幼い光の眩きに
精神の糸が、プツリと音を立てて切れたわけではなかった。それは、雨垂れが石を穿つように、あるいは真綿で首を絞めるように、じわじわとアリオスの自我を摩耗させていった。三ヶ月。彼は食事と睡眠、そして機械的な剣の素振り以外、何一つ人間らしい営みを行わなかった。鏡に映る「白磁の肌」は、今や血の通わない死人の処置を施された剥製のように生気がない。
その日も、アリオスは村の外れにある人気のない廃屋の裏で、独り、剣を振っていた。 周囲の空気さえも凍りつかせるような、硬質で、無機質な動作。そこに「強くなりたい」という向上心はない。ただ、そうしていなければ自分という器が内側から崩壊してしまうのを防ぐための、空虚な補強作業だった。
「……あなたが、アリオスさんですか」
背後からかけられた声は、驚くほど幼く、そして澄んでいた。
アリオスの剣が止まる。しかし、振り返りはしない。その瞳には、誰かの顔を映すことへの生理的な恐怖が張り付いている。
「ギルドのリリアンさんに聞きました。この村で一番腕が立つ前衛だけど、今は少し、心に深い傷を負っているって」
足音が近づいてくる。草を踏みしめる小さな音が、死の予兆のようにアリオスの耳に響いた。
視界の端に、銀色の鎧を纏った小さな影が入る。背負った剣は彼女の身の丈に合わず、不自然に大きく見えた。年齢は、十二歳といったところか。王都から派遣されたという勇者の肩書きを背負うには、あまりに細い首筋だった。
「……つらい目にあったから、外の世界から目を背けたくなる。……その気持ちは、わかります」
アリオスは一言も発さない。ただ、握りしめた剣の柄がミシリと鳴った。
少女は彼の正面に回り込み、その濁りきった瞳を真っ直ぐに見上げた。
「でも、力を持って生まれた者は、それを使って誰かを守らなければならないんです。王都の神官様はそれを宿命と呼びました。私には、その言葉の意味が完全にはわからないけれど……でも、私が行かなければ、魔物に怯えて眠る子供たちがいる。それは、放っておけないんです」
アリオスの喉が、かすかに震えた。だが、言葉は出てこない。
「守らなければならない」
――その言葉は、彼がかつて耳にし、そして守れなかった全ての命の叫びとなって脳裏を駆け巡った。少女の瞳は、あまりに無垢で、あまりに残酷な正しさに満ちていた。
「明日、夜明けとともに村の門へ向かいます。……本当は、あなたに一緒に来てほしい。あなたの力が必要なんです。でも、もしあなたが来なくても……私は一人で行きます。行かなければならないから」
少女はそれだけを告げると、丁寧な一礼をして背を向けた。
夕闇が迫る廃屋の裏に、再び静寂が戻る。アリオスは立ち尽くしたまま、少女が去っていった方向をじっ
と見つめていた。その手は、自分の皮膚を爪が突き破るほど強く、握り締められていた。
その夜、アリオスは一睡もできなかった。
目を閉じれば、少女の細い首筋に死神が鎌をかけている幻覚が見えた。耳を塞げば、かつての仲間たちが「お前が助けなかったからだ」と囁く声がした。
彼はベッドの上で、自分の身体を抱くようにして震えていた。行かなければいい。関わらなければ、彼女が死んでも俺のせいじゃない。そんな卑怯な理屈が頭をよぎるたび、昨日少女が見せた凛とした眼差しが、アリオスの浅ましい逃避を切り裂いた。
夜明け。紫色の闇が村を包む中、アリオスは吸い寄せられるように村の門へと向かっていた。
だが、その足取りは重い。かつてのように守ってやるという高潔な自負などは微塵もなく、ただ、地獄の入り口へ向かう囚人のような足取りだった。
門の前には、既に少女がいた。朝露に濡れた銀の鎧が、薄明かりを反射して淡く光っている。彼女はアリオスの姿を認めると、一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐにこの世で最も尊いものを見るような笑顔を向けた。
「……来て、くれたんですね」
アリオスは答えなかった。唇は固く結ばれ、視線は彼女の足元の影へと落とされたまま。 彼は彼女に近づこうとはしなかった。一定の距離を保ち、まるで自分という疫病が彼女に移るのを恐れるかのように、一歩、後ろに下がる。
「……前衛は、私だけで大丈夫です。アリオスさんは、私の後ろを……いえ、あなたの好きなようにしてください。あなたがそこにいてくれるだけで、私は勇者でいられます」
少女はそう言うと、小さな背中を揺らして歩き出した。
アリオスはその背中から、さらに数メートル距離を置いた。彼は彼女と「パーティ」を組むことを、魂の底から拒絶していた。
森へ入ると、アリオスは彼女の死角へと身を隠した。
「影」となる。
深い森の中、木漏れ日が銀の鎧を斑に照らす。
少女はアリオスが数歩後ろの「影」にいることを確信しながら、時折、背後を振り返らずに話し始めた。それはアリオスへの問いかけというより、沈黙に押し潰されないための、あるいは彼との距離を縮めるための独り言のような独白だった。
「……ある日、突然だったんです。王都からギラギラした鎧を着た騎士様たちが家に来て、『おめでとう、君が勇者だ』って」
少女の歩調は、語りに合わせて少しだけ緩やかになる。
「勇者って、なんだか凄いものみたいに聞こえるけど、実際は特定の魔法に適性があるだけなんです。常人には扱えない、運命の神様から与えられた特別な……。私には『転移』の適性がありました」
「転移って便利なんです!魔物だって体の半分を飛ばしてしまえば、即座に動かなくなるんですよ。でも魔物ごと飛ばすのはダメだって。飛ばした先にも責任を持てるのが勇者だからって」
「シルヴァ村へだって転移で来たんですよ。王都からこんなに離れた村まで、私なら一瞬で来られる。だから、私が選ばれたんです」
彼女は足を止め、道端に咲く名もなき花を、愛おしそうに見つめた。
「本当は、ずっと家にいたかった。妹と手を繋いで、お母さんの手伝いをして……。でも、お家はとっても貧乏だったから。私が勇者になれば、妹がひもじい思いをしなくて済む。そう言われたら、私には選ぶことなんてできませんでした」
少女の背中が、わずかに震える。
「……選ばれたくなんて、なかったのに」
その言葉が、影に潜むアリオスの胸を鋭く抉った。
望まぬ力を与えられ、宿命という名の檻に閉じ込められた少女。
日が落ち、森が急速に闇に飲まれ始めた頃。少女は開けた場所で野営の準備を始めた。しかし、慣れない手つきで枯れ枝を集める彼女の動作は危なっかしく、火打ち石を打つ指先も、夜の冷気に白く震えている。
その時だった。すうっと、闇が溶けるようにアリオスが彼女の隣に立った。
彼は何も言わず、彼女の手から火打ち石をそっと取り上げた。驚いて目を見開く少女を余所に、アリオスは無駄のない動作で焚き火を組み、一打ちで鮮やかな火を灯した。
「……あ、ありがとうございます、アリオスさん」
少女の頬が、焚き火の熱とは別の、熱い何かに染まる。アリオスはそのまま立ち去ろうとしたが、少女の細い指が、彼の手の甲を、羽が触れるような弱さで止めた。
「あの……。これ、お守りなんです」
彼女が差し出したのは、粗末な紐で編まれた小さなお守りだった。
「もし、本当に危なくなったら……。私の転移で、アリオスさんだけでも逃がします。だから、あまり無理しないでくださいね」
アリオスは、初めて彼女の目を見た。濁りきった彼の瞳に、焚き火に照らされた少女の顔が映る。彼女の瞳の中には、恐怖ではなく、自分を助けてくれた青年への、淡く、切ない憧憬が宿っていた。
「……死なせない」
三ヶ月。一度も発されなかったアリオスの声は、ひどく掠れていて、今にも消えそうだった。それでも、確かに言葉を交わした。その事実に、少女の胸は高鳴り、幼い恋心が、逃れられぬ宿命の暗闇の中で、一輪の花のように咲いた。
「はい! 私も、アリオスさんを信じてます」
彼女の笑顔は、あまりに眩しかった。それが、彼女の最後に見せる笑顔になるとも知らずに。
討伐対象は、森の最深部、大樹の根元に巣食っていた。 四足の獣の形をしてはいるが、その皮膚は湿った腐肉のような粘り気を帯び、顔のあるべき場所には赤黒い複眼が無数に蠢いている。
「……アリオスさん、見ていてください!」
少女は震える声を勇気で押さえつけ、身の丈に合わない大剣を構えた。その瞬間、彼女の周囲の大気が渦を巻き、白銀の光が収束していく。
それは「転移」の力の応用。空間そのものを削り取り、別の場所へと強制的に排除する、勇者にしか成し得ない神業だった。
「はぁぁぁッ!!」
凄まじい衝撃波とともに、魔獣の下半身が、空間ごと切り離された。
それは「消滅」ではない。少女が放った空間転移の余波によって、巨大な肉の質量が、すぐ数メートル横の地面へと無造作に放り出されたのだ。
断面からはどろりとした体液が溢れ、魔獣は断末魔すら上げられずに地面へ転がった。
「やった……。やりました、アリオスさん!」
少女は肩で息をしながら、勝利の喜びに瞳を輝かせた。
だが、アリオスは剣を鞘に収めることができなかった。
――おかしい。
王都がわざわざ「勇者」を派遣するほどの魔獣が、これほど一方的な結末で終わるはずがない。かつて修羅場を潜り抜けた彼の本能が、警鐘を鳴らしていた。
その直後だった。
切り離され、そこに転がっていたはずの「下半身」が、生き物のように跳ねた。
断面から溢れ出した腐肉が、意志を持つかのように膨れ上がる。
上半身からは新たな下半身が。そして数メートル先に転がされた下半身からは、新たな頭部が。
プラナリアのように、分割されることでその個体数を倍へと増やしたのだ。
「え……? 嘘、再生してるの……っ!?」
焦った少女は、再び「転移」を放った。二体に増えた魔獣を、それぞれバラバラに切り離そうと空間を歪める。
だが、それが地獄の引き金となった。
二体は四体に。
四体は八体に。
斬れば斬るほど、飛ばせば飛ばすほど、魔獣は指数関数的にその数を増していく。
十六、三十二――。
わずか数分のうちに、広場は三十二体もの「増殖した魔獣」によって埋め尽くされた。
少女の顔から血の気が引き、その膝ががたがたと震え始めた。勇者の強すぎる力が、本来なら一つであったはずの絶望を、回避不能な死の網へと変えてしまったのだ。
「……もう、無理……」
少女の限界だった。乱発した魔力は底を突き、大剣を支える腕すら力が入らない。 三十二体の魔獣が一斉に牙を剥き、少女へと飛びかかる。
「やめろ……。やめてくれえええええッ!!」
アリオスの理性が、ついに決壊した。
彼は自分の命を惜しむことをやめた。また目の前で人が死ぬのか。自分がここで死ねば、あるいは死神の呪いが解け、彼女だけは助かるのではないか。そんな狂った確信に突き動かされ、彼は少女の前に立ちふさがるように、三十二体の魔獣の群れへと、自ら突っ込んでいった。
――俺が、こいつらを食い止める。
――その隙に、彼女だけでもどこへでも逃げてくれ。一人なら、一人だけなら飛ばせるだろう。
だが、彼が死の爪牙に触れる直前。
背後から、温かく、そして泣き出しそうなほど優しい光がアリオスを包み込んだ。
「……アリオスさん。……守らせてくれて、ありがとう」
アリオスが振り返る暇もなかった。
少女は残された最後の全ての力を、自分を逃がすためではなく、男を安全な場所へ送るために注ぎ込んだ。
「初恋を……最後に教えてくれて」
閃光。
アリオスの視界から、自分を喰らおうとしていた三十二体の魔獣が消え、絶望に染まった森が消え、そして――最期に、泣き笑いのような顔をした少女の姿が消えた。
次に彼が目を開けた時、そこは朝靄に包まれたシルヴァ村の門前だった。
一瞬、すべては悪い夢だったのではないかという錯覚が彼を襲う。だが、手の甲に残る彼女の指先の温もりと、手の中に握らされた、血塗られたあのお守りが、現実を突きつけていた。
アリオスは、獣のような咆哮を上げて戦場へと引き返した。
祈り、呪い、絶叫し、血を吐きながら走り続けた。
たどり着いたその場所に、もう三十二体の魔獣はいなかった。
あるのは、一つの巨大な、冷え切った「肉の絨毯」だけだった。
役割を終えた魔獣たちが再び一つに溶け合い、その過程で、少女だった「何か」を完全に取り込み、攪拌し、消化しきった後の無残な残骸。
かつて愛らしく笑っていた顔も、アリオスを案じていた瞳も、すべてはピンク色の、脈打つ肉の塊の一部に成り果てていた。
「……あ……あぁ……」
この悲劇以降、彼は周囲から「死神」と呼ばれることとなる。あまりの美貌から女が誘われては地に堕ちる「白磁の死神」と。




