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筆先に踊る白磁の死神  作者: 大須賀隼
死神を祓う聖声
18/19

愛の遺品

再び訪れたその場所は、陽光さえも毒に侵されたかのように、不自然なほどの静寂が横たわっていた。


広場の中央、かつて肉の絨毯が広がった惨劇の舞台に、その魔獣は鎮座していた。


半年を経てさらに巨大化したその体躯は、内側から脈打つ肉の塊が外殻を突き破り、無数の赤黒い複眼がアリオスとセシリアを克明に捉える。


そして何より、その背の肉に深く食い込んでいる、あの子が纏っていたはずの――銀の鎧の無惨な破片が、セシリアの心に鋭い火を灯した。


「……あの子の遺志を、今ここで取り戻しますわ」


セシリアは錫杖を構え、アリオスの隣で深く息を吸い込んだ。アリオスは無言で指先を噛み切り、香炉に血を注ぐ。立ち昇る赤黒い煙。拡張された五感の中で、アリオスが先陣を切った。


凄まじい攻防が始まった。アリオスの剣が魔獣の四肢を斬り裂くが、断面からは即座に新たな肉が芽吹き、分裂を繰り返そうとする。かつて勇者の少女を絶望に叩き落とした、あの無限の再生能力。  


だが、セシリアには秘策があった。リリアンが必要ないと言い放った凍結に代わる、治癒の勇者だけが成し得る禁忌の術。


「『反転』」


セシリアの呟きとともに、白銀の光が魔獣のはじけ飛んだ四肢を包み込んだ。治癒の魔法――それは細胞の成長を加速させ、修復を司る力。そのベクトルを真逆に転じれば、それは生体組織を崩壊へと導く「死の加速」へと変貌する。


魔獣の断面から溢れ出そうとする新たな肉が、芽吹いた瞬間に砂のように崩れ、腐り落ちていく。


「は、ぁ……ッ!!」


同時に、セシリアの全身を、内側から内臓を掻き回されるような激痛が襲った。


他者へ施した術と同じ影響が、術者自身にも降りかかる等価交換の呪い。


魔獣の細胞を壊死させるほど、セシリア自身の細胞もまた、急速にその寿命を削り取られ、死へと近づいていく。


(……分かっているわ、リリアンさん。あなたが望んだのは、この光景なのね)


アリオスのために、己の身を滅ぼしながら必死に魔法を振るう。


その自己犠牲という名の美しい悲劇を、あの女は期待していた。


セシリアは血を吐きながらも、さらに魔力を絞り出す。



(ですが……やわな鍛え方はしておりませんので!)



魔獣の再生が止まった。


ひるんだようにも見えるその間隙を突き、アリオスの剣撃が空間を薙ぐ。


アリオスの剣が、本体の核を捉えようとしたその瞬間。


魔獣の全身から、それまでの不気味な赤黒い魔力とは異質な、清廉で冷徹な白銀の光が溢れ出した。


セシリアの瞳が驚愕に見開かれる。



それは、彼女が王都で何度も目にし、そして愛した


彼女


の魔法だった。


「まさか……空間を、削った……!?」


聖獣は、勇者の少女を喰らったことで、彼女の固有魔法――『転移』の資質を自らの血肉に刻み込んでいたのだ。


魔獣が咆哮を上げると、セシリアの周囲の空間が、歪んだ鏡のようにひび割れた。


少女が誇らしげに語っていた魔物の体を半分だけ飛ばして切り離すという、あの無慈悲な断罪の光が、今度は治癒の術者に向けられる。


逃げる余力はなかった。  



「セシリアっ!!」



アリオスの絶叫が響く中、セシリアの視界が上下に分断された。痛みは、後から遅れてやってきた。


衝撃に弾き飛ばされた彼女の下半身は、数メートル先の岩肌へと転移させられ、切断面から鮮血が噴水のように舞い上がる。



冷たい地面に叩きつけられた上半身。


セシリアは薄れゆく意識の中で、自分に駆け寄るアリオスの姿と、背後で再び空間を歪めようとする魔獣の牙を見た。



「ああ……、ぁ、ああああああ……ッ!」



アリオスの、獣のような慟哭が響き渡る。彼は膝をつき、上半身だけになったセシリアを抱き上げた。


法衣の白は瞬く間に鮮血に呑まれ、彼女の体温は、零れ落ちる命と共に急速に奪われていく。


「アリオス、様……。……そんな、顔を、しないで」


セシリアの指先が、震えながらアリオスの頬を撫でた。


治癒の勇者である彼女には分かる。


自らへ掛けた『反転』の呪いと、空間転移による切断。


もはや、いかなる奇跡も自分を繋ぎ止めることはできない。


背後で、聖獣が嘲笑うように顎を鳴らした。


無防備なアリオスの背中に向け、再び「白銀の光」が収束していく。


少女から奪った、必殺の転移。空間そのものを削り取る一撃が、アリオスへ向けて放たれた。



「逃げて、アリオス様……!」



セシリアが最期の力を振り絞って叫んだ、その瞬間だった。


アリオスの周囲で空間が激しく歪み、鏡が割れるような音を立てた。


――だが、それだけだった。アリオスの肉体は、指先一つ飛ばされることなく、そこに在り続けた。


「……な、ぜ……?」



アリオスが呆然と呟く。魔獣は戸惑ったように複眼を揺らした。


その時、アリオスの胸元に吊るされた、あの安物のお守りが、かつてないほど激しく白銀の光を放ってい

た。


セシリアは、その光を見てすべてを悟った。


治癒の勇者としての知性が、最期の瞬間に真実を繋ぎ合わせる。


「……そう、だったのね……。そのお守りは道しるべ……あの子が幼いころ他人を飛ばす練習をする際に、人を削ってしまわないようにするためのおまじない」



それは、彼女が、アリオスへ授けた小さな恋の証。



彼女の初恋が、アリオスをこの世に繋ぎとめる。


「あの子は……最期まで、あなたを……」


セシリアの声が、震える。


だが、その感動は、次の瞬間に湧き上がった氷のような戦慄に塗り替えられた。  


「きっと、彼女は……知っていたのね」


魔獣が食らったものの魔法を会得していること。そして、アリオス様がこのお守りを持っていること。



「彼女は……安心して、……私たちが殺されるのを、見守っていたのよ。……あなたが『唯一の生き残り』として、彼女の元へ、……絶望して戻ってくるための、……シナリオを、書いて……」


セシリアの口から、どろりと黒い血が溢れた。  


「……あ……ああ……」



アリオスの中で、リリアンという聖域が、音を立てて崩壊していく。


膿を出してくれた手の温もりも。


取り寄せた薬の恩義も。


すべては、自分が彼女の「所有物」として、孤独に生かされるための演出だった。


幼い勇者が遺した、あまりに純粋な愛の遺品。


それを、あの女は、自分の独占欲を完成させるための安全装置として利用していたのだ。


「……アリオス様。……ごめんなさい、私……。……あなたを、……奪いたかった、けれど……」


セシリアの瞳から、光が失われていく。


彼女は最後に、アリオスの胸元で輝くお守りを愛おしそうに握りしめた。


「……生きて。……彼女の、物語を、……終わらせて……」


セシリアの腕が、力なく地面に落ちた。



治癒の勇者、セシリア。



王都から親友の真実を求めてやってきた彼女は、その残酷すぎる愛の証明をアリオスの魂に刻みつけ、絶命した。



――静寂。    



森を揺らしていた風が止まる。アリオスは、動かなくなったセシリアを抱いたまま、ゆっくりと顔を上げた。  


その瞳から、自責の念も、悲しみも、すべてが消えていた。    



ただ、白磁のようなその貌が、地獄の底で冷え切った殺意を宿して、背後の魔獣を――そして、その先にいる脚本家を捉えていた。



アリオスは、既に事切れたセシリアをゆっくりと地面に横たえた。


その所作は、壊れやすい硝子細工を扱うように、痛切なまでの慈しみに満ちていた。    


背後では、聖獣が執拗に「白銀の光」を収束させていた。勇者の力を得た増長。


空間を削り取り、勝利を確信した獣が、トドメの一撃をアリオスへ放つ。


だが、アリオスは振り返りさえしなかった。    



パリン

と。


アリオスの周囲で、空間の歪みが空虚に砕け散る。


幼き勇者が遺し、リリアンが「安全装置」として利用した、あのお守り。


その光は今や、アリオスの殺意と共鳴し、彼をこの世界の絶対的な座標へと固定していた。


もはや「転移」という不確定な理は、彼の一片の髪さえも揺らすことはできない。



「……終わりだ」



アリオスが、初めて自らの意志で剣を抜いた。

 

「死神」と呼ばれた男が、自らの内側に潜む絶望を、すべて刃へと変える。彼は指先を噛み切ることさえしなかった。


ただ、一歩。


踏み出した瞬間、彼の姿が白磁の残像となり、魔獣の懐へと潜り込む。


咆哮を上げる暇さえ与えなかった。


縦、横、斜め。  


かつて彼と組んだ剣士の太刀筋が。魔法使いが遺した術理の残響が。


そしてセシリアの『反転』への理解が。


アリオスの剣の中で一つに溶け合い、暴力的なまでの精度で魔獣の肉を解体していく。


魔獣の背に食い込んでいた銀の鎧の破片が、宙を舞った。


核を剥き出しにされた獣に対し、アリオスは無慈悲な一撃を叩き込んだ。


ズブリ、と核が砕ける音。  



聖獣は、自分が喰らってきた女たちの絶叫を吐き出すかのような不気味な声を上げ、ただの汚泥となって崩れ落ちた。



――後に残ったのは、泥濘に沈む魔獣の残骸と、横たわる勇者の亡骸だけだった。



アリオスは、力なく転がっているセシリアの下半身を抱え、上半身の隣へと並べた。


そして、自らの漆黒の上着を脱ぎ、彼女の無惨な切断面を覆い隠すように被せた。彼は、セシリアを抱き上げた。


村へと続く街道。空からは、すべてを洗い流そうとするかのような、冷たい雨が降り始めていた。


血まみれの白磁の青年が、自分よりも大きな亡骸を抱え、一歩、また一歩と村へ向けて歩いていく。


その姿は、かつて村人たちが恐れた「死神」そのものだった。村の門に辿り着いたとき、人々は悲鳴を上げて逃げ惑った。


だが、アリオスには彼らの声も、怯えた視線も届かない。  


彼はただ、一本の真っ直ぐな道が、あの組合へと続いていることだけを見つめていた。    


重い扉を、アリオスは一蹴りで吹き飛ばした。乾いた音が建物内に響き渡る。酒場の冒険者たちが、そして事務作業をしていた職員たちが、一斉に動きを止めた。



カウンターの奥。  



そこには、いつもと変わらぬ、春の陽光のような微笑みを浮かべたリリアンが立っていた。


彼女はアリオスの凄惨な姿を、そして彼が抱いている「荷物」を見て、一瞬だけ、恍惚とした悦びに瞳を細めた。  



(ああ……アリオス様。おかえりなさい。……また、独りになられたのね。これで、やっと……)    



リリアンは、カウンターを回り込み、小走りでアリオスへ駆け寄った。


「アリオス様! ……なんて酷いお姿。……ああ、セシリア様も。残念ですわ、本当に、あんなに私、協力したのに……」    


彼女の手が、アリオスの頬に触れようと伸びる。


その瞬間。アリオスは、セシリアの亡骸をカウンターの上へと静かに横たえた。


組合の台帳。


依頼書。


リリアンが「物語」を綴ってきたその場所を、セシリアの鮮血が、漆黒のインクを塗り潰すように汚していく。    



リリアンの動きが、凍りついた。    


アリオスが、血に濡れた剣の先を、リリアンの喉元へと突きつけたからだ。  



「……お前の、……インクは、……もう、枯れたぞ。リリアン」    


アリオスの瞳には、もはや一滴の絶望もなかった。そこにあるのは、自らの人生を汚し、愛した者たちを屠り、自分を「孤独」という檻に閉じ込めた脚本家に対する、底なしの、そして静かな殺意だけだった。









リリアンの微笑みが、ゆっくりと、歪に崩れていく。  













「……アリオス様。……どうして、そんなに怖い顔をなさるの?」


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