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筆先に踊る白磁の死神  作者: 大須賀隼
死神の揺り籠
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灰色の帰還

朝霧が立ち込めるシルヴァ村の正門を、一つの影が潜った。門番の男たちが、その姿を認めた瞬間に息を呑み、わずかに後退りする。


アリオスだった。その背には、数日前まで不敵な笑みを浮かべていた女盗賊の姿はない。代わりに、古びた防水布で何層にも包まれた「重荷」が、彼の背中で静かに揺れていた。


「……またかよ」  


門番の一人が、吐き捨てるように呟いた。人々の視線が、アリオスの身体に突き刺さる。かつて芸術品とまで称えられた彼の美貌には、見るも無惨な戦いの痕跡が刻まれていた。  毒虫に執拗に狙われた首筋や手首は、赤黒く腫れ上がり、皮膚が溶け落ちた生々しい潰瘍が白磁の肌を汚している。服の隙間から覗く爛れた肉は、未だに毒素を吐き出し、歩くたびに激痛が彼を苛んでいるはずだった。  

しかし、村人たちが抱いたのは同情ではなく、生理的な嫌悪だった。


「『旋風』のフレイアも、結局は風に消されたってわけだ。あの顔に魅入られりゃ、最後はああなる」


「死神に魅入られた女は、骨も残らねえって噂は本当だ。見ろよ、あの男の身体を。自分だけは毒に塗れても生きて帰ってきやがる。……気味が悪いぜ」


窓を開けて様子を伺う村娘たちは、彼の爛れた肌を直視できずにカーテンを閉め、かつて彼を誘惑した女冒険者たちは、その「穢れ」が自分に移るのを恐れるように十字を切った。


酒場の軒先で朝から管を巻く男たちの揶揄が、アリオスの耳に届く。だが、彼は何も言い返さない。ただ、虚空を見つめるその瞳には、かつての白磁のような輝きはなく、底なしの泥濘が広がっている。



ギルドのカウンターへ、彼は背負っていた「重荷」を乱暴に下ろした。ずしりと重い音が響き、周囲の冒険者たちが息を呑む。防水布の隙間から、フレイアの持ち物であった血塗られた短剣が零れ落ち、床に乾いた音を立てた。


「……アリオス様っ」


カウンターの向こう側、リリアンの声が震えていた。彼女は悲痛な面持ちで口元を押さえ、潤んだ瞳でアリオスを見上げる。


「依頼は……完了した。パーティの解消、および……死亡の処理を頼む」


アリオスは震える手で、防水布の結び目に手をかけた。身分証であるタグをギルドに返却しなければ、手続きは終わらない。だが、布を解いた瞬間、酒場にいた者たちの数人が胃の腑をせり上げ、悲鳴ともつかない声を漏らして顔を背けた。


そこから現れたのは、もはや人間としての形を失った何かだった。かつてアリオスを誘惑したあの艶やかな肌は、毒虫の酸と毒素によって赤黒く爛れ、ぶよぶよと醜く膨れ上がっている。ところどころ皮膚が弾け、中からは混濁した体液と壊死した肉が覗いていた。  誇り高かった「旋風」の顔は、執拗な蹂躙によって眼球さえも毒液に溶け、ただ黒い穴が虚空を見つめている。その無残な亡骸の首筋――辛うじて原型を留める変色した肉に食い込んだ鎖を、アリオスは血の通わない指先で手繰り寄せた。


「……っ、う、あ……」


まだわずかに柔らかい肉をまさぐる不快な音を立てて、彼は亡骸から銀のタグを引き剥がした。指先に付着したフレイアの成れの果て――腐った肉片と毒液を拭うことさえせず、彼はリリアンの前のカウンターにそれを叩きつけた。


「……確認しろ。これが、『旋風のフレイア』のタグだ」


「そんな……あまりに、あまりにひどい……!」


リリアンは震える手で、タグの横に置かれたアリオスの手に触れようとした。彼の白磁の肌を無惨に焼き、膿を滴らせている潰瘍を、慈しむように見つめる。


「アリオス様、そのお怪我……すぐに奥へ。組合提携の神官を呼びます。このままでは、あなたの命まで……!」


彼女の瞳には、打算のない純粋な心配の色だけが宿っていた。だが、アリオスはその指先が触れる直前、鞭で打つような鋭さで自分の手を引き剥がした。


「構うなと言ったはずだ。……俺が死のうが生きようが、君には関係ない」


「関係なくなどありません! 私は、この村の、あなたの担当として」


「黙れ!」


アリオスの怒号が、静まり返った酒場に鋭く突き刺さる。リリアンは弾かれたように肩を震わせ、言葉を失った。


「死神の世話を焼く暇があるなら、その死骸を片付ける手配でもしてくれ。……報酬を。早くしろ」

アリオスの瞳には、もはや彼女の献身を受け入れる余裕など一滴も残っていない。リリアンは溢れる涙を拭いもせず、震える手で報酬の入った金袋を差し出した。


「せめて、この薬だけでも……。せめて、これを持って……」


彼女が差し出した小さな軟膏の瓶を、アリオスは視界に入れることさえせず、血と膿に汚れた金袋だけをひったくるように受け取った。彼は亡骸を再び布で隠すことすら忘れ、ふらつく足取りで酒場を後にする。


リリアンは、彼の背中が扉の向こうに消えるまで、呆然と立ち尽くしていた。その頬を伝う涙は、アリオスの目には「拒絶された聖女の悲しみ」に映ったが、残された彼女の視線は、カウンターに置かれたままのフレイアの亡骸へと向けられた。


酒場に残されたのは、原型を失った女の遺体と、絶世の美青年に刻まれた「死神」という名の消えない烙印だけだった。



宿屋の屋根裏部屋は、死の腐臭と絶望が淀んでいた。アリオスは三日間、一度も窓を開けず、食事も取らずにいた。毒虫に執拗に狙われた首筋や手首は、赤黒く腫れ上がり、皮膚が溶け落ちた生々しい潰瘍から膿が滴り落ちていた。


(……このまま、身体ごと溶けてなくなればいい)


意識の混濁の中で、彼はそう願った。自分だけが生き残ってしまった罪悪感と、死神と蔑まれる孤独。この毒の熱こそが、今の自分に相応しい罰のように思えたのだ。


――だが、現実は残酷だった。


彼を苛んでいた激痛が、奇妙なほど引いていることに気づく。重い瞼を上げ、自分の腕を見つめたアリオスは、息を呑んだ。あれほど無惨に爛れ、腐りかけていた潰瘍が、跡形もなく消え去っている。それどころか、皮膚は磨き抜かれた白磁のような滑らかさを取り戻し、窓の隙間から漏れる微かな光を浴びて、神々しいまでの輝きを放っていた。


「……そんな、馬鹿な」


致命的だったはずの毒が、わずか三日で完全に浄化された。アリオスは震える手で自分の身体をなぞった。痛みも、痒みも、不快な熱もない。鏡を覗き込めば、そこには死線を越えてきた男の顔ではなく、何一つ穢れを知らない「白磁の死神」の貌が、完璧な造形で戻っていた。それは救いなどではない。死ぬことさえ許されず、再び「死神」として美しく飾られたことへの、底知れぬ恐怖だった。


その時、廊下から微かな、しかし規則正しい足音が近づいてきた。アリオスは弾かれたようにベッドを抜け出し、よろめきながら扉へと向かった。なぜ自分の身体が、こんなに短期間で治癒したのか。その答えが、扉の向こうにある気がした。


 バァン


と乱暴に扉を押し開けたアリオスは、その場で絶句した。


「あ……アリオス様。……おはようございます」


そこにいたのは、リリアンだった。だが、その姿はギルドのカウンターで見せる端正な受付嬢のそれとは、かけ離れていた。彼女の目の下には、三日三晩、一睡もしていないことを物語る深い隈が刻まれている。右手には空になった薬瓶と、汚れた布が握られ、その指先は薬液とアリオスの傷から出た膿で無惨に汚れていた。


三日三晩、彼女はこの扉の前に、あるいは彼の枕元に、片時も離れず付き添っていたのだ。


「リリアン……君、その顔は……」


「いいのです、気にしないでください。……ああ、よかった。お肌も、元通りになりましたね。私がギルドの倉庫から取り寄せた特級の解毒薬と、それから……精一杯の看護が、間に合ったようです」


リリアンはふらつきながらも、花が綻ぶような、この世で最も清廉な笑みを浮かべた。  


アリオスは動けなかった。自分を突き放し、罵倒し、絶望の底に沈んでいた自分を、彼女はボロボロになりながら繋ぎ止めていたのだ。


「……どうして、ここまで……」


「言ったはずです。私は、あなたの担当ですから」


リリアンは力なく、しかし確かな意志を持ってアリオスの胸元に手を添えた。  その手の温もりが、アリオスの凍りついた心を強引に、しかし優しく溶かしていく。


「あなたは、死んではいけません。……あの時と同じように」


彼女の呟きが、アリオスの耳の奥で反響する。



あの時。



白磁の肌がまだ傷一つ知らず、希望という名の輝きを帯びていた、あの「最初の日」の記憶が、濁流のように押し寄せてきた。


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