死んだところで、リサ嬢が即死するわけではない」
アマディオの瞳に、冷ややかな光が宿る。
「つまり……」
「そう、君は奴らの実働部隊にとって『いくらでも殺していい障害』に過ぎないということだ。君を容赦なく射殺しても、彼女が生きていれば実験は継続できる。そして、奴らがアンダークロフトから核弾頭を発掘し、リサ嬢の生体データを使って何か計画を実行したあと……彼らは容赦なくリサ嬢を処分するだろう」
ライルは煙草の煙を吐き出すように、冷酷なタイムリミットを告げた。
「つまり猶予は、彼らがアンダークロフトから核兵器を発掘し終えるまでだ。それまでに、彼らより先に……君がエシュロン社本部に乗り込まなければならない」
二人を乗せた歩行者用デッキの横を、重装甲の警備ドローンが爆音を響かせて通り過ぎていく。
「正面突破の戦争は不可能だ。だが……ファントムとして、たった一人で要塞の心臓部に滑り込む。それは彼らにとって、想像すらしていない青天の霹靂だ」
ライルは足を止め、アマディオの顔を覗き込んだ。
その瞳には、ビジネスパートナーとしての信頼と、狂気的な賭けを楽しむフィクサーの光が宿っていた。
「……決戦の準備が整ったら、連絡をする。それまでに武器の調整と、心の準備を済ませておいてくれ」
ライルは短く告げると、雑踏のネオンの光の中へと姿を消していった。
酸性雨の降るミッド・ティアの路上で、アマディオはひとり、腰の古い1911のグリップに手を置いた。
残された時間はわずか。
リサを救うため、自身が生き残るため、そしてこの世界を縛る暗雲を払うため――彼は静かに、ミッド・ティアの路地裏の先――死地へと続く闇を見つめていた。




