19-情報と秘密/Information and Secrecy
〈PM 23:40〉。同日、アッパー・ティア。
アマディオが辿り着いたのは、アッパー・ティアのクロムとガラスで構成された摩天楼の一角にある、夜間営業していない高級フレンチレストランだった。
重厚な扉の向こうでは照明が限界まで落とされ、静寂が空間を支配している。
ミッド・ティアの雨と排気の臭いが嘘のように遮断されたこの場所は、ライル・シェンが裏社会の顧客と極秘裏に会うための私的なセーフハウスだった。
レストランの中央、白亜のテーブルクロスが敷かれたテーブルで、ライルは優雅にアマディオを待っていた。
深紅のヴィンテージワインをグラスに傾け、鼻腔でその豊潤な香りを確かめている。
白いデザイナースーツに身を包んだ彼の佇まいは、血と泥に塗れ、戦闘で傷だらけになった革ジャケットを着たアマディオと、強烈で残酷な対比を描いていた。
「素晴らしい。君の手際は、暴力を芸術に変えるようだ」
ライルはワインを一口含むと、アマディオから受け取ったデータチップを卓上の小型端末に読み込ませ、一瞥した。
「エシュロンのペーパーカンパニーが隠していた極秘データ……見事だよ、ファントム。これで裏付けが取れた。旧世界の遺産、アンダー・クロフトの底深く沈む原子力潜水艦……そして、そこに残された『発射可能な核弾頭』の存在がな」
ライルはグラスを静かに置いた。その所作は、完璧なビジネスの成立を祝う儀式のようだった。
「これでテストは合格だ。フィクサー連合へようこそ。君をエージェントとして正式に雇用しよう。このアッパー・ティアでの価値は、流した血の量ではなく、握っている情報の重さで決まる」
アマディオはライルの社交的な笑みに一切警戒を緩めず、白亜のテーブル越しに冷ややかな視線を向けた。
「約束通り、報酬はリサ救出のための情報と資金だ。それが俺の唯一の目的だ」
「もちろんだとも。君の目的こそが、私の最高のビジネスになる。リサ嬢奪還のため、フィクサー連合の持つあらゆるネットワークと暗号データを提供しよう」
――フィクサー契約。 アマディオはリサを取り戻すため、自分がかつて最も嫌悪し、背を向けた裏社会のシステムの中枢へ、再び身を投じることを承諾した。
* * *
契約が成立したその瞬間――この閉ざされたレストランには、二人しかいないはずだった。
カツン、と。磨き上げられた大理石を踏みしめる繊細なヒールの音が響いた。
(――ッ!?)
アマディオの身体が反射的に緊張し、腰のM1911へ手が伸びかける。 だが、ライルは優雅に手を挙げてそれを制した。
――ギィッ。
壁と見分けのつかなかった隠し扉が、滑らかな油圧音を立てて開く。
暗がりから現れたのは、ドクター・サマラだった。 隙のない黒のパンツスーツに身を包み、氷で彫られたかのように一切の感情を削ぎ落とした美貌を浮かべている。
「……ライル」
「落ち着いてくれ、ビジネス・パートナー。これは、君と、リサ嬢の命を繋ぐための三者会議だ」
ライルがアマディオを宥めるように肩を竦める。サマラはアマディオの発する鋭い殺気など存在しないかのように、空いた椅子へと滑らかに腰を下ろした。
「お邪魔するわ、アマディオ。私は、ケインのデータ収集を阻止したい。あなたは、リサを奪還したい。そしてライルは、そのプロセス全体から価値ある裏データを回収し、巨額の利益を上げたい」
サマラの淡々とした声が、この場に集った者たちの利害関係を浮き彫りにする。
彼女は最初から、アマディオが核兵器のデータを回収するよう、裏でライルを誘導していたのだ。
「リサは現在、エシュロン・タワー最上層の最高セキュリティラボに隔離されているわ……それから、彼女を警護するガレス・オブライエンについて。『死を想え』の哲学に心酔する彼は、一撃必殺の『零点』を追求するあまり、そのガン・フーの格闘パターンに特有の間合いと予備動作が存在する。それが、彼の唯一の弱点。でしょう? アマディオ」
アマディオは静かに頷き、奪取したデータの内容について付け加えた。
「データによれば、エシュロンはアンダー・クロフトの潜水艦から核弾頭を回収し、起動コードの代わりにリサの生体アクセスを利用する気だ……街を一つ丸ごと吹き飛ばせる悪夢が、奴らの手に渡ろうとしている」
ライルが満足そうに手を打ち鳴らし、二人の情報を統合した。
「リサが核の起動キーとして完全に組み込まれるまで、残された時間は少ない。だが、ガレスとESF兵の全戦力が待ち構えるタワーへ今正面突破を仕掛けるのは、自殺行為だ……それに、フロンティア・アームズの専属傭兵『セッカ・ザ・ラビット』も無視できない。彼女はあの若さで私と同じAランク級のフィクサーだ。あの赤い瞳は最新鋭のサイバネ強化施術の証であり、生身で正面からやり合って勝てる相手ではない」
会議は終わり、アマディオが果たすべき次の一手と役割が定まった。
ライルは再びワイングラスを持ち上げ、アッパー・ティアの冷酷なルールを口にする。
「これこそが、この街のビジネスだ。感情ではなく、純粋な利害だけが、敵と味方を決定する」
* * *
サマラが去り、会議が終わった後。 ライルはグラスを手にしたまま、レストランから地平線へと続く屋外テラスへと歩みを進めた。
アマディオも無言でその後に続く。
テラスの柵からは、アッパー・ティアの絢爛豪華なホログラムと幾重にも交差するハイウェイ、そしてその遥か下方に広がるミッド・ティアの暗闇が一滅で見渡せた。
夜景の光が、二人の横顔を青白く照らし出す。
夜風が二人の髪を揺らす中、ライルは眼下の街並みを見下ろしたまま、ふっと短い息を吐いた。
「……なぁ、アマディオ。一つ聞いていいか」
「何だ」
「工業団地での映像を見たよ。あんな狭い室内で、なぜ『セッカ・ザ・ラビット』と本気で戦わなかった?」
ライルの言葉に、アマディオの眉根がピクリと動いた。ライルは振り返り、その鋭い灰色の瞳でアマディオを射抜く。
「あの状況、お前の『ガン・フー』なら彼女を殺すチャンスは幾らでもあったはずだ……どうした? 敵の見た目に惑わされて惚れでもしたのか? それとも……つい先刻、亡くした仲間たちを悼んでいるつもりか?」
「……彼女は、ただの雇われだ。無駄な殺生をする理由がなかった」
アマディオが低く答えようとしたが、ライルはそれを遮るように冷笑を浮かべた。
「甘いな。呆れるほど甘いよ、ファントム」
ライルはグラスの中の深紅の液体を軽く揺らし、静かだが重い声で言葉を重ねた。
「人を殺す仕事に手を染めているのなら、その甘さは今すぐ捨てるといい。いいかね? 敵に攻撃を躊躇い、命を奪わずに逃げるということは……『手を差し伸べ、言葉を交わせば、いつか理解し合えるかもしれない』という愚かな希望がお前の中に残っている証拠だ。この容赦のない世界で、そんな幻想は真っ先に自分と大切な者を殺す毒になる」
言葉が、冷たい刃となってアマディオの胸を突いた。
「亡くなった仲間への手向けが『不殺』だとでも思っているのなら、笑止千万だ。お前が敵を生かさば生かすほど、お前は次の仲間を、そしてあのリサという少女を追い詰めることになる」
ライルはそう言い捨てると、哀れむような一瞥をアマディオに向け、店内へと戻っていった。
テラスに残されたアマディオは、一人夜景を見つめていた。
反論の言葉は出なかった。胸の奥に潜む痛ましく柔らかい部分――未だ拭い去れない『人間性』という名の弱点を正確に撃ち抜かれ、その顔には悲観と暗澹たる苦悩の影が重く落ちていた。




