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第12話:幸運なんて

時間が、凍り付いたように感じられた。


冷たい雨が、リリアーナの頬を伝い、アシュトンの銀髪を濡らしていく。目の前では、森の闇が凝縮したかのような魔獣、シャドウパンサーが、しなやかな身体を低く沈め、紅い瞳を爛々と輝かせている。


グルルル、という喉の奥で鳴る唸り声だけが、この悪夢が現実であることを告げていた。


「……下がっていろ」


アシュトンが、かすれた声で言った。


彼は、リリアーナを自分の背後へと押しやり、腰に帯びていた狩猟用の短い剣を抜き放つ。それは、鹿や猪を仕留めるためのものであり、C級魔獣と渡り合うには、あまりにも心許ない刃だった。


リリアーナは、彼の広い背中の後ろで、ただ息をのむことしかできない。恐怖で、足が縫い付けられたように動かない。


(このままでは……!)


彼女の脳裏に、先日の会話が蘇る。『君がそばにいる時だけ、俺は普通でいられる』。


つまり、自分がここにいる限り、アシュトンには「幸運」が働かない。都合の良い奇跡も、助けの手も、一切期待できないのだ。


次の瞬間。


黒い影が、弾丸のように動いた。


シャドウパンサーが、地を蹴り、一直線にアシュトンへと襲いかかる。その速さは、常人の動体視力では捉えきれないほどだ。


キィンッ!


甲高い金属音が、嵐の音にかき消される。


アシュトンは、それを紙一重で受け止めていた。だが、その表情は苦痛に歪み、腕は衝撃で痺れているのが見て取れた。一撃の重さが、まるで違う。


「くっ……!」


アシュトンは、必死に剣を振るい、魔獣の猛攻を凌ぐ。


だが、その戦いは、あまりにも一方的だった。


これまで、彼の人生において、本当の意味での「死闘」など存在しなかった。訓練は積んできた。だが、それは常に「幸運」という安全装置の上で行われる、ただの遊戯に過ぎなかったのだ。


魔獣の爪が、空気を切り裂く音。牙がぶつかり合う鈍い音。そのすべてが、生々しい殺意に満ちている。


ザシュッ!


鈍い音と共に、アシュトンの左腕から、鮮血が迸った。


シャドウパンサーの鋭い爪が、彼の腕を深く切り裂いたのだ。


「公爵閣下っ!」


リリアーナの悲鳴が、森に響く。


アシュトンは、激痛に顔をしかめながらも、決してリリアーナの前から動こうとはしない。その青い瞳には、恐怖と、そして、それとは正反対の、奇妙な高揚の色が浮かんでいた。


痛い。


腕が、焼けるように痛い。


だが、この痛みこそが、彼がずっと求めてきた「現実」だった。


自分の力だけで、何者かと対峙する。この、どうしようもない無力感と、それでもなお湧き上がってくる闘争心。これこそが、彼がなりたかった「ただの人間」の姿なのだ。


だが、その代償は、あまりにも大きい。


リリアーナは、血を流し、荒い息をつくアシュトンの姿を見て、はっとした。


脳裏に、これまでの出来事が、稲妻のように駆け巡る。


――執務室で、インク壺にぶつかって書類を汚してしまった時の、彼の満足そうな表情。


――厨房で、彼女が席を外した途端、なぜか完璧になった生地。


――狩猟大会で、何度も外した弓矢。


そうだ。


わたくしが、そばにいるからだ。


わたくしが、彼の隣にいるせいで、彼の「幸運」は発動しない。


わたくしがいるから、この人は、今、死にかけているのだ。


その事実に気づいた瞬間、リリアーナの全身を、氷のような絶望が貫いた。


どうすればいい?


わたくしが、彼から離れればいいのだ。


そうすれば、彼の言う「幸運の呪い」が再び発動する。都合よく、この魔獣が足を滑らせるかもしれない。あるいは、雷が落ちて、近くの木が倒れ、魔獣を押し潰すかもしれない。


どんな形であれ、彼は助かる。


そのためには、わたくしが、彼から離れなければ。


この魔獣の注意を引きつけ、彼が「幸運」を取り戻すための、時間と距離を稼がなければ。


シャドウパンサーが、とどめを刺そうと、再びその身体を低く沈める。


もう、時間がない。


リリアーナは、覚悟を決めた。


平穏な人生? 契約? そんなものは、もうどうでもいい。


ただ、この人に、死んでほしくない。


その一心で。


「いやあああああっ!」


リリアーナは、金切り声を上げ、アシュトンとは反対の方向へと、がむしゃらに駆け出した。


自らが、囮になるために。


だが。


「――愚かなことを!」


力強い腕が、彼女の身体を、ぐっと引き戻した。


アシュトンだった。彼は、傷ついた身体で、リリアーナを背後から強く抱きしめ、逃がさないとばかりに拘束する。


「な、何を……!?」


「言ったはずだ。俺のそばを、離れるな、と」


「ですが、このままでは、二人とも……!」


リリアーナの瞳から、涙が溢れた。それは、恐怖からではない。自分の無力さと、彼の頑固さに対する、絶望の涙だった。


彼女は、彼の腕の中で、必死にもがいた。


「お願いです、公爵様! わたくしを、離してください!」


「断る」


「このままでは、本当に死んでしまいますわ!」


「それでも、だ」


「あなたの『幸運』が、発動しないのですよ!? わたくしがいるせいで!」


リリアーナの悲痛な叫びが、嵐の森に響き渡る。


目の前では、シャドウパンサーが、最後の跳躍の瞬間を、じっとりと見定めていた。


もう、終わりだ。


「お願い……! アシュトン様っ!」


初めて、彼の名を呼んだ。


それは、契約相手の呼称ではない。守りたい、一人の男性に向けた、魂の叫びだった。


「わたくしを離して、助かってください!」


だが、アシュトンの答えは、変わらなかった。


「君を失う『幸運』など、俺はいらん」


彼の声は、低く、そして驚くほどに穏やかだった。


絶体絶命のこの状況で、彼の心は不思議なほど澄み渡っていた。


目の前では、シャドウパンサーが最後の跳躍のための力を、そのしなやかな四肢に溜めている。紅い瞳が、二人を死の淵へと誘うように、爛々と輝く。


「幸運など、いらない」


アシュトンは、静かにそう呟いた。


「呪いに救われるくらいなら、この腕の中で、君と共に果てる方が、ずっといい」


生まれて初めて、アシュトンは心の底からそう思った。


守りたいものが、ここにある。


自分の力で、守り抜くと決めたものが。


「君を失う幸運など、クソ喰らえだ」


アシュトンは、リリアーナを自分の背中にかばうように、ぐっと立ち位置を変えた。


そして、傷ついた腕の痛みも忘れ、ただ一点、魔獣の紅い瞳を睨み据える。


これまでの人生で培ってきた、すべての知識。


来る日も来る日も、意味がないと知りながらも振り続けてきた、剣の記憶。


そして、この腕の中にいる、温かい温もり。


そのすべてを、今、この一撃に懸ける。


シャドウパンサーが、地を蹴った。


黒い稲妻となって、二人へと襲いかかる。


開かれた顎の奥には、鋭い牙がずらりと並んでいるのが、スローモーションのように見えた。


アシュトンは、もう、それを受け止めようとはしなかった。


彼は、魔獣が飛びかかってくる、そのコンマ一秒の瞬間、自らの身体を、わずかに、しかし意図的に、横へとずらした。


経験と、直感と、そして、守るべき者のために研ぎ澄まされた、極限の集中力。


ゴウッ、と。


アシュトンの頬を、魔獣の鋭い爪が掠める。数本の銀髪が、雨と共に宙を舞った。


だが、アシュトンの身体は、そこにあった。


彼は、魔獣の突進を、最小限の動きで回避したのだ。


そして、がら空きになった、その黒い脇腹へ。


アシュトンは、残されたすべての力を振り絞り、持てるだけの体重を乗せて、渾身の一撃を叩き込んだ。


「おおおおおおっ!」


短い剣の刃が、硬い毛皮を突き破り、肉を裂き、そして、深く、深く、魔獣の体内に突き刺さる。


――ギャウウウウウウンッ!


シャドウパンサーの、断末魔の叫びが、森全体を揺るがした。


巨体は、勢いを失い、数メートル先で、どしゃり、と重い音を立てて地面に崩れ落ちる。そして、二度と動くことはなかった。


静寂が、訪れる。


嵐の音だけが、まるで何事もなかったかのように、ざあざあと降り注いでいた。

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