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筆先に踊る白磁の死神  作者: 大須賀隼
死神と旋風
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旋風の止む日

三時間後、きっちりと見張りの交代を済ませ、翌朝の出発も滞りなく行われた。アリオスが整えた朝食を詰め込み、二人はさらに森の深部へと足を踏み入れる。


進むにつれ、周囲の景色は変容していった。瑞々しい緑は失われ、粘り気のある糸のような苔が木々を覆い、湿った土の匂いの中に、微かな腐臭と金属的な異臭が混ざり始める。森が侵入者を拒むように霧も深くなっていく。


「……そろそろだね。空気が重くなってきた」


フレイアが短剣の柄に手をかけ、腰を落とした。木々の隙間から見えたのは、巨大な岩が呼吸をしているかのような異様な光景だった。


そこには、依頼書通りの『硬殻を持つ魔獣』が鎮座していた。蟹と土蜘蛛を混ぜ合わせたような醜悪な外殻。それは鈍い銀光を放ち、周囲の光さえも吸い込んでいるかのように見えた。リリアンが言っていた物理防御の高さを疑う余地はない。


フレイアは獲物の様子を伺うため、薄暗い茂みの陰で目を細めた。だが、その視線が魔獣の背面へと回った瞬間、彼女の眉がわずかに動いた。


「……ねえ、アリオス。ちょっと妙だよ」


彼女の声から、これまでの軽快な響きが消え、低く硬い警戒の色が混じる。


「私の知ってる『硬殻』は、冷たい海の底のような深い青色をしていた。だけど……見てなよ。あいつの脚の付け根と腹のあたり。……あんなに鈍く暗い赤色じゃなかったはずだ」


その魔獣の殻は、単なる硬質化を超え、内側から滲み出る血を凝固させたような不気味な赤を帯びていた。


「……変異種か。あるいは、ただの成長度合いの違いか。ま、どっちにしろやることは変わらない。殻と殻の境目――あそこさえ狙えば、どんな色をしてようが関係ないさ」


フレイアは自分の違和感を、強引な理屈で捻り潰した。隣に立つアリオスの横顔は、死神という二つ名が嘘のように、仲間の安全を最優先に考え、獲物を見据える一人の戦士のそれだった。


「俺が奴の注意を引く。君は隙を見て潜り込んでくれ」


「いいよ。まずは火炎をぶち当ててやる。効かないだけで視界は覆えるさ。その間にアンタは奴の正面に回り、うまく誘導してくれ。……いいかい、さっさと終わらせて、今夜の準備をするんだよ」


冗談交じりに攻撃の準備を整える。フレイアは唇を舐め、指先をパチンと鳴らそうとした。それは彼女にとって、呼吸と同じほどに慣れ親しんだ、魔法を発動させるための「合図」だった。


 

――だが、何も起こらなかった。



いつもなら指先から弾けるはずの、心地よい魔力の熱がない。それどころか、肺の奥から力が吸い取られていくような、不快な浮遊感が彼女を襲った。


「……? 霧のせいかい?」


二度、三度。彼女は指を鳴らし、あるいは心の中で使い古した詠唱を行う。しかし、彼女が誇る無詠唱の火球どころか、小さな火花一つさえ、澱んだ空気の中に生まれることはなかった。


「フレイア! 来るぞ!」


アリオスの鋭い声が飛んだ。魔法の不発に戸惑う彼女を置き去りにするように、巨大な「赤い岩」が、信じがたい速度でその巨躯を揺らし始めた。



魔獣が上げた咆哮は、耳を突く金属音に近いものだった。フレイアは咄嗟に短剣を抜き放ち、横跳びにその突進をかわす。魔法は使えないが、彼女の身体能力そのものが衰えたわけではない。


「ちっ、火炎が湿気ってるなら、直接切り刻むだけだ!」


彼女は自分に言い聞かせるように叫ぶと、風のような速さで魔獣の側面へと回り込んだ。アリオスは大剣を正眼に構え、魔獣の強烈なハサミの一撃を真っ向から受け止める。凄まじい衝撃音が霧の中に響き渡るが、彼は一歩も引かない。


「フレイア、今だ!」


アリオスが魔獣の注意を完全に引きつけた。絶好の機会だ。フレイアは魔獣の足の付け根、あの不気味な赤色をした関節の隙間を狙い、短剣を突き立てる。踏み込んだ瞬間、魔獣の殻の隙間から、粘り気のある濃密な霧がプシュリと噴き出した。それを浴びた途端、フレイアの全身をひどい脱力感が襲う。指先が痺れ、血管を流れる魔力が霧に吸い取られて霧散していくような、生理的な嫌悪感。


(……っ、この霧。まさか、こいつ自身から……!?)


確信に至る前に、彼女の思考はさらなる絶望によって上書きされた。



――ブゥゥゥゥン、と。



霧の奥から、不快な羽音が地鳴りのように押し寄せた。それは、リリアンが依頼書に小さく記していた毒虫の大量発生という付帯事項の、真の姿だった。


「なっ……何だい、この数は……っ!」


霧の中から現れたのは、親指ほどもある漆黒の蜂の大群だった。数千、数万というその群れは、まるで霧を塗り潰すような黒い壁――数万という毒虫の羽音が、思考を麻痺させるほどの騒音となって押し寄せる。


「火では……焼けない!」  


フレイアの悲鳴に近い叫びが霧に消える。魔法が使えず、物理攻撃も通じない絶望的な状況下で、アリオスが声を張り上げた。


「解毒薬を飲め! 予防にもなるはずだ! まずは『甲殻』を倒す!」


アリオスは背嚢から解毒薬を放り投げ、自らも一瓶煽ると、覚悟を決めたように腰のポーチから小さな香炉を取り出した。それは彼が、過去の全滅の教訓から、万が一の際に自分が犠牲となって仲間を逃がすために用意していた「魔寄せの香」だった。


アリオスが香炉を叩き割ると、霧の中に強烈な獣の匂いが立ち昇る。黒い壁を成していた毒虫たちが、その匂いに導かれるように一斉に反転し、フレイアではなくアリオスへと殺到した。


「……っ!フレイア、行け!」


アリオスは剣を振り回し、視界を覆い尽くすほどの毒虫の雲の中へ、自らその身を投じた。だが、予防で飲んだ解毒薬を上回る毒素が、容赦なく彼の神経を蝕む。わずかに足元が痺れ、踏ん張りが鈍ったその瞬間――。



「あ……っ!」



『甲殻』の巨大なハサミが、無防備になったアリオスの脇腹を容赦なく薙ぎ払った。  鈍い衝撃音と共に、彼の体はボロ布のように跳ね飛ばされ、湿った地面へと叩きつけられる。 全身を毒虫に蹂躙され、魔獣の一撃に打ち砕かれながら、それでもアリオスは霞む視界の中でフレイアを促すように叫んだ。


「……早く、しろ……っ!」


「アリオス、あんた……っ!」


フレイアは息を呑んだ。死神と呼ばれる男が、死を恐れず、自分一人の命を差し出して道を切り拓いている。


(……なんて、大馬鹿野郎だ……! だが、あんたをここで死なせやしない!)


フレイアは死線を越えるための呼吸を整え、旋風と化して『甲殻』へと特攻を仕掛ける。アリオスの香を逃れた毒虫の針が彼女の柔らかな肌を、肩を、背を、容赦なく貫く。だが、彼女はその激痛を意志の火で焼き切り、魔獣の赤い関節へと短剣を深々と突き立てた。


「落ちな、化け物……!」


咆哮と共に短剣を抉り、彼女は魔獣の急所を次々に破壊していく。


八つの足のうち、六本目を裂き切ると同時に崩れ落ちる巨躯。それを見届けて振り返ったフレイアは、絶句した。そこにいたのは、甲殻の猛攻を受け止め、さらにフレイアの死角から迫る毒虫をその身を挺して防ぎ続けていたアリオスだった。彼の体温と傷口の熱に反応し、香が異常な速度で揮発し、白黒い濃密な煙となって彼を包み込む。あまりに過剰で致死的なその「誘引成分」の濃度に、殺到していた毒虫たちはかえって感覚を狂わせ、獲物を見失ったかのように一斉に空へと舞い上がった。


毒虫の嵐が、アリオスという「中心」を避けて円環を描くように停滞する。彼が死の際で作り出した、わずか数分だけの、命懸けの空白地帯。フレイアは震える手で彼の背嚢を漁り、最後の一本となった解毒薬を見つけ出した。彼は意識を失う寸前で、もはや薬を飲み込む力さえ残っていない。これを飲み干せば私は助かるだろうか。フレイアはその苦い液体を自らの口に含んだ。そして、虫の息であるアリオスの唇を塞ぎ、無理やりその喉へと薬を流し込む。


「……死神さん。……本当に、楽しい夜に、したかったんだけどさ。それこそ、いつかは旋風にだって……」


微かな吐息を残し、彼女はアリオスを地面に横たえた。魔獣が倒れたことで魔力封印の霧は晴れた、指先に再び懐かしい熱が宿る。いまだ上空を覆い尽くす黒い群れを見上げ、フレイアは満身創痍の体を引きずって立ち上がった。


「来なよ、羽虫ども。……全部焼き尽くしてやる!」


香の薄まりと同時に、一斉に毒虫が空白地帯を埋め尽くす。



森の深部を、巨大な火柱が赤々と照らした。



それは彼女の命を燃料にした、最後にして最大の一撃。全数を焼き切ったという確信を得ると同時に、フレイアの細い体から力が抜け、漆黒の夜の底へと倒れ込んだ。


 

――静寂が戻った。



どれほどの時間が過ぎたのか。アリオスが目蓋を持ち上げたとき、最初に見えたのは、白濁した霧の先に広がる冷たい夜空だった。


「……俺は……死んだのか……?」


朦朧とした意識の中で、唇に残る微かな温もりと、苦い薬の味が記憶を呼び覚ます。  あれは夢ではなかった。


「……フレイア?」


震える声でその名を呼び、彼は傍らへ目を向けた。そこに横たわっていたのは、昨日まで不敵に笑っていた、あの美しい女盗賊の姿ではなかった。毒虫に蹂躙され、赤黒く腫れ上がり、見る影もなく醜く変果てた死骸。


アリオスは、崩れ落ちるように彼女の亡骸を抱き寄せた。唇に残る温もりこそが、彼女が最期に自分に与えた救いであり、そして自分がまたしても仲間から「命」を奪って生きながらえたという、呪いの証明だった。



「あああああぁぁぁぁ!!」



月光すら届かない暗く深い森の奥で、アリオスの慟哭が、虚しく響き渡った。


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