眩き光の幕引きに
ギルドのカウンターから眺める世界は、いつだって代わり映えのしない、埃っぽくて騒がしいだけの箱庭です。
でも、その中心にアリオス様がいらっしゃるだけで、この濁った空気は教会の聖域よりも清らかなものへと変わります。
アリオス様。
心の中でそのお名前を呼ぶだけで、私の胸の奥は甘い熱に満たされます。
今のあなたは、磨き抜かれた白磁の彫像のように美しく、そして……ひどく遠い。あの日、私の腕の中で子供のように泣きじゃくり、すべてを曝け出してくださった時のあの温もり。私の名前を呼んでくれた、あの震える唇。
あの至福のひとときを思い出すたび、私は自分の指先が悦びに震えるのを抑えられません。
けれど、最近のあなたは、私とさえ目を合わせてくれません。
いいえ、私だけではありません。あなたは今、この世界のすべてを拒絶するように、深い孤独の淵に沈んでいらっしゃいます。
誰とも言葉を交わさず、ただ静かに剣を研ぎ澄ませるあなた。その影を落とした横顔も、ため息が出るほど素敵ですが……。
私は、あなたとお話ししたいだけなのです。
なのに、今のあなたはあまりに頑なです。あなたの周りには、私が入り込む隙間さえない。それは、これまでの「不幸な事故」で失われた女性たちの記憶が、不純物としてあなたの心にこびりついているから。
そう。新しい「出会い」が必要なのです。
あなたが再び外の世界へ目を向け、そしてまた私とその冒険のお話をするための……最高に眩しいきっかけが。
そんな私の願いが天に届いたのでしょうか。王都から一通の親書が届いたのは、そんな停滞した午後のことでした。
「勇者様がこの村に……神獣、の討伐……」
村に甚大な被害を出している魔物の討伐。
そのために、王都から『勇者』が派遣されるといいます。内容を精査しながら、私のペン先は無意識に跳ねました。
勇者。
光。
希望。
あぁ、なんて素晴らしい。
アリオス様を井戸の底から引きずり出すには、それくらい強力な光でなければ務まりません。
きっと、清廉潔白で、正義感に溢れた、立派な騎士様が来られるのでしょう。
その方がアリオス様を勇気づけ、共に戦い……そして、あえなく散ってくだされば。
アリオス様とまたお話ができるはず。どんな方がいらっしゃるのかしら。
期待に胸を膨らませて待つこと三日。
早朝、組合の前を清掃していた時に、その光が現れました。その周囲を包むような暖かい光だけで、姿が見えずとも勇者様であることが確信できました。
「勇者様!お待ちしておりま……」
挨拶の言葉が、途中で止まりました。そこに立っていたのは、私が想像していたような、筋骨隆々の重騎士ではありませんでした。
身の丈に合わないほど大きな銀の剣を背負い、朝露を浴びた花のようにみずみずしい頬をした、少女。まだ十二、三歳といったところでしょうか。
あまりに幼く、あまりに可愛らしく。
そして何より、その瞳には、この世の穢れを一切知らないような、眩いばかりの「善意」が宿っていました。
私は、思わず口元を押さえました。
あぁ、神様。あなたはなんて粋な計らいをしてくださるのでしょう。アリオス様をあてがうにふさわしい光がまさにそこに顕現しました。
「あの……。こちらが、冒険者組合のシルヴァ支部、でしょうか?」
鈴を転がすような、幼い声。私は、溢れ出しそうになる歓喜を押し殺し、この世で最も優しい聖女のような微笑みを彼女に向けました。
「ええ、ようこそ勇者様。心よりお待ちしておりました」
さあ、幕を上げましょう。この眩き光が、アリオス様の闇を照らし出し、そして最期に……私の指先で静かに掻き消される、アリオス様が私に声をかけてくださるその瞬間のために。
朝露に濡れた石畳を汚さぬよう、羽を広げるような足取りで少女をギルドの中へといざないました。
誰もいない早朝のホール。高い天井に、彼女の小さな銀の靴音がカツン、カツンと澄んで響きます。私は一番日当たりの良い上質な革張りのソファへ彼女を座らせ、温かな木苺の紅茶を差し出しました。
「勇者様。まずは、その重いお荷物を下ろして。……ええ、そう。あなたは王都から、この辺境の村を救うために遣わされた『特別』なのですから。私たちは、最大限の敬意を持ってお迎えしなくてはなりません」
私が慈愛を込めてそう告げると、少女……いいえ、幼い勇者様は、誇らしげに、けれどどこか照れたように鼻を鳴らしました。
王都が運用する『勇者』というシステム。
それは表向きこそ民を救う英雄の象徴ですが、その実態は、あまりに強力な魔法への適性を持って生まれた鋭利な刃を、国が管理するための籠に過ぎません。
王都の賢人たちは、希少な魔力を持つ芽が自分たちに牙を剥く前に、それを摘み取り、国のために使い潰すための仕組みを完璧に作り上げました。
実に合理的で、効率的な仕組み。私は、そういう機能美が嫌いではありません。
「勇者様。……あなたの『特別』は、転移なのですか?」
私の問いに、彼女は大きな瞳をいっそう輝かせて頷きました。
「はい! 移動にも攻撃にも使える、私の自慢の魔法です。魔物の体を半分だけ巻き込むように転移の門を開けば、その片方だけを遠くへ飛ばすことができるんです。どんなに硬い鱗や殻を持っていても、空間ごと切り離してしまえば関係ありません!」
彼女は小さな手を突き出し、空を切る仕草をしてみせました。あぁ、なんと恐ろしい力なのでしょう。空間を削り取る断罪の光。それは、一見すれば無敵の力に見えます。
王は幼い芽に教育を行いますが、我らの臆病な王はただそれだけでは飽き足らず、勇者に枷を課します。
彼女の右手首に深く刻まれている鎖と錠のあしらわれたタトゥーがきっとその役目を果たすのでしょう。
ぼうっとそのタトゥーを眺めていると、視線を向けていることに感づかれてしまいました。
「……あ」
幼い勇者様が、少しだけ身を硬くして、右手首を左手で覆い隠しました。
私の視線が、その「錠」に深く突き刺さっていたことに気づかれたのでしょう。
私は、零れ落ちそうになっていた恍惚を瞬時に心の奥底へ仕舞い込み、代わりに、胸を締め付けられるような深い悲痛の色を瞳に宿らせました。
「……ごめんなさい、勇者様。あまりに、あまりに痛々しくて。……そんなに小さなお体に、これほど重い宿命を刻まれて。王都の大人たちは、あなたにどれほどの荷を背負わせれば気が済むのでしょうか」
私は潤んだ瞳で彼女を見つめ、そっと、壊れ物に触れるような手つきで彼女の指先に手を重ねました。
「……っ、いえ。これは、誇りですから。私が勇者であることの、証なんです」
強がる彼女の声が、微かに震えています。あぁ、いじらしい。認められたい。役立ちたい。愛されたい。そんな幼い渇望を「誇り」という名の呪いで縛り付けられ、ここまで流れてきた可哀想な羊さん。
「ええ。分かっておりますとも。あなたがどれほど高潔で、優しい心をお持ちか……。……だからこそ、私は悲しいのです。そして、今この村には、あなたと同じように『宿命』にその身を焼かれ、独り孤独の闇に震えている方がいらっしゃいます」
私は、彼女の手を優しく包み込み、語りかけました。
さあ、勇者様。
あなたのその眩しすぎる正義感で、あの方を――私のアリオス様を、照らして差し上げてくださいな。
勇者様の小さな手を包み込み、その宿命への同情を演じきった後、私はおもむろにカウンターの裏へと手を伸ばしました。引き出したのは、古びた、しかし重厚な気配を纏った一枚の羊皮紙。そこには、この村を脅かす『聖獣』の調査記録が、びっしりと書き込まれています。
「勇者様。……この聖獣に関する情報は、どこまで王都で把握されていますか?」
「いえ……。詳しいことは現地で、ギルドの方に聞くようにと言われています」
あどけない答え。私は心の中で、小さく、深いため息をつきました。あぁ、本当に。王都の大人たちは、この子をただの「使い捨ての剣」としてしか見ていないのですね。情報も与えず、ただ「行って殺してこい」と。でも、いいのです。その無知こそが、私の描くシナリオをより美しく、完璧なものにしてくれるのですから。
「では、私がお伝えしましょう。……ですがその前に。勇者様、あなたの魔法に課せられた『制約』の内容を、正確に教えていただけますか?」
「えっ……制約、ですか?」
「ええ。適切な任務の補助には、適切な情報の把握が不可欠です。……あなたのその手首にあるものが、何を禁じているのか。それによって、私の『案内』も変わってまいりますから」
私は、彼女の手首に刻まれた「錠のタトゥー」を、慈しむように見つめました。
勇者という名の仕組み。それは、強大すぎる個の力を削ぎ、王権に従属させるための去勢です。魔法の強さに応じて、人体転移の禁止や、移動頻度の制限といった枷がはめられる。
(……知らなくては。あてがう「光」が、どの程度の出力で、いつ消えるのかを)
そうでなければ。この羊皮紙に記されたどの「真実」を、インクの染みで汚して読めなくしてしまえばいいのか判断がつきませんから。
勇者様は少し躊躇った後、意を決したように口を開きました。
「……わかりました。リリアンさんは、信じられる人だから。……私の『転移』には、四つの制約があるんです。定点制限、連続使用制限、距離制限。それから、質量制限です」
彼女が語る内容は、実に見事な「不自由」でした。
・定点制限と連続使用: 長距離移動は、すでに体に刻んだ地点(王都やこの村など)にしか飛べず、一度行えば二日間は再使用できない。
・距離制限: 戦闘中の短距離転移は、わずか3メートルが限界。
・質量制限: 定点移動の際、同時に運べるのは「自分以外に一人」まで。
「勇者としての務めには、何も不自由はないんです。でも……。誰かと一緒に楽しく旅行に行ったり、そういうことはできない仕組みになってるんです」
寂しげに笑う彼女を見ながら、私の胸は期待で激しく高鳴りました。
「……教えてくださってありがとう、勇者様。よくわかりました。本当に、お辛い役目を背負っていらっしゃるのね」
さあ、筆を執りましょう。彼女の「3メートル」という限界を、彼女の「一人しか救えない」という呪いを、最大限に活かしてアリオス様と私がまた、楽しくお話しできる機会を作るために。
準備をするから待っていてほしいと、勇者様をテーブルに案内し、離れたカウンターで羊皮紙を開きます。
この数ヶ月間、何十人もの冒険者がこの『聖獣』に挑み、そして一人としてまともに帰ってきませんでした。
彼らが最後に遺した叫びや、逃げ延びた者が震える声で語った断片的な恐怖……それらはすべて、この一枚の紙に「情報」として集約されています。
大猪ほどの体躯を持つ、おぞましき四足の獣。触れる金属を瞬時に腐食させる、粘り気のある皮膚。死角を許さず、獲物の恐怖を克明に捉える、無数の赤黒い複眼。
そして――
何よりも厄介な、生物の理を無視した異常な「再生能力」。体の一部を切り離せば、その断面から新たな個体が芽吹き、瞬時に分裂して増殖する。
私は羽ペンの先に、たっぷりと漆黒のインクを吸わせました。このインクは、単なる染料ではありません。アリオス様を私の元へ繋ぎ止めるための、運命の鎖なのです。
私は迷うことなく、羊皮紙に記された重要な一節に筆を走らせました。
『切り落とした断面から分裂、再生する』
『断面を凍結させると再生が鈍くなる』
その二行を、ドロリとした黒い闇で塗りつぶしていきます。
丁寧に、一文字も読み取れないように。
まるで最初からそんな事実はこの世になかったかのように、私の意志で歴史を書き換えていくのです。おっと、塗りつぶした箇所は依頼書の装飾のように彩りましょう。疑われてしまっては、今後のアリオス様とのお話に影響してしまうかもしれません。
勇者様。あなたはきっと、私が、そして村の女たちがそうだったように、きっとアリオス様へ心酔してしまうでしょう。
そうすれば誇らしげに語っていたあの「転移」の魔法で、彼に力を見せつけるように聖獣の体を次々と切り裂くでしょう。
あなたが良かれと思って放つ断罪の光が、絶望を倍々に増やしていく。増殖し続ける肉の絨毯の中で、死の香りに包まれる。
そうなれば、
勇者様。あなたは迷わず「制約」の鎖を選ぶはず。
自分を犠牲にして、たった一人の大切なパートナーを。
――アリオス様を、安全な場所へ逃がすために、その命の輝きを使い果たすのです。
アリオス様だって、こんな幼い少女が目の前で散れば、その時の胸中を吐露するはず。その隣に私がいればいいのです。
「勇者様。……調査結果をまとめた資料がこちらになります。これは、冒険者がその血で書いた貴重な情報です。どうか、彼らの無念を晴らしてあげてください。そして、かなうことならば、アリオス様の心も……」
私は、ただ真実を述べました。勇者様は私の言葉を疑うこともなく、深く頷いてくれました。その無垢な横顔が、あまりに眩しくて。
羊皮紙を丁寧に畳み、彼女に手渡しました。私の指先に付着した黒いインクが、彼女の純白の手に、小さな、消えない染みを作りました。
……そして、その時はやってきました。
数日後、村の門の前で、眩い光とともにアリオス様が独りで『転移』されてきたという報せが届きました。
私は手にしていた羽ペンを置き、そっと窓の外を眺めました。遠くから聞こえる、喉を掻き切るような彼の絶叫。
あぁ、聞こえる。
なんて、なんて愛おしい。
あの幼い光が、期待通りにアリオス様を孤独の闇に叩き落としてくれたのね。
私は鏡の前で、悲しみに暮れる表情を念入りに確認し、席を立ちました。
さあ、お掃除の時間です。泣きじゃくるアリオス様の背中を、今度はどんな言葉で撫でて差し上げましょうか。
……ですが、私の差し伸べる手は空を切りました。
彼はギルドに立ち寄ることさえせず、まるで何かに取り憑かれたように村を後にしたのです。
転移元へ、一刻も早く、その指にこびりついた喪失を確かめにいくかのように。
補給すら持たず、丸一日はかかる道のりを駆け抜ける彼の背中を、私はただ見送るしかありませんでした。
さらに数日後。彼は勇者のタグを持ち帰ります。
王都の人間がそれを回収していきました。
表情には刻み込まれたかのように暗い影が漂います。しかし、ここ3か月ほど死んでいた眼は見事なまでに輝きを取り戻していました。
今回はお話に失敗してしまいました。ですが、その輝きを取り戻すことができました。
それだけで私は満足できてしまうのです。




