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筆先に踊る白磁の死神  作者: 大須賀隼
死神を祓う聖声
17/19

リリアンの誘い

焚き火の爆ぜる音が、静寂に波紋を広げる。


肩に掛けられた外套から伝わるアリオスの体温と、そこに混じったあの不自然な解毒薬の甘い残り香。


それが、セシリアの思考を鋭く研ぎ澄ませていた。


(……間違いないわ。これは、偶然の連鎖などではない)


セシリアは暗闇の中で、脳内にシルヴァ村の冒険者組合の構造を思い描き、それを一つの「巨大な蜘蛛の巣」として再定義した。  


冒険者組合の受付という立場は、この辺境において情報のすべてが集約される「ハブ」だ。


依頼、パーティの仲介、魔物の調査報告、さらには備品や薬品の調達まで。もし、その中央に座る番人が、私的な情念のために情報を間引く術を心得ていたとしたら。


(アリオス様がパーティを組む際、リリアンさんは必ずその構成を把握している……)


セシリアの背中に冷たい汗が流れる。


勇者の少女が放った「転移」が最悪の分裂を招いたのは、彼女が未熟だったからではない。そうなるように、情報の断片をリリアンに奪われていたからだ。


(すべては、アリオス様を独占するために。……彼から『他者との繋がり』を奪い尽くし、最後に残った唯一の理解者という席に、彼女自身が座るために)


それは、愛と呼ぶにはあまりに重く、呪いと呼ぶにはあまりに献身的な、狂気のゆりかごだった。だが、セシリアを最も戦慄させたのは、リリアンの冷酷さではなかった。その狂気の理屈を、今の自分なら「理解できてしまう」という事実だった。


(……ああ。私も今、同じことを考えてしまっているのではないかしら)


外套の襟元を強く握りしめる。


アリオスを王都へ連れて行きたい。この暗い村から引き離し、リリアンの影が届かない場所へ。そこで私が、彼の傷を癒やし、彼を支え、彼の唯一の……。


「……っ」


セシリアは唇を噛み切り、自己嫌悪の毒に震えた。「救いたい」という善意の皮を一枚剥げば、そこにはリリアンと同じ彼を独占したいという醜い欲望が脈打っている。    


セシリアがリリアンの動機を確信できたのは、彼女が聖職者として優れていたからではない。セシリア自身もまた、アリオスというあまりに美しく、孤独な魂に魅入られ、リリアンと同じ領域に足を踏み入れかけていたからだ。


(リリアンさんと私、何が違うというの? 彼女は彼を閉じ込めるために世界を壊し、私は彼を救うために彼女を壊そうとしている。……結局のところ、二人ともアリオス様という獲物を奪い合っているだけの、強欲な女でしかないのではないか)


だが、セシリアは錫杖を握る手に力を込めた。たとえ自分の動機に汚れが混じっていたとしても。リリアンがアリオスに与えている愛は、彼の人間性を削り、薬という鎖で繋ぎ止めるだけの、緩やかな死だ。


(私は、彼を殺させない。……あの子が愛し、命を懸けて守ったアリオス様を、あのような女の執筆する物語の結末にさせてはならない)


セシリアは、アリオスの寝顔をじっと見つめた。リリアンの「筆先」を折るためには、まずアリオス自身に、彼が信じている聖女の正体を突きつけなければならない。それは彼にとって、唯一の救いを奪うに等しい、残酷な作業になる。


(憎まれてもいい。……それが、あの子への贖罪であり、私が彼に捧げられる、唯一の真実なのだから)



翌朝、森を包んだのは、前夜の熱をすべて奪い去るような白く冷たい霧だった。焚き火の跡は黒い染みとなり、アリオスは無言で旅の支度を整えていた。


外套を返却したセシリアとの間には、昨夜の微かな体温の共有が嘘だったかのような、刺すような静寂が横切っている。


「……アリオス様。出発の前に、一つだけお話しさせてください」


錫杖を握るセシリアの指先は、冷気で白くなっていた。アリオスは荷物を背負う手を止め、感情を削ぎ落とした瞳で彼女を見た。


「あの現場で見つけた羊皮紙……あれが意図的に書き換えられていたことは、あなたも認めましたわね。あの子は、戦い方を間違えさせられていた。……不運ではなく、誰かの手で、あの凄惨な結末へと背中を押されたのです」


「……だから、何が言いたい」


アリオスの声は低く、拒絶の壁を築こうとしていた。セシリアはその壁の亀裂に、自らの言葉を楔として打ち込む。


「これは、単なる暗殺や嫌がらせではありませんわ。……アリオス様、犯人の目的は、あなたの『孤立』です。あなたが仲間を失い、絶望し、世界から見捨てられたと思い込むこと。……そして、最後に残った『誰か』だけを、唯一の救いだと信じ込ませること。これは、歪んだ愛の物語シナリオなのです」


アリオスの眉が、不快げに跳ねた。


「愛だと? ……馬鹿馬鹿しい。俺の周りで人が死ぬのは、俺にその報いを受ける資格があるからだ。俺の罪を軽くしようとするな」


「罪などではありません! これは、あなたのその秀麗な容姿と孤独に魅入られた何者かが、あなたという白磁を独占するために仕掛けた、残酷な飼育なのです! あなたが薬を飲まなければならない身体にされたのも、神官を遠ざけ不完全な治療を施されたのも、すべては――」



「やめろ」



アリオスの怒声が、霧を切り裂いた。彼は一歩、セシリアに詰め寄り、その胸ぐらを掴まんばかりの勢いで見下ろした。漆黒の髪の間から覗く瞳は、怒りよりも深い、裏切りに対する悲しみに揺れていた。


「あんたは、俺を救ってくれた人たちを侮辱している。……死神と呼ばれ、村中から石を投げられていた俺を、誰が介抱したと思っている。三日三晩、寝る間も惜しんで俺の膿を出し、特級の薬を王都から取り寄せてくれたのは、一体誰だと……!」


セシリアは、アリオスが直接「その名」を口にしないよう必死で踏みとどまっているのを感じた。


彼にとって、リリアンは恩義を超えた信仰の対象ですらあるのだ。


唯一、自分を見捨てなかった聖母。その彼女を疑うことは、アリオスにとって、これまで耐えてきた苦痛の意味を失うことと同義だった。


「アリオス様、落ち着いてください。私は、特定の誰かを指しているわけでは――」


「いいや、あんたの目は言っている。……あんたも、他の女と同じだ。俺の周囲の事情を勝手に解釈し、自分の都合の良い正義を押し付ける……!」


アリオスは吐き捨てるように言うと、震える手で腰の革袋から薬の瓶を取り出した。そして、セシリアが止める暇もなく、それを一気に飲み干した。


瞬時に、彼の激昂が凪いでいく。感情が強制的に冷やされ、瞳から生気が失われていく。その様子は、救いというよりは、感情という名の魂を薬で塗りつぶしていく自殺行為に見えた。


「……もう、この話は終わりだ。……現場の確認は済んだ。あとは、依頼を完遂しにいく」


アリオスは背を向け、霧の奥へと歩き出した。その背中に、セシリアはかける言葉を見つけられなかった。


彼女自身の心にある「彼を独占したい」という恋心が、彼女の言葉に嫉妬という毒を混ぜてしまったのかもしれない。


アリオスには、セシリアの忠告が、献身的なリリアンへの醜い中傷にしか聞こえなかったのだ。



(……ああ。私の負けだわ、リリアンさん)



セシリアは、外套に僅かに残る彼の匂いを抱きしめるように錫杖を突いた。アリオスは、リリアンが用意した薬と絶望に、自ら選んで縋っている。


真実を伝えることが、必ずしも救いになるとは限らない。



だが、それでも。



セシリアは、アリオスの後に続いた。


霧の先には、かつて勇者の少女を喰らい、そして今度はセシリアという新たな光を葬るために牙を研いでいる魔獣が待っている。


そしてその盤面を、村のカウンターから静かに見つめている、一人の女の気配がした。



数日後、シルヴァ村へ戻った二人を待っていたのは、組合のカウンターでいつも通りに微笑む、非の打ち所のない聖女の姿だった。


「お帰りなさいませ、アリオス様。……あら、セシリア様。少し、お疲れのようですね」


リリアンは、カウンターを回り込んでアリオスに歩み寄った。彼女の視線は、アリオスとセシリアの間に流れる、冷たく、刺々しい空気を一瞬で捉えていた。


セシリアが昨夜、アリオスの聖域に触れ、そして拒絶されたこと。


その不協和音を、リリアンは旋律を楽しむ音楽家のように、悦びと共に聞き届けたのだ。


「……例の件だが」  


アリオスが言葉を濁すと、リリアンは優しく彼の腕に手を添えた。


「分かっております。……調査は、辛いものでしたのでしょう? さあ、まずはお薬を。予備を多めに調合しておきましたから」



アリオスが吸い寄せられるように薬瓶を受け取る。その従順な姿を、セシリアは拳を握りしめて見つめるしかなかった。


リリアンは、勝ち誇るような視線を一瞬だけセシリアに向けたが、すぐにそれを深い憂いを含んだ眼差しにすり替えた。


「勇者様。……実は、あなたが不在の間に、村の北側で不穏な報せが入りました。……あの子を、あの幼い勇者様を奪った『聖獣』が、再び姿を現したのです」


「……っ、何ですって」  


セシリアの錫杖が、カツンと床を鳴らした。


「傷を癒やし、以前よりもさらに凶暴化しているようです。このままでは村に被害が出かねません。……ですが、アリオス様。今のあなたには、あの子の意志を継ぐ、高潔な『治癒の勇者』様が隣にいらっしゃる」


リリアンは、まるで二人を祝福するかのように、一枚の新しい依頼書をカウンターに広げた。


「これこそ、運命だと思われませんか? セシリア様の聖なる力があれば、あの子の無念を晴らし、アリオス様の呪いを解くことができるはずです。……私も、精一杯のバックアップをお約束しますわ」


セシリアの背中に、冷たい悪寒が走った。リリアンは気づいている。セシリアが自分の正体に指をかけたことを。だからこそ、彼女は逃げ場のない戦場を、アリオスへの愛という餌で飾り立て、用意したのだ。


(……この依頼、断ればアリオス様は独りででも向かうでしょう。……彼女は、私が彼を見捨てられないことを分かっていて、この毒皿を差し出しているのね)


セシリアは、リリアンの手元にある依頼書を凝視した。  


そこには、聖獣の出現地点と、事細かに記された対策が書かれていた。だが、セシリアには分かっていた。


この美しいインクで綴られた文字の裏側に、自分という不純物を排除するための、狡猾な落とし穴が隠されていることを。


「承知いたしました。……お受けしますわ。アリオス様、行きましょう。……決着を、つけなければなりません」


だが、一言だけ。嫌味は言わなければならない。


「今回の依頼書には『凝った装飾』は施されていないようですわね」


リリアンは表情を変えずに言い放つ。


「ええ。必要ありませんので」


その言葉の冷たさにセシリアが虚を突かれている間にもリリアンがもう一言紡ぐ。


「凍結も必要ありませんわ。増殖する細胞の成長を止める役目は、『治癒』の逆再生で可能です」



(……やはり、私を殺す気なのね。リリアンさん)



治癒の魔法。


それは、生体組織の成長のコントロールを操る魔法。治癒を逆再生することも可能であり、それは肉体を破壊する魔法となる。


その強力すぎる魔法に与えられた制約はたった一つ。


他者に対して施した魔法と同様の魔法が自らへ掛かる呪い。


上限を超えた回復は、細胞の寿命、ひいては術者の寿命を縮めるため、この制約により大勢の治癒に従事することはできない。



つまり。逆再生は自らの身体をも破壊する諸刃の剣。


再生し続ける相手に逆再生をかけ続けることがどのような意味を持つのか。


おそらく彼女はわかって言ったのだろう。彼女の仇討ができるのならば、私は身を滅ぼしてでもその魔法を使うと知って。


なんと狡猾な。



セシリアは、あえて挑発を受け取った。「純粋な愛」が用意した最終舞台。そこで待っているのは、再会という名の絶望か、あるいは――。


 

組合の窓から差し込む斜光が、リリアンの瞳を赤く染めていた。  


演出家は、最後の幕を上げるための準備を、万全の悦びと共に終えたのだ。


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