第7話 綺麗な現場ほど、服より先に女の使い道を静かに選んでいることがある
本当に怖い女は、怒鳴らない。
声を荒げない。
感情を見せない。
ただ、気づいたときには選択肢が減っている。
それは夜の店でも同じだった。
酔った男を怒鳴って黙らせる女は二流。
一流は、相手に気持ちよく金を使わせたまま、主導権だけ奪う。
“この子にしてあげたい”と思わせて、気づけば相手のほうが必死になっている。
私はそういう世界でNo.1を取ってきた。
モデルの現場も、パパ活も、結局は似たようなものだ。
見られる。選ばれる。値段がつく。
そのくせ、値段の話をしたほうが下品だとされる。
笑える。
最初から全部、金と欲で回ってるくせに。
でも、同じ“選ばれる”でも違いはある。
私は夜の仕事もパパ活もしてきたけど、少なくともどこまで笑うか、どこまで触らせるか、どこまで付き合うかは自分で決めてきた。
値段も、距離も、線も、自分で引いてきた。
それができない場所は、仕事じゃない。
ただの搾取だ。
私はそういう匂いに敏感だった。
南青山のスタジオは、外から見るとただの白いビルだった。
看板も小さい。目立たない。
でも中に入る前からわかる。
こういう場所は、金の匂いを消すのがうまい。
露骨なブランドロゴもない。
成金っぽい派手さもない。
その代わり、床材、照明、受付の花、壁の余白、全部が“わかる人にはわかる”値段で揃っている。
私はそういう空気に慣れていた。
港区の高級ホテルのラウンジも、会員制の鮨屋も、パパが連れていきたがる部屋はだいたい同じ顔をしている。
上品。静か。高い。
そして、何かを隠すのがうまい。
私は予定の五分前に着いた。
今日は黒のニットワンピースに、低めのヒール。
胸も脚も出しすぎない。
でも、隠しすぎない。
昼の現場で夜の女をやりすぎると、相手は安心して見下してくる。
逆に清楚に寄せすぎると、“扱いやすい子”の棚に入れられる。
こういう日は、品よく見えるのに値段が安く見えない格好が正解だ。
私は鏡を見なくても、そのくらいはわかる。
何百万の時計をした男が、どの角度で女を見るかを何年も見てきた。
受付で名前を告げると、すぐに高瀬が現れた。
相変わらず隙のない黒。
髪はきっちりまとめられていて、メイクも薄い。
でも薄いだけで、手を抜いている顔じゃない。
この人もたぶん、見せ方を知っている。
“私は女を武器にしません”という顔を、武器として使うタイプだ。
「お待ちしておりました」
「本当に毎回待ってますね」
「待つのが仕事なので」
「私は待たせるのも仕事なんですけど」
「今日は待たせてません」
「そうですね。」
高瀬は笑わなかった。
でも、目だけがほんの少しだけ動いた。
この人、感情がないんじゃない。
感情を出すと相手に情報を渡すって知ってるだけだ。
それも、よくわかる。
店でもそうだった。
本当に強い女は、笑うタイミングまで計算する。
スタジオの中は、思ったより静かだった。
フィッティングって普通、もう少し雑音がある。
スタイリストの声、ハンガーの音、誰かの笑い声。
でもここは違う。
みんな必要なことしか話さない。
綺麗で、効率的で、少しだけ息が詰まる。
こういう空気、知ってる。
高い店で、黒服が失敗しないように全員の動きを揃えてるときの空気に似ていた。
誰も怒鳴らない。
でも、誰が一番偉いかは全員わかってる。
そして一番偉い人間は、だいたい一番静かだ。
ただ、店と違うのは、ここでは女の子たちまで妙に整いすぎていることだった。
スタイリストも、アシスタントも、受付も、全員が“感じがいい”の範囲から一歩もはみ出さない。
愛想がいいんじゃない。
はみ出さないようにしている。
その感じが少し気になった。
「こちらが本日の衣装です」
高瀬がラックを示す。
白、黒、ベージュ、深いネイビー。
どれも上質で、露出は少ない。
“選ばれる美しさではなく、選ぶ美しさ”というコンセプトなんだろうけど、正直に言えば少し退屈だった。
「地味ですね」
私が言うと、近くにいたスタイリストの女が一瞬だけ固まった。
でも高瀬は平然としている。
「上品です」
「上品って、地味の言い換えにも使えますよね」
「一条さんなら、地味にはならないと判断しています」
「プレッシャーかけるの上手い」
「期待です」
「便利な言葉ですね」
「お互い様です」
私はラックの服を指先で触った。
生地はいい。縫製も綺麗。
金はかかっている。
でも、服そのものより、“この服を着る女はこうあるべき”って思想のほうが強い。
清潔で、知的で、余計なことを言わなくて、ちゃんと管理できる女。
そういう理想像。
男が高い金を払う女にも、こういう型はある。
派手でわかりやすい色気じゃなく、連れ歩いて自分の格まで上がった気になれる女。
私はそういう需要も知っていた。
知ってるからこそ、反吐が出るときがある。
しかもこのラック、ただ撮影映えする服を揃えている感じじゃなかった。
会食の席でも浮かない。
年上の男の隣に座っても下品に見えない。
ホテルのラウンジでも、スポンサーの前でも、“ちゃんとして見える”。
そういう服ばかりだった。
私はそこで初めて、少しだけ嫌な予感がした。
これ、服を選んでるんじゃない。
女の使い道を選んでる。
「試着室はこちらです」
高瀬が言う。
「一人で?」
「基本は」
「基本じゃない場合もあるんですか」
「サイズ確認でスタッフが入ることはあります」
「私は嫌です」
「必要なら入ります」
「必要かどうかは私が決めます」
「仕事に支障がある場合は、こちらが判断します」
私はそこで初めて、少しだけ笑った。
ああ、やっぱりこの人はそういう人だ。
「高瀬さん」
「はい」
「あなた、静かな顔して強引ですね」
「そう見えますか」
「見えます」
「一条さんほどでは」
「私は最初からそう見せてるので」
「私は見せる必要がないので」
その返しに、少しだけ感心した。
嫌いだけど、嫌いなだけじゃない。
こういう女は、敵に回すと面倒だし、味方でも油断できない。
しかも高瀬は、男に媚びる必要のない場所で力を持っている女の顔をしていた。
夜の世界とは別種だけど、支配の仕方は似ている。
試着室に入って、一着目のワンピースに袖を通す。
鏡の前に立つと、たしかに悪くなかった。
地味なのに、線が綺麗に出る。
“品がある”って、こういうことかもしれない。
でも私は、品があるだけの女にはなりたくない。
品なんて、金持ちの男が女に求める都合のいい包装紙でもある。
中身まで従順でいてほしいときに、よく使われる。
カーテンを開けると、スタイリストがすぐに寄ってきた。
裾、肩、ウエスト。
細かく直しながら、必要以上に喋らない。
やっぱり変だ。
現場って、もっと人間臭いものなのに。
そのとき、少し離れた場所でスタッフ同士の声が聞こえた。
「今日の会食、誰つけるんですか」
「まだ未定。高瀬さん確認待ち」
「感じいい子のほうがいいですよね」
「当たり前でしょ、変に喋らない子」
私は鏡越しに目だけを動かした。
声の主はすぐに黙った。
たぶん、私に聞こえたと思ったんだろう。
会食。
感じいい子。
変に喋らない子。
その並びが、妙に生々しかった。
モデルの仕事に会食がつくこと自体は珍しくない。
顔合わせもある。
打ち上げもある。
でも今の言い方は、服を着る人間じゃなく、席に置く人間を選んでいる感じだった。
「前の方も、同じサイズ感でした」
スタイリストがぽろっと言って、すぐに口をつぐんだ。
私は鏡越しにその顔を見る。
「前の方?」
「……いえ」
「今、言いましたよね」
「すみません、別件と混ざって」
「へえ」
高瀬がすぐに近づいてきた。
足音まで静かで、少し気味が悪い。
「何かありましたか」
「いえ」
スタイリストが先に答える。
「サイズの確認だけです」
「そう」
高瀬の視線が、一瞬だけその子に向く。
「なら続けて」
短い。
でも、それだけで十分だった。
“余計なことを言うな”って、ああいう目で伝わる。
私は何も言わなかった。
言わないほうが、相手は勝手に焦る。
それも店で覚えた。
男でも女でも、隠したいことがある相手には、問い詰めるより黙って見たほうが効く。
二着目、三着目と進むうちに、私は少しずつスタジオの中を観察した。
スタッフの動線。
誰が誰に確認を取るか。
誰が高瀬を見た瞬間に姿勢を正すか。
こういうのは、店でも同じだ。
一番偉い人間は、声が大きい人じゃない。
空気を変えられる人だ。
そしてこの現場では、それが高瀬だった。
ただ、もう一つ気になったのは、若い女の子たちの種類だった。
派手すぎない。
でも地味すぎない。
綺麗で、清潔で、ちゃんとして見える。
しかも、押し返してきそうな強さは薄い。
もちろん全員がそうじゃない。
でも、選ばれて残っている子たちには、妙な共通点があった。
男の隣に置いたときに都合がいい女。
そう見えてしまう並びだった。
休憩に入ったタイミングで、私は化粧室へ向かった。
もちろん、化粧を直すためじゃない。
少し外れた場所を見るためだ。
こういう現場は、表に出している顔と、裏に置いているものが違う。
廊下の奥、スタッフ用のスペースに近い場所で、私は足を止めた。
壁際に、古いムードボードが立てかけられている。
撮影イメージの切り抜き、色見本、ヘアメイクの参考写真。
その端に、一枚だけ裏返しになったポラロイドが挟まっていた。
私は何気ない顔でそれを抜いた。
写っていたのは、あの女だった。
相沢ミオ。たぶん。
白いシャツを着て、椅子に座っている。
笑っていない。
でも前に見た暗い写真より、もっと普通の顔をしていた。
撮影前の、まだ何も起きていない顔。
ポラロイドの下に、小さく日付が書いてある。
三か月前。
三か月。
短い。
夜の世界なら、三か月あれば女の立場なんていくらでも変わる。
太い客が飛ぶ。
店を移る。
病む。
消える。
でも、だからこそ変だ。
この現場は、消えた人間の痕跡を雑に残すような場所には見えなかった。
残っているなら、消しきれなかったんじゃない。
消す必要があったのに、処理が追いつかなかっただけだ。
しかもミオの顔は、ただのモデル候補の顔じゃなかった。
綺麗で、少し硬くて、まだこの場のルールを飲み込めていない顔。
こういう子は、夜の店ならすぐわかる。
男に媚びるのが下手なんじゃない。
媚びたくない気持ちが、まだ顔に残っている。
だから目をつけられることもある。
扱いやすそうに見えて、実は壊れやすい。
そういう危うさだった。
「何を見てるんですか」
背後から声がして、私は振り返った。
高瀬だった。
驚かなかったふりをして、ポラロイドを指先で軽く振る。
「前の方」
「それは資料ではありません」
「でもここにありましたよ」
「不要なものです」
「不要なら、なんで捨ててないんですか」
「処理が漏れていただけです」
私はポラロイドを見下ろした。
不要。
便利な言葉だ。
店でも、男はよく似た言い方をする。
“もう会わない子”
“ちょっと面倒になった子”
“整理したい関係”
言い方だけ綺麗にして、人を物みたいに片づける。
だから私は、その言葉が嫌いだった。
「この子、誰ですか」
「関係ありません」
「私にはあります」
「ありません」
「同じ案件だったなら、ありますよね」
「一条さん」
高瀬の声は静かだった。
「詮索はおすすめしません」
「脅してます?」
「忠告です」
「その言い方、最近流行ってるんですか」
「あなたは、聞かないタイプでしょう」
「そうですね」
「だから言ってるんです」
私はポラロイドを高瀬に返さなかった。
代わりに、じっとその顔を見る。
「この子、どうなったんですか」
「知る必要はありません」
「じゃあ、高瀬さんは知ってるんだ」
「仕事上、知っていることと知らないことがあります」
「便利ですね、その言い方」
「便利にしておかないと回らないので」
私は少しだけ笑った。
この人、本当に徹底してる。
でも徹底してる人間って、たまに一か所だけ雑になる。
そこが穴になる。
夜の男もそうだった。
完璧な顔で女を扱うくせに、会計の仕方とか、LINEの返し方とか、そういうところで本音が漏れる。
「返してください」
高瀬が言う。
「嫌です」
「それは会社の資料です」
「不要なんでしょ」
「一条さん」
「何」
「あなた、自分が特別だと思ってますか」
「思ってますよ」
「そう」
「だって、そうじゃないとここにいないでしょ」
私は少しだけ口角を上げた。
「ちょっと甘えたらすぐ大金出す男が何人もいて、店でもNo.1で、モデルの現場にも呼ばれる女が、自分を特別だと思わないほうが無理じゃないですか」
高瀬は初めて、ほんの少しだけ表情を止めた。
一秒もないくらい。
でも止まった。
「……そういうところです」
「何が」
「前の方と違うところ」
私はその一言を聞いて、目を細めた。
前の方。
やっぱりいた。
いて、消えた。
「違うって、何が」
「引かないところ」
「引いたほうがよかった?」
「人によります」
「私は?」
「まだわかりません」
高瀬はそう言って、私の手からポラロイドを抜き取った。
動きが無駄なくて、少し腹が立つ。
「次、行きましょう」
「逃げるんですね」
「仕事ですから」
「便利」
「ええ」
フィッティングが終わる頃には、外は少し暗くなり始めていた。
予定通り十八時。
本当に延ばさなかったのは、少しだけ意外だった。
こういう現場は、相手の時間を奪うことで上下を作ることもある。
でも今日はそれをしなかった。
たぶん、まだ私を測っている段階なんだと思う。
エントランスまで送られながら、私はスマホを開く。
拓巳に短く送る。
――前の子、いた。
すぐに既読がつく。
――どこで。
――写真。三か月前。
――名前は。
――まだ確定じゃない。でもたぶん同じ子。
――撮れた?
私は少しだけ舌打ちしたくなった。
――無理。高瀬がいた。
数秒後。
――やっぱり最悪。
――知ってる。
――会える?
――店の前なら。
――行く。
少し迷ってから、私はもう一通送った。
――ここ、撮影だけの現場じゃないかも。
既読がつくのが早かった。
――どういう意味。
私は高瀬の背中を見ながら打つ。
――服より先に、誰を会食に連れて行くか選んでる感じ。
少し間が空いてから返ってくる。
――それ、かなり嫌なやつ?
私はスマホを閉じた。
まだ言葉にしきれない。
でも、嫌な感じだけははっきりしていた。
高瀬がこちらを見ていた。
何も言わない。
でも、たぶん気づいてる。
私が何かを掴み始めていることに。
「本日はありがとうございました」
高瀬が言う。
「こちらこそ」
「次回はビジュアル会議です」
「楽しみ」
「本当に?」
「まさか」
高瀬は少しだけ目を細めた。
笑ってはいない。
でも、あの人なりに面白がっているのかもしれない。
「一条さん」
「何ですか」
「深入りすると、綺麗に立っていられなくなりますよ」
「大丈夫です」
「どうして」
「ヒールで立つの、慣れてるので」
私は少しだけ肩をすくめた。
少しだけ間を置いて、私は続けた。
「でも、自分で線を引けない仕事は嫌いなんです」
高瀬は何も言わなかった。
その沈黙が、少しだけ正解に近い気がした。
私はそのまま外へ出た。
夕方の空気は少しぬるくて、街は相変わらず何事もない顔をしている。
でも私は知ってる。
綺麗な現場ほど、服より先に女の使い道を静かに選んでいることがある。
夜の世界はまだ正直だ。
欲しい、抱きたい、連れ歩きたい、独占したい。
男はそういう欲を隠しきれない。
でも昼の綺麗な場所は違う。
守るため。
整えるため。
配慮のため。
そんな顔をしながら、女を別の場へ回す。
しかも本人に、それが仕事の延長だと思わせたまま。
だったら、こっちもやり方を変えるだけだ。
可愛く甘えて金を引き出す夜の顔じゃなく、
笑ったまま相手の穴を見つける昼の顔で。
遅くなる前に、こっちから出口ごと奪えばいい。




