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筆先に踊る白磁の死神  作者: 大須賀隼
踊る筆先
11/19

角隠し

あの日以来、アリオス様の心の中に「私の部屋」が作られたことを、私は確信していました。


彼は村の外れで、狂ったように鍛錬を積み重ねるようになりました。あんなに細く、しなやかだった指先には剣だこができ、その瞳には「二度と仲間を失わない」という悲痛なまでの決意が宿っていました。


私と彼の物理的な距離は、少しだけ離れてしまいました。彼はもはや組合に長居することなく、ただ黙々と、己という剣を研ぎ澄ませることに没頭していたからです。


けれど、私は少しも寂しくはありませんでした。なぜなら、鍛錬へ向かう際、あるいは戻られた際、彼が私を見つけると、口角をわずかに上げ、微笑んでくださるようになったからです。


 

――リリアン。  



彼が声に出さずとも、その視線が私を私として捉え、名前を呼んでいる。確実に、彼の中で私の存在が「風景の一部」から「拠り所」へと変質していく……。


その手応えだけで、私は一ヶ月は食事を抜いても生きていけるほど、充足感に満たされていました。


そんな、ささやかで、完璧な幸福が続くと思っていた日々は、あまりに不躾に終わりを告げました。


鍛錬の日々から半年が経った頃、アリオス様が復帰を決意し、組合のドアを叩きました。  私は、待ちわびていたその瞬間に最大限の慈愛を込めて声をかけようとしました。ですが、その言葉は、背後から響いた下卑た叫びによって遮られたのです。


「おいおい、見てみろ。とんでもねえ掘り出し物が戻ってきやがった!」


四ヶ月ほど前からこの村に居ついた女パーティでした。  


声も、態度も、纏う空気もひどく汚らわしく、下品な集団。彼女たちが現れてからというもの、私の神聖な職場である組合の空気は、安酒の臭いと無教養な笑い声で濁りきっていました。



そんな、汚泥のような存在が、あのアリオス様に、気安く話しかけるだなんて……!



私の指先が、怒りで微かに震えました。半年という月日は、私からカウンターを乗り越えるための無謀な勇気を奪い、代わりに「受付嬢の仮面」を貼り付けさせてしまいました。


私は、脳内であの女たちの喉元を切り裂く想像を押し殺しながら、精一杯の笑顔を作ってそのやり取りを見守ることしかできませんでした。


「リリアン! こいつの復帰戦にふさわしい獲物をくれよ! 景気のいいやつをさ!」


リーダー格の女が、馴れ馴れしく私の名前を呼びます。アリオス様が、黙ってこちらを見つめていました。半年前よりも精悍になった顔つき、引き締まった体躯。そのあまりの神々しさに、うっとりとする気持ちを抑え、私は事務的に答えます。



「……精査が必要ですので、明日までお時間をいただけますか?」



この期に及んでも、私はアリオス様と直接言葉を交わせませんでした。彼の声を聞くことも、私の声を届けることも、この下劣な女たちが邪魔をするせいで叶わなかった。


ですが、すぐに気づきました。これは、神が私に与えてくださった二度目の「チャンス」なのだと。


直接話せないのであれば、状況を作ればいいのです。  


あの日、彼が私に縋り付いて泣いた、あの極上の再会を。何もかもを失い、ボロボロになり、私という救い以外すべてを拒絶したくなるような、最高の絶望を再現すればいい。


酒を飲み明かす集団もようやく眠りにつき、静まり返った夜の組合。私は一人、カウンターの下でシルヴァ村に寄せられているすべての依頼書を広げました。




――さあ、アリオス様。また、楽しくお話ししましょう。




深夜。誰もいなくなった組合のホールに、紙の擦れる音だけが小気味よく響きます。


私はカウンターにずらりと依頼書を並べ、まるでお気に入りのドレスを選ぶように、一枚一枚を丁寧に吟味していきました。


「……大猪の討伐。いいえ、却下です」


勢いのある突進は確かに脅威ですが、アリオス様なら容易く受け切ってしまうでしょう。


それに、認めがたいことですが、あの女戦士たちの腕もそれなりに立ちます。


彼女たちが生き残ってしまっては、私の計画は台無しなのです。


「飛竜の打ち払い。これも却下」


遠距離攻撃が主体になれば、アリオス様が前線で華々しく活躍する機会が減ってしまいます。


アリオス様の復帰戦にはふさわしくありません。


「群体化した人喰い飛蝗の殲滅。……ふふ、これは論外。アリオス様まで死んでしまいますもの。神獣の偵察も、未確認情報が多すぎて制御が効きません」


指先で依頼書を弾き、私は最後の一枚を手に取りました。その瞬間、私の唇は自然と吊り上がっていました。


「……一角獣ユニコーンの角の採取。――これこそ、最高の舞台装置です」


気高く、美しい馬型の四足獣。その角はあらゆる病を癒す至宝ですが、その性質は極端なまでに潔癖です。


純潔を好む一方で、不浄なる者、一度でも身を汚したものには容赦のない殺戮の獣。田舎の娯楽とばかりに、そこかしこで卑しくまぐわっているあの野蛮な冒険者たちには、とても紹介できない危険な依頼として死蔵されていたものです。


あの下劣な女戦士たちは、毎晩のように男たちと肌を重ね、不浄を振り撒いています。彼女たちが一角獣の前に立てば、死へと至らしめるのは容易いでしょう。



ですが、アリオス様は違います。あの方は、汚れ一つない無垢なお方。情交の経験なぞあろうはずもありません。一角獣が彼女たちを無残に引き裂く傍らで、アリオス様だけがその「清らかさ」ゆえに生き残る……。あぁ、なんて完璧なロジックなのでしょう!


 ですが、そのまま「一角獣」と記しては、聡明なアリオス様に私の企みが露見してしまいます。少しばかり、意地悪な書き換えをさせていただきましょうか。


私はインクをたっぷりと含ませたペンを執り、白紙の依頼書に新たな「事実」を書き込んでいきます。


『四足獣の調査。気配を消すのが得意で、未だ全貌が把握できていない希少種』


こうして曖昧に記しておけば、万が一彼が生きて戻られた際にも、「調査不足でした」と泣いて謝れば済む話です。組合が持つ貴重な羊皮紙を使うのは忍びないですが、アリオス様との甘いおしゃべりのためなら、この程度の毒は必要なスパイスに過ぎません。


書き終えた依頼書の上で、私の筆先がダンスを踊るように跳ねました。


楽しみです。仲間たちが次々と串刺しにされ、その返り血を浴びて絶望に染まったアリオス様が、雨に濡れた子犬のように私の元へ駆け込んでくる姿が。さぁ、これで準備は整いました。


明後日の晩には、またあの日のように、二人きりで楽しくお話ししましょうね。アリオス様。




思惑通り、その夜は激しい雨が村を叩いていました。  


静まり返った組合の扉が、力なく押し開けられます。そこに立っていたのは、あの幸せな、私が再び生まれた日と寸分違わぬ、血と泥にまみれ、すべてを失った私の王子様でした。    


震える足取りでカウンターまで辿り着いた彼は、幽霊のような掠れた声で私に告げました。


「……帰ってこられたのは、俺一人だ」


その瞬間、私の胸の内には言葉にできないほどの熱い感情が込み上げました。  


久しぶりに、この至近距離で、私だけを見つめて発せられた彼の声。  



ああ、アリオス様! 計画は完璧でした!私に声をかけてくれた!


 

感極まり、私は熱い涙を零しそうになりながら、彼を優しく包み込む言葉を紡ごうとしました。


ですが、アリオス様は私の返辞を待つこともなく、そのまま重い背中を向けて組合を去ってしまいました。


私の声も、聴いてほしかったのに。せっかく用意した、彼を慰めるための完璧な聖女の台詞を、一言も紡がせてもらえなかったもどかしさが、胸の奥をチリリと焼きます。



……けれど、まあ、仕方ありません。  


今日はこれでよしとしましょう。  




最高の「楽しいおしゃべり」ができたのですから。

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