第2話 うますぎる話には値札がない
世の中には、最初から値段の決まってるものと、あとから高くつくものがある。
ブランドバッグ、タクシー代、シャンパン、家賃。
そういうのはまだ親切だ。払う前に、いくら失うか教えてくれるから。
でも人間が持ってくる“いい話”は違う。
最初は無料みたいな顔をして近づいてきて、気づいた頃には逃げ道ごと買われてる。
だから私は、うますぎる話が嫌いだ。
黒い車の後部座席は、革の匂いがした。
高級車の匂いって、だいたい“成功”じゃなくて“管理”の匂いがする。
汚れないように、乱れないように、余計なものを持ち込ませないように整えられた空間。
私はそういうのが少し苦手だ。
「急にごめんね、一条さん」
真鍋は柔らかく笑った。
広告代理店の人間らしい、角のない声だった。年齢は三十代後半くらい。スーツは上等、時計も悪くない。髪型も清潔。
こういう男は、だいたい自分のことを“感じがいい”と思っている。
「本当に五分だけですか?」
「もちろん」
「男の人の“もちろん”って、信用したことないです」
「手厳しいな」
「仕事の話なら、なおさら」
私は脚を組み直して、窓の外を見た。
六本木のネオンがガラスに流れていく。
こういう時間の東京は綺麗だ。綺麗すぎて、たまに気持ち悪い。
傷も借金も嘘も、全部ライトで飛ばしてるみたいで。
「単刀直入に言うね」
真鍋が言った。
「新しいビューティーラインのキャンペーンが動いてる。女性向けのラグジュアリーブランドで、広告塔になる顔を探してる」
「それで私?」
「一条さん、今ちょうどいいんだよ」
「ちょうどいい、って便利な言葉ですね」
「褒めてる」
「褒め言葉に聞こえない」
真鍋は苦笑した。
でも引かない。こういう男は、女に少し刺されるくらいで怯まない。むしろ“気の強い女も扱えます”って自分に酔う。
「モデルとしての顔もある。でも、ただ綺麗なだけじゃない。少し危うくて、目が離せない」
「危うい女を化粧品の顔にするんですか」
「今はそういう時代だよ。完璧すぎると刺さらない」
「へえ。じゃあ、私のどこが売れると思ったんです?」
「本音を隠してる顔」
「気持ち悪いですね」
「はは。オープンで影のない、いい子はもう売れないからね」
私は笑った。
こういう会話、嫌いじゃない。
相手が何を見てるか、何を欲しがってるか、言葉の端でわかるから。
「条件は?」
「かなりいい」
「かなり、じゃわからない」
「ビジュアル契約で三か月。SNS連動あり。撮影は二回。イベント一回。ギャラは七桁後半」
「へえ」
「悪くないでしょ」
「悪くないですね」
悪くない、どころじゃなかった。
今の私の昼仕事の相場から見ても、かなり高い。
知名度が飛び抜けてるわけでもない私に、いきなり出す額じゃない。
つまり、金額以外の理由がある。
「で?」
私が言うと、真鍋は少しだけ目を細めた。
「で、って?」
「そんなにいい条件なら、私じゃなくても受ける子いくらでもいるでしょ」
「でも、君がいい」
「そういう口説き方、古いですよ」
「口説いてるわけじゃない」
「じゃあ、何を隠してるんですか?」
車内が一瞬だけ静かになった。
外では酔っ払いの笑い声がしていた。
ガラス一枚で、世界ってずいぶん違う。
真鍋はすぐに笑顔を戻した。
上手い。こういう男は、表情を仕事道具として使う。
「隠してることなんてないよ」
「じゃあ、なんで私なんです?」
「言ったでしょ。今の空気に合う」
「それだけ?」
「それだけじゃ足りない?」
「足りないですね。私は安くないので」
真鍋は私を見た。
値踏みじゃない。計算する目。
この女はどこまで知ってるのか、どこまで踏み込むのか、測っている。
「一条さんって、いつもそんな感じ?」
「どんな感じですか」
「簡単に喜ばない」
「簡単に喜ぶ女は、簡単に切られるから」
それを聞いて、真鍋は少しだけ黙った。
たぶん、そういう女を何人も見てきたんだろう。
使われて、飽きられて、次に行かれる女たちを。
「一度、顔合わせだけでもどう?」
「誰と?」
「クライアント」
「名前は?」
「まだ言えない」
「じゃあ行かない」
「慎重だね」
「当然です。名前も出せない相手に会うほど、暇じゃないので」
私はドアノブに手をかけた。
五分は過ぎていたし、これ以上いても向こうは本音を出さない。
だったら一回切る。追わせたほうが情報は出る。
「待って」
真鍋が少しだけ声を低くした。
「君にとって悪い話じゃない。本当に」
「だから、その言い方がもう怪しいんですよ」
「……クライアントは女性だ」
「へえ」
「経営者。かなり大きい人」
「それで?」
「君を気に入ってる」
私は手を止めた。
女のスポンサー。珍しくはない。でも面倒は多い。
男より露骨じゃないぶん、欲しがり方が複雑になる。
「どこで?」
「宣材写真を見て。
あとインスタも見たらしい」
私は小さく息を吐いた。
やっぱり、値札のない話だ。
「考えときます」
「前向きに?」
「値段次第で」
「君は本当にブレないね」
「ブレる女は、綺麗に見えても長持ちしないから」
車を降りると、夜風が少し強くなっていた。
さっきまでコンビニの前にいた三宅拓巳は、もういなかった。
代わりに、ベンチの上に空になったカップ麺の容器だけが残っている。
なんとなく可笑しくて、私は少し笑った。
ああいう男は、夜の街に似合わない。
でも似合わないものって、たまに妙に目に残る。
タクシーに乗って家に帰る途中、私は真鍋から渡された名刺を見た。
会社名、肩書き、電話番号。全部きれいに並んでいる。
でも、こういう紙切れに書いてないことのほうが大事だ。
家に着いて、メイクを落として、熱いシャワーを浴びた。
鏡の中の顔は、店にいたときより少しだけ幼く見える。
この顔を好きだと言う男もいるけど、私はあまり信用していない。
作ってない顔を褒める男は、たいてい“本当の君が見たい”とか言い出すから。
本当の私なんて、見せる必要がない。
ベッドに入る前、スマホが鳴った。
LINE電話。
さっきコンビニで話したカメラマンだ。登録名は、三宅拓巳。
私は少しだけ眉を上げた。
メッセージは短かった。
――さっきの車、あんまり乗らないほうがいいです。
私は画面を見たまま、少し黙った。
命令口調でもない。脅しでもない。
ただの忠告。
でも、理由が書いてない忠告ほど、人を苛立たせるものはない。
私はすぐに返した。
――説明が雑。
数秒後、既読がつく。
――真鍋って人、前に現場で見たことある。
――撮る予定だった子、急に飛んだ。
私はベッドの端に腰かけた。
飛んだ、という言い方は便利だ。
自分で消えたのか、消されたのか、曖昧にできるから。
――飛んだって?
――撮影直前でいなくなった。
――連絡つかない。
――現場ではよくあるって処理されたけど、あの人が来てから空気変だった。
私はスマホを持つ手を少しだけ強くした。
こういう話は、嫌いじゃない。
正確には、嫌いなはずなのに、鼻が利いてしまう。
――それ、私に言う理由は?
少し間があってから、返信が来た。
――あなた、断らなそうだから。
私は思わず笑った。
失礼な男だと思う。
でも、たぶん間違ってない。
断らないんじゃない。
危ない匂いがしたら、近づいて値段を見たくなるだけだ。
窓の外は、もう少しで朝になる色をしていた。
東京の夜明け前は、酔いが抜けたみたいに冷たい。
誰かの夢が終わって、誰かの計算だけが残る時間。
私は真鍋の名刺をテーブルに置いて、その横にスマホを伏せた。
うますぎる話には、だいたい裏がある。
でも裏がある話ほど、表に出たとき高く売れる。
問題は、その値段を誰が決めるかだ。
私はまだ、負ける気がしなかった。




