第6話 綺麗に管理された場所ほど息が詰まる
本当に危ない場所って、最初から怖い顔なんてしていない。
むしろ逆だ。
綺麗で、静かで、親切で、全部が整っている。
逃げたくなるような乱暴さなんてない。
だから気づくのが遅れる。
自分が歓迎されてるんじゃなく、管理され始めてるだけだってことに。
契約の日、私は白いシャツに細身の黒パンツで行った。
女って、戦う日に限って露出を減らす。
肌を見せるのは武器だけど、武器っていつも抜けばいいわけじゃない。
今日は“見せる日”じゃなく、“見る日”だった。
場所は表参道のオフィスビルの上階。
ブランドの仮オフィスだと聞いていたけど、着いてみると想像以上に整っていた。
受付、ガラス張りの会議室、香りの薄いディフューザー、音のしない床。
新しい会社特有の“まだ何色にもなれる”感じじゃない。
最初から完成形の顔をしている。
こういう場所、嫌いじゃない。
でも信用もしない。
「一条さん、こちらです」
案内してくれたのは、二十代後半くらいの女だった。
黒のセットアップに低いヒール。髪はひとつにまとめていて、メイクも薄い。
綺麗というより、隙がない。
名札には**高瀬**とあった。
「本日は契約書の確認と、今後のスケジュール共有になります」
「ずいぶん早いですね」
「天城が、早いほうがいいと」
「天城さん、せっかちなんですね」
「仕事には厳しい方です」
私は軽く笑った。
厳しい。便利な言葉。
支配的な人間を、だいたいそう言い換える。
会議室に入ると、真鍋と、法務担当らしい男、それから高瀬がいた。
天城麗華はいない。
少し意外だったけど、考えてみれば当然かもしれない。
本当に力のある人間は、契約の細部に毎回顔を出さない。
出なくても回るように、人を置いている。
「本日はありがとうございます」
真鍋が立ち上がる。
「こちらこそ」
「条件面、かなり調整しました」
「そうみたいですね」
「天城も譲歩してます」
「私もしてますよ」
「……そうだね」
真鍋は苦笑した。
でも目は笑っていない。
たぶん、こういう交渉に慣れていないんじゃない。
慣れてるけど、女にここまで言い返されるのが好きじゃないだけだ。
契約書は分厚かった。
私は最初のページから飛ばさずに読む。
こういうとき、読んでるふりをする女は多い。
でも、読まない女から順番に食われる。
「SNS投稿に関する事前確認、ここ文言変わってますね」
私が言うと、法務の男が顔を上げた。
「はい、双方協議の上で、という形に」
「“協議”って曖昧ですよね」
「一般的な表現です」
「一般的だと困るんです。揉めたとき、一般的な言葉ほど逃げ道になるので」
「……では、最終承認権は一条さんにあると明記しますか」
「お願いします」
高瀬がメモを取る。
その手元を見ながら、私は少しだけ違和感を覚えた。
この人、ただの秘書じゃない。
メモの取り方が、指示待ちの人間じゃなく、実務を回してる人間のそれだ。
「撮影時の追加拘束についても」
私はページをめくる。
「事前合意のない延長は不可で」
真鍋が口を挟む。
「現場って多少押すこともあるから」
「多少ならいいです。でも“多少”って人によって違うので」
「一時間以内、とか?」
「三十分」
「厳しいな」
「私、夜も忙しいので」
「まだ続けるんだ」
「やめる約束はしてません」
一瞬だけ、空気が止まった。
法務の男は無表情を保っていたけど、高瀬だけがほんの少し視線を上げた。
その反応でわかる。
やっぱり、夜の仕事を切らせたいんだ。
「ブランドイメージ上」
真鍋が言いかける。
「その話は前回しましたよね」
私は遮った。
「表に出る動きは調整する。でも、私生活まで契約に入れない」
「私生活、ね」
「違います?」
「いや」
「違うなら、書き直してください」
真鍋は黙った。
法務の男が淡々と修正案を打ち込む。
高瀬は相変わらず静かだった。
でも、静かな人ほど怖いことがある。
何も言わない人って、何も考えてないんじゃない。
言わなくても通る場所にいるだけだ。
一通り確認が終わる頃には、一時間以上経っていた。
私はペンを置いて、水を一口飲む。
「これで大丈夫です」
「ありがとうございます」
真鍋が少しだけ安堵した顔をする。
「では、サインを」
「その前に」
私が言うと、また空気が止まった。
「まだあるの?」
「ありますよ。普通に」
「何」
「追加撮影について、過去に非公開案件があった場合の扱い」
真鍋の顔が、ほんの少しだけ固くなった。
「どういう意味?」
「そのままです。契約外の撮影が発生した場合、データの管理権と使用範囲を明記したい」
「当然、こちらで管理するよ」
「使用範囲は?」
「ブランド関連に限る」
「“関連”って広いですね」
「一条さん」
真鍋の声が少し低くなる。
「何か気になることでも?」
「気になりますよ。契約って、気になることを潰すためにやるんじゃないですか」
「もちろんだけど」
「じゃあ書いてください。契約外の撮影は、事前に書面同意がない限り無効。データ使用も不可」
「そこまで必要?」
「必要です」
会議室のガラスに、自分の顔が薄く映っていた。
昼の顔。
でも目だけは、夜の仕事をしてるときと同じだったと思う。
高瀬が初めて口を開いた。
「……以前、何かあったんですか」
声は静かだった。
でも、ただの確認じゃない。
探っている。
「何も」
私は笑った。
「ただ、私は勝手に撮られるのが嫌いなだけです」
「そうですか」
「そちらは違うんですか?」
「私は、必要なら撮られます」
「必要って、誰にとっての?」
「仕事にとっての、です」
私はその答えを聞いて、少しだけ納得した。
この人はもう、そういう場所に長くいる。
自分の境界線を“仕事だから”で上書きすることに慣れている。
それは強さでもあるけど、たぶん少しずつ何かを削る。
結局、その条項も入った。
真鍋は露骨に不満そうだったけど、法務は淡々と処理した。
つまり、入れられない内容じゃなかったってことだ。
最初から入れていなかっただけで。
サインを終えると、高瀬が次の資料を差し出した。
撮影スケジュール、衣装合わせ、ビジュアル会議、SNS用の事前インタビュー。
全部が細かい。
細かすぎる。
「初回のフィッティングは明後日です」
高瀬が言う。
「場所は?」
「南青山のスタジオ」
「何時から?」
「十四時入り、終了は十八時予定」
「予定、ね」
「延びません」
「そう言う現場ほど延びるんですよ」
「延ばしません」
言い切る声だった。
私は少しだけ笑う。
「高瀬さんって、天城さんに似てますね」
「そうですか」
「言い切るところ」
「仕事なので」
「その言葉、便利ですね」
「一条さんもよく使ってます」
「私は便利だから使ってるんです」
「私もです」
初めて、高瀬が少しだけ笑った。
ほんの一瞬。
でも、その笑い方でわかる。
この人、ただの従順な部下じゃない。
自分の意思でここにいる。
会議室を出たあと、私は化粧室に寄った。
鏡の前で口紅を直しながら、スマホを開く。
拓巳からメッセージが来ていた。
――どう。
私はすぐに返す。
――綺麗に管理された場所だった。
既読がつくのが早い。
――最悪じゃん。
――うん。かなり。
――契約した?
――した。
――最悪。
――二回言った。
――二回言いたくなる。
私は少し笑って、鏡の中の自分を見る。
ちゃんとしてる顔。
でも、こういう顔をしてるときほど、私はだいたい面倒なことを始めている。
――追加撮影の条項、入れた。
少し間があってから返信。
――なんでそこ知ってるの。
――勘。
――怖い。
――褒めてる?
――全然。
私はスマホを閉じた。
勘だけじゃない。
あの場の空気が、そこに触れられたくないって言っていた。
人間って、隠したいことほど“普通です”みたいな顔をする。
オフィスを出ると、午後の光が眩しかった。
表参道は相変わらず綺麗で、歩いてる人たちもみんな自分の人生に忙しそうだった。
誰も、ガラスの向こうで何が決まったかなんて知らない。
でも私は知ってる。
今日サインしたのは、ただの契約じゃない。
向こうのルールが敷かれた場所に、自分の名前で入る許可証だ。
問題は、その中で誰が誰を管理するか。
その夜、店に入る前に、私はロッカーでスマホを見た。
知らない番号から、短いメッセージが一通。
――契約、おめでとうございます。
――でも、前の子も最初はそう言われてました。
私は画面を見たまま、数秒動かなかった。
背中に、細い針みたいな感覚が走る。
送信元は非通知じゃない。
でも登録はない。
文面は短い。
余計な感情がないぶん、逆に気持ち悪い。
もう一通、続けて届く。
――気をつけて。
――高瀬さんは、何でも知ってるから。
ロッカーの鏡に映る自分の顔が、少しだけ冷えた。
高瀬。
あの静かな女の名前が、急に別の意味を持ち始める。
黒服が廊下の向こうから声をかけた。
「愛里ちゃん、時間大丈夫?」
私はスマホを伏せて、いつもの顔を作った。
「大丈夫」
「今日も綺麗だね」
「知ってる」
そう言って笑いながら、私は思った。
綺麗に管理された場所ほど、息が詰まる。
でも息が詰まる場所ほど、壊したときの音はよく響く。




