18-フィクサー契約『コード:オメガ』/Fixer Contract "Code: Omega"
重く湿った排気と錆の臭いが充満する地下駐車場。
薄暗い灯りの下、洗練された高級スーツに身を包んだ男が、泥と油の混ざるコンクリートを踏みしめて歩み寄ってきた。
ライル・シェン。
アッパー・ティアの裏社会を支配する巨大フィクサー連合のエージェントは、わざわざミッド・ティアの最底辺にあるこの廃墟同然の隠れ家まで、自ら足を運んできたのだ。
「悲惨な顔だな、ファントム……いや、ジョシュア・アマディオ」
ライルは白髪混じりのヤギ髭を撫でながら、胸ポケットから薄型のクローム製データチップを取り出し、アマディオへ差し出した。
「単刀直入にいこう。お前が命より重く想っている少女……『リサ』の件だ。彼女はエシュロンの特殊部隊に回収された……だが安心しろ、すぐに殺されるようなことはない」
「……何?」
「彼女は、エシュロンが水面下で進める巨大な陰謀の『最後のピース』だからだ」
「陰謀の最後のピース……?」
アマディオが低く問うと、ライルは不敵な笑みを深め、顔を寄せた。
「発射可能な核弾頭、旧文明の遺産だ。エシュロン社は秘密裏にそれを確保しようとしている」
「……核だと?」
「そうだ。そして、その旧時代の悪夢を起動・制御するために、あの少女の〈ノード・アクセス〉能力が絶対に不可欠なのだよ……さて、ここからがビジネスだ。ミッド・ティア郊外に、エシュロンの子会社が運営するペーパーカンパニーの『工業団地』がある。実態は企業の私設兵の拠点だ。そこに潜入し、核弾頭の所在と移送ルートに関するデータを盗み出してこい」
ライルはアマディオの肩を軽く叩いた。
「成功すれば、お前をアッパー・ティアへ招き入れ、リサ奪還のための全面的なバックアップを約束しよう」
* * *
――ミッド・ティア郊外、灰色の雲が垂れ込める工業団地。
立ち並ぶ巨大な冷却塔から吐き出される吐き気をもよおすような化学薬品の煙と、シトシトと降り続く酸性雨。
高強度コンクリートで固められた敷地内を、最新の光学スキャナーを搭載した警備ドローンと、重武装したPMC兵士たちが規則正しく巡回していた。
物陰の暗がりに潜み、アマディオは瞳孔を極限まで収縮させて敵の巡回ルートを精密に網羅していく。
(ドローンは四十秒周期で南側へ旋回。監視兵の交差地点にできる三秒の死角……そこが侵入の隙だ)
静寂の中、アマディオの身体が滑るように動いた。
濡れたアスファルトに靴底の音すら立てず、遮蔽物から遮蔽物へと影のように跳躍する。
敷地側面の搬入口に佇むPMC兵士の背後へ、音もなく忍び寄る。
ガシッ。
「――――ッッ!?」
「動くな……」
アマディオの革グローブをはめた左手が、兵士の口元を完璧に封じた。同時に右手の掌底が、相手の頸椎の神経節へ向けて寸分違わず叩き込まれる。
ツボを穿たれた兵士は、悲鳴一つ上げることなく一瞬で脱力。アマディオはその巨躯を静かに支え、警備カメラの死角となるコンテナの隙間へ滑り込ませた。
完璧な無力化。
そのまま点検ハッチを極小のスパイク発生器で解錠し、複雑に入り組んだ配管ダクトの中へと侵入する。
配管内を匍匐前進で進み、ついに目標である中央サーバー室の天井裏へと到達した。
格子の隙間から見下ろすサーバー室では、青白い冷光のなかで大量のデータノードが点滅している。
アマディオは天井のボルトを無音で抜き取ると、柔らかく床へ着地。
振り向きかけた警備員二人の顎下へ、間髪入れずに警棒の柄で微小な打撃を叩き込み、一瞬で気絶させた。
スキミング・ツールを主要端末へ接続。データストリームがハイスピードで内蔵ストレージに流れ込む。
表示される極秘ファイル。
『旧文明戦術核弾頭――コードネーム:オメガ』。
ライルの言葉通り、このペーパーカンパニーはエシュロンの裏組織であり、旧時代の核兵器に関する移送データを管理していたのだ。
データ回収率、100%。
――その瞬間、頭上のガラス天井が爆音と共に粉砕された。
* * *
バリンッ!!
「見つけたわよ、ハイヴのドブネズミッ!」
頭上から舞い降りてきたのは、ツインテールを激しく揺らす少女――フロンティア・アームズの専属傭兵『セッカ・ザ・ラビット』だった。
着地と同時に、彼女の手にしたMP5が火を噴く。
アマディオは間一髪でサーバーラックの陰に転がり込み、弾丸の雨を破片とともにやり過ごした。
「死ねぇッ!」
セッカが驚異的な脚力で間合いを詰めてくる。
狭いサーバー室内での極限のCQC。
アマディオはM1911を引き抜こうとしたが、ふと、眼前を掠めた、セッカの必死なルビー色の瞳を見て――引き金から指を外した。
ノヴァとスパークを失った今、これ以上無駄な殺生をする気にはなれなかった。ましてや、まだ幼さの残るこの少女を傷つけるわけにはいかない。
(……無傷で撒く!)
アマディオは銃を捨て、素手での抑留・回避に切り替えた。
セッカが放つ鋭い上段蹴り。アマディオは体幹を捻ってそれを滑り込みでかわし、彼女の軸足を払わずに、優しく包み込むように手首を絡め取った。
ふわり、と舞い散る汗の飛沫。
激しい運動によってセッカの肌は上気し、戦闘スーツの首元の隙間から覗く、柔らかな素肌が、汗で輝かしく濡れて濡れ艶を放っている。
絡み合う腕と腕、互いの吐息が触れ合うほどの密着空間。
「ラビット……!!」
「なっ……なによこれ!? 離しなさいよ、この変態ッ!」
セッカが顔を真っ赤にして暴れ、ひじ打ちを叩き込んでくる。
アマディオはその関節の可動域を正確に見極め、彼女の腕や脚に余計な負荷をかけないよう、最小限の力で技をいなし、体を滑らせるようにして彼女の密着から抜け出した。
「……ッ!」
セッカの体温と、高価な香水の甘い香りが一瞬鼻腔をかすめる。
彼女に傷一つ負わせることなく、その完璧な体術の流動だけで彼女の攻撃を全て空振りさせたのだ。
「くっ……遊んでんじゃないわよッ!」
「悪く思うな、ラビット。俺は急ぎの用がある」
激高して跳びかかってくるセッカに対し、アマディオは足元に転がっていた消火用スプリンクラーの作動バルブを警棒で叩き割った。
ザーッ!!
激しい水しぶきが室内全体を白い霧で覆い尽くす。
「きゃあッ!? 冷たっ! ちょっと、どこ行くのよッ!?」
水煙の向こうで怒叫するセッカを置き去りにし、アマディオは非常脱出ハッチを蹴り破って、ミッド・ティアの雨の夜の中へと飛び出した。
* * *
雨の降る薄暗い路地裏。
激しいCQCの余韻で吐息を白く染めながら、アマディオは奪取したデータチップを固く握りしめた。
その時、携帯が微かに震える。
『見事な手際だったな、ファントム』
ライル・シェンの声だった。
『核兵器の確実なデータと、エシュロンの弱みを掴んだ。テストは合格だ』
通信の向こうで、グラスの氷がカラリと鳴る音が聞こえた。
『準備は整った……上がってこい、アマディオ。アッパー・ティアの世界へ。お前の大切な少女を取り戻すための、本番の始まりだ』




