第1話 愛されるより、値がつく女
男はよく勘違いする。
高いシャンパンを入れた夜、自分は特別だったって顔をする。
女の子が笑って、グラスを合わせて、少しだけ長く目を見た。それだけで、自分だけは違う場所まで来られたと思い込む。
べつにそれはそれでいい。
勘違いは、夜の街では通貨みたいなものだから。
私は一条愛里。
六本木でキャバ嬢をして、昼間はモデルの仕事もする。
それとは別に、食事だけのパパ活もするし、しない日もある。
言い方なんて何でもいい。
会いたい人がいて、払いたい人がいて、私がその時間に値段をつける。それだけの話だ。
「愛里ちゃん、今日も同伴のあとラストまでいける?」
ヘアメイクの女の子が、私の巻いた髪を指先で整えながら鏡越しに聞いてきた。
「いけるよ。今日の客、機嫌いいから」
「また太い人?」
「太いっていうか、寂しい人」
「同じじゃん」
「違うよ。寂しい人のほうが長いから」
私は口紅を引き直して、鏡の中の自分を見た。
白すぎない肌。作り込みすぎると古いから、ベースは薄い。目元だけ少し強くする。唇は“ちゃんとキスを知ってそう”なくらいで止める。やりすぎると下品になるし、清楚すぎると金にならない。
大事なのは、完璧に見せることじゃない。
この子、俺がいないと少し危なそうだなって思わせること。
でも実際には、いなくても一ミリも困らないこと。
それが一番売れる。
店に入る前、スマホを見た。
昼の撮影現場のグループチャットが動いている。明日のアパレル案件の香盤表、修正。集合時間が朝七時半に早まっていた。
最悪、と思ったけど顔には出さない。
夜の仕事をしてる女にとって、朝七時半は人権のない時間だ。でもモデルの仕事は、夜の仕事みたいにその場で値段を吊り上げられない。代わりはいくらでもいる世界で、遅刻はそのまま死ぬ。
「愛里ちゃん、入店五分前です」
黒服に声をかけられて、私はスマホを伏せた。
画面には、別の通知も来ていた。
――今夜、少しだけ会えない?
送信者は、登録していない番号。
少しだけ、って言う男に限って長い。
しかも、そういう男はだいたい自分の話しかしない。
私は通知を消して、営業用の笑顔を作った。
店内はいつも通り、少し暗くて、少しだけ現実より綺麗だった。
照明は人を美しく見せるためじゃない。欠点を見えなくするためにある。
それは女だけじゃなくて、男も同じだ。
昼間ならただの疲れたおじさんでも、この照明の下なら“誰かの人生を動かせる男”みたいな顔になる。
だからみんな、この街に金を落とす。
「愛里ちゃーん!」
指名席につく前から、奥のボックスで手を振っている男が見えた。
四十代後半、外資コンサル、既婚。時計はいいものをしてるけど、靴に性格が出るタイプ。今日の靴は磨かれていたから、たぶん機嫌がいい。
「待った?」
「全然。愛里ちゃんのためなら」
「そういうの、他の子にも言ってるでしょ」
「愛里ちゃんには本気」
「うん、知ってる」
知ってる、は便利な言葉だ。
信じてなくても、会話が前に進む。
グラスを合わせて、相手のテンポに合わせて笑う。
仕事の話を聞く。奥さんの話はさせない。子どもの話はもっとさせない。男は自分が悪い人間だと思いながら遊ぶと、急にケチになる。だから罪悪感は刺激しない。
代わりに、“まだ終わってない男”でいさせる。
「愛里ちゃんってさ、なんでそんなに余裕あるの?」
酔いが回ってきた頃、男が私の手首に触れた。
軽い。所有のつもりもない、確認だけのタッチ。
「余裕あるように見える?」
「見えるよ。誰にも執着しなさそう」
「してるよ」
「何に?」
「自分の値段に」
男は一瞬黙って、それから笑った。
冗談だと思ったんだろうけど、私は本気だった。
夜の街で大事なのは、好かれることじゃない。
安くならないこと。
これをわかってない子から、順番に消耗していく。
二時間ほど席を回して、私はバックヤードに下がった。
喉を潤すためにミネラルウォーターを飲みながら、スマホを開く。さっきの知らない番号から、またメッセージが来ていた。
――仕事の話。悪いようにはしない。
――モデル案件。紹介したい人がいる。
私は少しだけ眉を上げた。
こういう誘いは珍しくない。でも“悪いようにはしない”って言葉を使う人間は、だいたい最初から悪いことをする気でいる。
返信はしなかった。
閉店後、店を出ると、夜の空気は思ったより冷たかった。
春って、昼間は優しい顔をしてるくせに、夜になると急に他人みたいになる。
タクシーを拾う前に、私はコンビニで炭酸水を買った。
ヒールの足を少し休めたくて、店の横のガラス壁にもたれかかる。
六本木の夜は、酔っ払いと成功者と、成功者のふりをした人間でできている。
たまに、本当に何者でもない顔をした人が混ざる。そういう人は逆に目立つ。
その男も、そうだった。
コンビニの前にしゃがみこんで、カメラバッグを足元に置いている。
黒いパーカーに、くたびれたスニーカー。髪は伸びかけ。顔は悪くないのに、金の匂いがしない。
この街では珍しい種類の男だった。
私は炭酸水のキャップを開けながら、その男を見た。
男もこっちを見た。目が合ったのに、逸らさない。
へえ、と思う。
普通は、私みたいな格好の女を見ると、男は二種類に分かれる。値踏みするか、気後れするか。
でもその男は、どっちでもなかった。
ただ見ていた。光の当たり方を確かめるみたいに。
「何?」
私が先に言うと、男は少しだけ首を傾げた。
「いや」
「いや、じゃわかんない」
「綺麗だなと思って」
「それ、ナンパ?」
「違う」
「じゃあ何」
「撮りたい顔だなって」
私は思わず笑った。
口説き文句としては下手すぎるし、職業病としては正直すぎる。
「カメラマン?」
「一応」
「一応って、売れてない人の言い方だよね」
「そうかも」
「否定しないんだ」
「売れてたら、こんな時間にコンビニ前でカップ麺食べてない」
見ると、男の横には本当にカップ麺が置いてあった。
しかもお湯を入れて三分待ってる最中らしい。
六本木の深夜に、こんなに夢がない絵面、逆に新鮮だった。
「名前は?」
「三宅拓巳」
「ふーん」
私はその名前を口の中で転がした。
軽くも重くもない、どこにでもいそうな名前。
でも、目だけは少し違った。
人を見る目じゃなくて、残そうとする目をしている。
「で、三宅くんは、撮りたい顔の女にコンビニ前で声かけるのが仕事なの?」
「今日は違う。たまたま」
「たまたまで女に話しかける男、信用しないんだけど」
「じゃあ信用しなくていい」
「強気」
「別に。知らない人を簡単に信用しないのは当たり前でしょ」
私は炭酸水を一口飲んだ。
炭酸が喉に刺さる。ちょっと気持ちいい。
「私のこと知ってる?」
「見たことはある」
「店?」
「広告」
「へえ」
それは少し意外だった。
夜の女としてじゃなく、昼の顔を先に見ていたらしい。
「でも実物のほうが全然いい」
「それ、褒めてる?」
「写真だと守ってるから」
「何を」
「自分を」
私は黙った。
こういうことを初対面で言う男は嫌いだ。
距離感を間違えてるか、勘がいいかのどっちかだから。
そしてたぶん、この三宅拓巳は後者だった。
「面倒くさいこと言うね」
「よく言われる」
「モテないでしょ」
「あなたほどは」
「当たり前じゃん」
拓巳は少し笑った。
愛想笑いじゃない。ちゃんと面白がってる笑い方だった。
そのとき、スマホが震えた。
また、さっきの知らない番号。
――今、近くにいる。五分だけでいい。
――君にしか頼めない。
私は画面を見て、ため息をついた。
“君にしか頼めない”は、男が女を安く使いたいときの常套句だ。
「彼氏?」
拓巳が聞く。
「違う。仕事したい男」
「仕事ならいいじゃん」
「よくないよ。仕事って言いながら、だいたい自分の都合しか持ってこないから」
「断れば」
「断るよ」
そう言った瞬間、通りの向こうに黒い車が滑り込んできた。
窓がゆっくり下がる。
中にいたのは、昼の業界で何度か見たことのある男だった。広告代理店の人間。名前はたしか、真鍋。
「一条さん」
男は車内から笑った。
「少しだけ話せる?」
私はその顔を見た瞬間、わかった。
この手の“少しだけ”は、ろくなことにならない。
でも、ろくでもない話ほど高く売れることもある。
「どうしようかな」
私がそう呟くと、隣で拓巳が無言のまま車を見た。
その目が、さっきまでと少しだけ変わっていた。
撮る目じゃない。警戒する目。
私は炭酸水の缶を握り直して、車の中の男に笑いかけた。
「五分なら」
「助かるよ」
「でも私、安くないですよ」
男は一瞬だけ目を細めた。
冗談だと思ったのか、本気だと気づいたのかはわからない。
ただ、その瞬間に私は確信した。
今夜はたぶん、少し面白くなる。
そして面白い夜は、たいてい誰かの人生を変える。
「あ、行く前にLINE交換しよ。
現場で一緒になる機会ありそうだから、情報交換用ね。」
拓巳が言った。




