第13話:幸運よりも確かなもの
静寂が、森に訪れていた。
シャドウパンサーの巨体は、雨に打たれながら、もう二度と動くことはない。黒い毛皮から流れ出た血が、雨水と混じり合って地面に広がっている。
アシュトンは、荒い息をつきながら、その場に膝から崩れ落ちそうになる。だが、彼は、歯を食いしばって耐えた。
まだ、終わっていない。
彼は、ゆっくりと振り返ると、呆然と立ち尽くすリリアーナへと、震える足で歩み寄った。
「……リリアーナ」
泥と、血と、雨に濡れた彼の姿は、お世辞にも公爵らしいとは言えなかった。左腕からは血が流れ、頬には魔獣の爪痕が赤く走っている。銀髪は雨で張り付き、高価な衣服は無残に破れていた。
だが、その姿は、リリアーナの目には、これまで見たどんな英雄よりも、気高く、そして、美しく映っていた。
アシュトンは、傷ついていない方の腕で、そっと、彼女の震える身体を抱きしめた。
「……怪我は、ないか」
「は、はい……わたくしは……」
リリアーナの声は、震えていた。まだ、現実が信じられない。本当に、二人とも生きているのだろうか。
「そうか……よかった……」
安堵のため息と共に、彼の身体から、ふっと力が抜ける。
リリアーナは、彼の腕の力強さと、伝わってくる確かな温もりに、これが夢ではないのだと、ようやく実感した。
彼らは、生きている。
この人が、自分を守ってくれたのだ。
「初めて……」
アシュトンが、彼女の髪に顔をうずめるようにして、かみしめるように、そして、どこか誇らしげに、こう言った。
「初めて……俺の力で、君を助けられたな」
その言葉が、リリアーナの心の最後の扉を、優しく、そして完全に、開け放った。
彼女の瞳から、熱い涙が、とめどなく溢れ出す。
それは、恐怖でも、安堵でもない。
ただ、どうしようもないほどの、愛おしさからくる涙だった。
(この人は……)
初めて気づいた。
この人は、「幸運の呪い」などというものに苦しんでいたのではない。
この人は、ただ、誰かを自分の力で守りたかっただけなのだ。
誰かのために、自分の命を懸けたかっただけなのだ。
そして、その「誰か」に、自分が選ばれたのだということを。
リリアーナは、何も言えなかった。
ただ、彼の背中に、そっと自分の腕を回し、その温かい身体に、すがりつくことしかできなかった。
嵐の森の中、二人は、言葉もなく、ただ、互いの存在を確かめるように、強く、強く、抱きしめ合っていた。
雨が、二人を包み込むように降り注いでいる。だが、その雨は、もはや冷たくはなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
遠くから、松明の灯りと、人々の声が聞こえてきた。
「こちらです! 公爵閣下と奥方様を発見いたしました!」
捜索隊が、ついに二人を見つけたのだ。
エリアスを先頭に、騎士団と医師団が駆けつけてくる。
「アシュトン! リリアーナ! 無事か!?」
エリアスの顔は、心配と安堵が入り混じった複雑な表情だった。自分の悪戯が、これほどの危険を招くとは思っていなかったのだ。
「……エリアス」
アシュトンは、ゆっくりと顔を上げた。
「俺たちは、無事だ」
「そのシャドウパンサーは……まさか、君が一人で?」
エリアスは、魔獣の巨体を見て、息をのんだ。
「俺一人ではない」
アシュトンは、腕の中のリリアーナを見下ろした。
「彼女がいたからだ」
その言葉の意味を、エリアスは理解できなかった。だが、アシュトンの表情には、これまで見たことのない、深い満足感が浮かんでいた。
医師たちが慌てて駆け寄り、アシュトンの傷の手当てを始める。幸い、傷は見た目ほど深刻ではなく、適切な治療を受ければ完治するとのことだった。
「奥方様は、お怪我はございませんか?」
「ええ、わたくしは無事です。公爵閣下が……守ってくださいました」
リリアーナの声には、これまでにない温かさが込められていた。それは、もう契約上の妻としての口調ではなかった。
帰路、馬車の中で、二人は再び静かに向き合っていた。
だが、それは以前のような気まずい沈黙ではない。
互いを理解し合った者同士の、心地よい静寂だった。
「アシュトン様」
リリアーナが、初めて彼の名を、自然に呼んだ。
「はい」
「わたくし……あなたの『呪い』のことを、ようやく理解できました」
アシュトンは、じっと彼女を見つめた。
「あなたが求めていたのは、『失敗』ではありませんでしたね」
「……そうだ」
「あなたが欲しかったのは、誰かを自分の力で守ること。誰かのために、本当に必要とされること」
リリアーナの声は、優しく響いた。
「そして、今日、それを成し遂げられた」
アシュトンは、静かに頷いた。
「君のおかげで、な」
「いえ」
リリアーナは、首を振った。
「あなたご自身の力です。わたくしは、ただ、そこにいただけ」
彼女は、微笑みながら続けた。
「でも、もしもわたくしがあなたにとって必要な存在であるなら……これからも、あなたのそばにいさせてください」
「それは……契約期間の間だけ、か?」
アシュトンが、慎重に尋ねる。
「ええ、もちろん契約期間の間だけです」
リリアーナの答えに、アシュトンの表情が、ぱっと曇った。やはり、彼女にとって自分は……。
だが、その残念そうな顔を見たリリアーナが、くすりと笑った。
「ただし」
彼女は、いたずらっぽく微笑みながら続けた。
「更新の手続き、忘れないでくださいね」
その言葉の意味を理解した瞬間、アシュトンの表情が、ゆっくりと変わった。
氷のような冷たさが溶け、代わりに、温かな光が宿る。
それは、彼が生まれて初めて見せる、本当の意味での幸福な表情だった。
「……ああ」
アシュトンは、そっとリリアーナの手を取った。
「俺の方こそ、君に頼みたい。これからも、そばにいてくれ」
「はい。喜んで」
二人の手が、そっと重なった。
それは、契約書に署名する時とは、まったく違う感触だった。
温かく、優しく、そして、確かな絆を感じさせる。
外では雨が上がり、雲間から月の光が差し込み始めていた。
二人の新しい人生が、今、静かに始まろうとしていた。




