墨でつぶす赤色
勇者様という眩き光が消え、村に再び静寂が訪れました。
あの日以来、アリオス様はまるで何かに取り憑かれたように、ただ黙々と、より強く、より凶悪な魔獣へと一人で挑むようになりました。
返り血を浴び、泥にまみれ、それでもなお凛と立つそのお姿。
日々たくましく、鋭利に研ぎ澄まされていくアリオス様をカウンターから見つめる時間は、私にとって至福のひとときでした。ですが……ああ、神様。人間とは欲深い生き物です。
彼が強くなればなるほど、彼は誰の手も借りなくなりました。
報告は簡潔になり、視線が交わる時間は短くなり、あの日、私の腕の中で震えていた「私の王子様」が、手の届かない高みへと登っていく。
私と彼の間に、またしても「言葉のない壁」が築かれようとしていました。物足りない。もっとお話ししたい。もっと、私がいなければならないと、その骨の髄まで分からせて差し上げたい。
そんな私の飢餓感を見透かしたかのように、あの「旋風」がシルヴァ村へと舞い込みました。
「アンタ、仲間を殺しているのか」
酒場の空気を切り裂く、フレイアと名乗った女の不遜な声。私はカウンターの端で、貼り付けた笑顔の裏側、全神経を研ぎ澄ませて彼らの会話を盗み聞きしていました。
次は、失敗してはいけません。
一角獣の時のように、アリオス様が無傷で帰ってきてしまっては困るのです。たとえ目障りな女を葬り去ることに成功しても、彼が独りで平然と戻ってきてしまえば、私の出番は訪れない。
心苦しいけれど……アリオス様。少しだけ、あなたにも苦しんでもらう必要がありそうです。
旋風フレイア。
短剣を操り、火炎魔法も使いこなす万能型。
シーフの端くれならば、単純な落とし穴や物理的な罠では、あの敏捷な体躯を仕留めきれないでしょう。
ならば、彼女の最大の武器である「能力」を過信させ、その自信ごと圧殺する舞台を用意しましょうか。
私は深夜、ギルドの奥底に眠る「保留」された依頼書を掘り起こしました。
(……ありましたわ。甲殻と呼ばれる魔獣の亜種、討伐依頼)
季節柄、毒虫が大量発生する湿地帯。そこには、魔力を霧散させる「魔封の霧」を吐き出す亜種が生息しています。
亜種でさえなければ、短剣で隙間を突き、毒虫を火炎で焼くだけの単純な任務。これならば、自信家の彼女に紹介しても不自然ではありません。
私は震える指でペンを握り、インクをたっぷりと含ませました。そして、羊皮紙に刻まれた『亜種』の二文字を、一切の迷いなく塗りつぶしました。その上から、依頼書の余白を飾る装飾的な霧の絵を書き加え、真実を闇の中に葬り去ります。
「……承知いたしました。フレイア様、そしてアリオス様。正式なパーティ登録を完了しました。お二人でしたら……ちょうど、こちらなどいかがでしょうか」
「こいつなら戦ったことがある。でかい蟹みたいなもんでね、関節の間に鋭利なものを差し込めば余裕さ。……デカいわりに、こいつは味もいいんだ」
上手くいきました。
これでアリオス様も無傷ではいられない。
フレイアの魔法は封じられ、無数の毒虫がその白磁の肌を汚し、刺し、その命の灯火を限界まで細めることでしょう。
凄惨な姿になって帰ってくるであろう彼を想像すると、私の胸は甘い痺れを覚えました。
あぁ、それは私が恋焦がれている美しいお姿ではないかもしれません。
けれど、大丈夫。
私はすでに準備を始めています。
組合の仕入れリストには、王都から取り寄せた最高級の『特級解毒薬』を追加しました。
膿の出し方も、傷口の縫い方も、医術書を隅から隅まで読み耽り、完璧に頭に叩き込みました。
それから、宿の部屋の鍵の開け方も、念入りに復習しておかなければなりませんね。
大丈夫ですよ、アリオス様。あなたは死にません。
私が、あなたを生かして差し上げますから。仲間を失った絶望と、死の淵を彷徨う苦痛。
そのすべてを乗り越えた先に待っている、私とあなただけの「長い長いおしゃべり」の時間。
あぁ……楽しみで、夜も眠れませんわ。




