導かれる答え
シルヴァ村の正門を潜り、再び街道へと踏み出した二人の背後には、重苦しい「視線」が張り付いていた。
出発の際、リリアンは組合の入り口まで見送りに現れた。彼女はアリオスの汚れを払うようにその肩に手を置き、小さな革袋を差し出した。
「アリオス様。無理はなさらないでくださいね。……お薬、ご用意いたしました」
アリオスは無言でそれを受け取り、縋るようなリリアンの瞳を直視できぬまま、逃げるように歩み出した。
その光景を横で見ていたセシリアの肌には、得体の知れない鳥肌が立っていた。リリアンの瞳に宿っていたのは、愛する者を案じる光ではない。それは、自分の所有物に消えない刻印が刻まれているかを執拗に確認する、蒐集家のそれであった。
村を離れ、森の深部へと足を踏み入れると、アリオスの様子は一変した。
彼は一歩進むごとに足を止め、周囲の気配を過剰なまでに探る。その動作は慎重という域を越え、何かに怯えているかのようにさえ見えた。
「……アリオス様。少し、神経を削りすぎではありませんか?」
セシリアの問いに、アリオスは応えない。
街道が森に差し掛かったころ、アリオスは無造作に指先を噛み切り、滲み出た鮮血を腰に下げた香炉へと滴らせた。途端、香炉から赤黒い煙が立ち昇り、アリオスの瞳が異様なまでの鋭さを帯びて発光する。
(血を使った索敵……。あれは、感覚を無理やり拡張させる禁忌の術のはず。そんなことを続ければ、精神が焼き切れてしまう)
セシリアが止めようと手を伸ばしかけたその時、アリオスが微かに呻き、膝を折った。拡張された五感に耐えきれず、激しい眩暈が彼を襲ったのだ。
「っ……、はぁ……、はぁ……」
荒い呼吸を繰り返すアリオスの手は、震えながらリリアンから渡された革袋を探り、中から一瓶の薬を取り出した。彼はそれを、喉を鳴らして一気に煽る。瞬時に、アリオスの顔色が戻り、震えが収まった。
「……大丈夫だ。これを飲めば、身体の芯に残っている毒の痛みが引く」
アリオスは空になった瓶を握りしめ、安堵のため息を吐いた。だが、セシリアの眼はその安堵の正体を見逃さなかった。
治癒の勇者である彼女は、これまで数多の薬草と毒物を扱ってきた。アリオスが飲んだ薬から漂う、微かに甘ったるく、粘り気のある香り。
それは、正常な解毒薬が持つべき清涼感とは対極にあるものだ。
(解毒……? いいえ、あれは感覚を麻痺させているだけだわ。それどころか……)
セシリアの脳内に、神学的な直感と医術的な知識が火花を散らす。アリオスが訴えている「残った毒の痛み」は、本当に半年前の魔獣によるものなのか。
もし、あの薬そのものが、服用を止めれば激痛を伴うような「依存」を目的とした劇物だとしたら。
リリアンは彼を救っているのではなく、薬という名の鎖で彼を自分のカウンターに繋ぎ止めているのではないか。
「アリオス様、その薬を少し見せていただけますか?」
「……いや、いい。これは俺に必要なものだ。組合が……俺のために、わざわざ王都の本部から取り寄せてくれた貴重なものなんだ」
アリオスの言葉には、盲目的な恩義が張り付いていた。
セシリアはそれ以上追求するのを止め、沈黙して彼の背中を追った。森はさらに深く、暗くなっていく。かつて、幼い勇者が命を落とした戦場まで、あともう少し。
アリオスが宿命だと信じ込まされているその場所で、どのような真実が口を開けて待っているのか。
セシリアは錫杖を強く握りしめた。
深い森の最深部。そこだけがぽっかりと円形に開け、不自然なほどの静寂が横たわっていた。かつて「血の絨毯」が広場を埋め尽くしたという惨劇の舞台。今はただ、枯れ果てた草木が黒ずみ、陽光さえも地面に届くのを拒んでいるかのように澱んでいる。
「……ここだ。……あの子が、最後にいた場所だ」
アリオスの声は、今にも消え入りそうなほど細かった。彼は広場の中央、かつて少女が消えた一点を凝視したまま、一歩も動けずに立ち尽くしている。その背中は、過去の重圧に押し潰されそうなほど丸まっていた。
セシリアは無言で広場に踏み込んだ。治癒の勇者としての感覚が、地面に染み付いた強烈な「死」の残滓を拾い上げる。彼女は錫杖を傍らに置き、膝をついて、土に半分埋もれた「何か」を見つけ出した。
「これは……」
泥を払い除けると、銀色の意匠が施された小さな革鞄が姿を現した。それは、セシリアが王都で少女に贈った、彼女の愛用品だった。
鞄は魔獣の体液に焼かれ、無残に形を歪めていたが、中身は辛うじて守られていた。
震える手で鞄を開け、セシリアは中から一枚の羊皮紙を取り出した。組合から発行された、聖獣の情報。
リリアンが勇者に手渡した、運命の道標。
「アリオス様、これを見てください」
セシリアの声の冷徹さに、アリオスがようやく顔を上げた。彼はふらつく足取りでセシリアの隣に跪き、その羊皮紙を覗き込む。
「……それは、組合が用意した調査報告書。……それがどうかしたのか?」
「どうかしたのか、ではありませんわ。よく見てください。この、『聖獣』の能力が記されているはずの部分を」
セシリアが指し示した箇所。
そこには、かつてリリアンが深夜の事務室で、悦びに指先を震わせながら書き換えた「嘘」が残されていた。
本来ならば『切断された断面から分裂、再生する』という、この魔獣の最も警戒すべき特性が記されているはずの行。
そこは、まるで最初から何も書かれていなかったかのように、漆黒のインクで厚く塗り潰されていた。
ただ塗り潰されているのではない。
その黒い染みは、丁寧に、まるで霧や森の装飾を描くかのような筆致で、美しく「加工」されていた。
「……インクの、……装飾?」
アリオスが呆然と呟く。
「いいえ。これは『消去』です。……それも、偶然汚れたのではありません。見てください、このインクの跳ね方。……まるでお祝いのカードでも書くような、軽やかな、けれど執拗な力加減。……作成者の『意志』を感じますわ」
セシリアは羊皮紙を太陽の光にかざした。
透かして見れば、黒塗りの下にかすかに『再生』の文字の端が覗いている。
「再生能力……。そんな情報、彼女からは聞いていない」
アリオスの顔から、血の気が完全に失われた。
勇者の少女は、リリアンから渡されたこの紙を信じ、アリオスのために最善を尽くそうとして、結果的に死の罠を自ら起動させてしまったのだ。
「これは事故ではありません。……アリオス様。これは、何者かが彼女に『間違った方法で全力で戦わせる』ように仕向けた、周到な殺害計画です。……アリオス様、この依頼書を彼女に手渡したのは誰ですか」
「……わからない。俺が彼女についていくと決めたときにはすでにその手に握られていた。だが……」
考えを巡らせるが、そのような悪意を込められる人間に思い当たらない。
「この塗り潰されたインク。……先ほど、組合のカウンターで彼女が使っていたものと同じ色、同じ質感ですわ。」
森を抜ける風が、セシリアの持つ羊皮紙を激しく揺らした。
惨劇の跡地に、夜の帳が下りる。広場から少し離れた風除けの岩陰で、二人は焚き火を囲んでいた。
爆ぜる薪の音だけが、沈黙を埋めるように響く。
アリオスは膝を抱え、ただゆらゆらと揺れる炎の先端を、魂をどこかに置き忘れたような瞳で見つめていた。
「……アリオス様。実を言えば、私は彼女から、聖獣討伐に向かう直前に伝書を受け取っていたのです」
セシリアの唐突な独白に、アリオスの肩がわずかに跳ねた。彼女は懐から、端が少し擦り切れた一通の手紙を取り出した。
そこには、幼い勇者が、姉のように慕うセシリアへ宛てた最期の言葉が綴られていた。
「そこにはね……こう書いてありました。――村へ来てみたら、冒険に絶望し、井戸の底に沈んでいるような一人の男の人に出会った、と」
アリオスは息を呑み、縋るような視線をセシリアへ向けた。
「彼女は続けてこう書いていました。『一目見たその時から、この人の助けになりたいと思ってしまった。私が彼の光になって、一緒に聖獣を倒しに行きます』……。あの子、とても誇らしげだったのですよ」
セシリアは焚き火の熱を反射するように、目を細めた。
「私がこの村に来たのは、あの子の最期を調べるため……それが第一の目的でした。けれど本当は、もう一つ理由があったのです。あの子を一目惚れさせた、彼女の心を奪った『絶望の男』がどんな人なのか、私の目で見極めてやりたかった。親心のような、意地の悪い好奇心ですわ」
アリオスは何も言えず、唇を戦慄かせた。
「ですが、実際にあなたに会い、こうして共に歩んでみて……分かりましたわ。今のあなたは、確かに『死神』などと呼ばれ、ボロボロに擦り切れている。けれど、誰かを守るために自分の指を噛み切り、神経を焼き切りながら戦い続けようとする……その、生きるために、そして誰かを生かすために懸命なあなたの姿。あの子があなたを愛した理由が、私にも分かってしまった」
セシリアの声が、夜の冷気の中で微かに震えた。
アリオスは無言で立ち上がると、自分の背に掛けていた厚手の外套を脱ぎ、セシリアの肩にそっと被せた。
「……夜は冷える。あんたは、風邪を引いてはいけない」
ただそれだけを言い残し、彼は再び自分の席へと戻る。外套に残る、アリオスの微かな体温。そして、彼から漂うあの甘ったるい解毒薬の香りと、血の匂い。それらが混ざり合い、セシリアの鼻腔をくすぐる。
その瞬間、セシリアの胸の奥が、締め付けられるような熱に侵された。
(ああ……なんてこと。私も、あなたを……)
自分の心に芽生えた、疼くようなときめき。
「この人を癒やしてあげたい」
という献身の裏側に潜む
「この人を誰の手も届かない場所へ連れ去ってしまいたい」
という、醜くも鮮烈な独占欲。
その熱を感じた瞬間、セシリアの脳裏に、氷のような戦慄が走った。
今、私の中に生まれたこの感情を。もし、理性の鎖をすべて引き千切って、狂気というインクで煮詰めた者がいるとしたら。
「アリオスを、自分だけのものにしたい」
その目的を達成するために、彼の周りに集まる「光」を、次々と闇で塗り潰している者がいるとしたら。
「……っ」
セシリアは、震える手でアリオスの外套を握りしめた。
リリアンの動機は、悪意でも、呪いでもない。
自分がいま感じているこの「愛」という名の執着。その極致に、あの受付嬢は立っている。
セシリアは、最悪の答えに辿り着いた。
アリオスの周りで人が死ぬのではない。リリアンが、彼を「孤独という名の揺り籠」に閉じ込めるために、世界を間引いているのだ。




