第3話 欲しがる女は男より面倒
女に好かれる女と、女に欲しがられる女は違う。
前者は安心される。
後者は、壊したくなる。
私は昔から、後者だった。
朝の光は嫌いじゃないけど、信用はしていない。
夜の嘘を薄めて、全部まともだったみたいな顔をするから。
昨夜ほとんど寝ていない頭でメイクをしながら、私は鏡の中の自分を見た。
今日の私は、夜の愛里じゃない。
昼の顔。
上品で、少し冷たくて、簡単には触れられなさそうな女。
でも、触れられなさそうに見える女ほど、触れたがる人間は多い。
真鍋から送られてきた待ち合わせ場所は、青山の会員制ラウンジだった。
いかにも、という感じで笑える。
こういう場所は、秘密を守るためにあるんじゃない。秘密を持ってる人間同士が安心して見栄を張るためにある。
私は約束の十分前に着いた。
早く着くのは礼儀じゃない。主導権のためだ。
先に空気を見ておきたい。誰がどんな顔で出入りして、スタッフがどの程度こちらを知っているか。そういうのは、座ってからじゃ遅い。
「一条様でいらっしゃいますか」
受付の女が、すぐに名前を呼んだ。
私はサングラスを外して、軽く笑う。
「はい」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
お待ちしておりました。
その一言だけで、今日の相手が私を“初見”では扱わないことがわかる。
つまり、事前にかなり見ている。
通された個室は、窓の大きい部屋だった。
昼の青山が見下ろせる。高い場所から街を見るのが好きな人間は多い。自分が世界の上にいる気になれるから。
真鍋はもう来ていた。
その隣に、女が一人。
年齢は四十代半ばくらい。
黒のワンピースに、無駄のないジュエリー。髪は艶があって、姿勢がいい。
派手じゃないのに、目に入る。
こういう女は、自分を飾るためじゃなく、他人を圧迫するために整えている。
「初めまして、一条愛里さん」
女は立ち上がらずに言った。
声は静かで、よく通る。
私は一瞬でわかった。この人は、男に守られてきた女じゃない。男を使ってきた女だ。
「初めまして」
「座って」
「ありがとうございます」
私は向かいに座った。
真鍋が紹介する。
「こちら、天城麗華さん」
「どうも」
「今回のブランドオーナーであり、投資会社の代表でもある」
私は軽く会釈した。
天城麗華。
名前だけで強い。こういう名前の女は、自分の人生を他人に説明しなくていい場所まで行ってる。
「写真より綺麗ね」
麗華が言った。
「ありがとうございます」
「でも、写真のほうがつまらない」
「それもよく言われます」
「でしょうね」
私は少しだけ笑った。
褒めてるのか刺してるのか曖昧な言い方。嫌いじゃない。
むしろ、こういう女のほうが話は早い。
「あなた、モデルだけじゃないでしょう」
麗華が紅茶に口をつけながら言った。
「何のことですか?」
「夜も強い顔をしてる」
「顔に昼夜って出ます?」
「出る人には出るわ」
「へえ」
「隠す気も、あまりないでしょう」
「隠して得する相手には隠します」
「正直ね」
「そうでもないです」
真鍋は黙っていた。
こういう場では、自分が口を挟むべきじゃないとわかっている顔。
つまり今日は、私と麗華の面接だ。
「あなたみたいな子、最近少ないの」
麗華が言う。
「綺麗な子はいくらでもいる。でも、自分が商品だと理解してる子は少ない」
「理解してないと、この仕事続かないので」
「そうね。でも大半は、商品だと理解した瞬間に壊れる」
「私は壊れませんよ」
「そういう顔してる」
その言い方に、私は少しだけ背筋を伸ばした。
褒められてるわけじゃない。
値踏みされている。
しかも、かなり丁寧に。
「今回のお話、具体的には?」
私が切り出すと、麗華はテーブルの上に薄い資料を置いた。
ブランド名はまだ仮。
海外展開を見据えた新ライン。コンセプトは“選ばれる美しさではなく、選ぶ美しさ”。
なるほど。言葉は上手い。
でも、こういうコピーはだいたい後からいくらでも作れる。大事なのは、誰が何のためにその言葉を使うかだ。
「あなたには、顔になってほしいの」
麗華が言った。
「広告だけじゃなく、ブランドイメージそのものに」
「大きい話ですね」
「大きい話よ」
「私にそこまで賭ける理由は?」
「賭ける価値があるから」
「それだと答えになってないです」
「答えなんて、最初から全部渡す必要ある?」
私は資料を閉じた。
この人、やっぱり面倒だ。
男みたいに欲望を単純化してくれない。
金、体、見栄、独占欲。そういうわかりやすい順番じゃない。
もっと複雑で、もっと退屈で、だからこそ厄介だ。
「天城さん」
「なに?」
「私、囲われるの苦手なんです」
「囲うつもりはないわ」
「そうですか?」
「ええ。檻に入れるより、高い場所に置いたほうが綺麗なものもあるもの」
「それ、ほとんど同じ意味ですよ」
「そうかしら」
麗華は微笑んだ。
綺麗な笑い方だった。
でも、あの笑い方を向けられて安心する女はいないと思う。
「条件は悪くないはずよ」
「悪くないですね」
「なら、何が引っかかるの?」
「良すぎることです」
「慎重なのね」
「自分の値段を下げたくないだけです」
「下げないわよ」
「じゃあ、何を払うんですか。お金以外で」
その瞬間、真鍋がわずかに視線を上げた。
麗華は私を見たまま、数秒黙った。
「時間」
と、彼女は言った。
「それから、忠誠」
「重いですね」
「仕事ってそういうものでしょう」
「仕事によります」
「少なくとも、私の仕事はそう」
私は脚を組み替えた。
忠誠。
その言葉をビジネスの場で平気で使う人間は危ない。
でも、危ない人間ほど、上まで行く。
「専属ですか?」
「近い形になるかもしれない」
「他の仕事は?」
「整理してもらうことになるでしょうね」
「夜も?」
「できれば、やめてほしいわね」
私は笑った。
ああ、やっぱりそう来る。
「それ、最初に言わないと」
「言ったら来なかったでしょう」
「来ましたよ。面白そうだったから」
「今は?」
「もっと面白いです」
麗華の目が、ほんの少しだけ細くなった。
怒ったわけじゃない。
興味を持った顔。
「あなた、怖いもの知らず?」
「いいえ。怖いものは多いです」
「たとえば?」
「安く扱われること」
「それだけ?」
「あと、退屈」
麗華は初めて、少しだけ声を立てて笑った。
真鍋は安心したように息をついた。
たぶん今のやり取りで、私は落ちたんだと思う。
オーディションって、だいたいそういうものだ。
能力より、相手の欲しい物語にハマるかどうか。
「気に入ったわ」
麗華が言った。
「でも私は、気に入られると警戒するタイプです」
「賢いのね」
「生き残ってるだけです」
「それで十分よ」
話はそこで終わらなかった。
契約の細かい条件、撮影スケジュール、SNS運用、露出の方向性。
全部が異様に整っていた。
整いすぎている。
まるで、私が断る可能性だけが最後まで計算に入っていなかったみたいに。
ラウンジを出たあと、私はすぐに拓巳へメッセージを送った。
――会ってきた。
数分後、返信。
――どうだった。
――女だった。
――そっちか。
――そっちって何。
――男より厄介なやつ。
――正解。
私は歩きながら、少し笑った。
この男、たまに勘がいい。
――で、受けるの。
――まだ決めてない。
――やめたほうがいい。
――理由。
――あの手の人、顔を選んでるんじゃない。
――じゃあ何。
既読がつくまで、少し間があった。
――従うかどうかを見てる。
私は立ち止まった。
青山通りは昼の光で明るかった。
みんな忙しそうな顔で歩いている。
誰も、誰かの人生が今ちょっとだけ傾いたことなんて知らない。
従うかどうか。
たぶん、その通りだ。
麗華は私の顔を買いたいんじゃない。
私みたいな女が、自分の差し出す条件にどこまで膝を折るか見たいんだ。
でも残念。
私は膝を折るふりは得意でも、本当に折ったことはない。
スマホがまた震えた。
真鍋からだった。
――天城がかなり気に入ってる。
――前向きに考えてほしい。
私はその文面を見て、すぐには返さなかった。
代わりに、ガラス張りのビルに映る自分を見た。
サングラス越しでも、自分の顔くらいわかる。
選ばれるのは嫌いじゃない。
でも、選ばれた瞬間に所有された気になるなら、話は別だ。
私はスマホを打った。
――考えます。
――ただし、私の条件も出します。
送信してから、少しだけ口角が上がった。
うますぎる話には、裏がある。
だったらこっちも、表だけで笑ってあげる必要はない。




