第11話:嵐と森の主
【幸運の呪い】についての一件以来、リリアーナとアシュトンの間には、重い沈黙が横たわっていた。
あの日、彼女が涙を流しながら部屋を出て行った光景が、アシュトンの脳裏から離れない。自分の言葉が、どれほど彼女を傷つけたかを思うと、胸が締め付けられるような苦しさを感じる。
リリアーナもまた、自分の感情的な反応を後悔していた。契約上の関係なのに、なぜあれほど激しく怒ってしまったのか。その理由を考えることが、彼女をさらに混乱させていた。
(わたくしは、この方に何を期待していたのかしら……)
そんな気まずい空気の中、二人の元に一人の訪問者が現れた。
第二王子、エリアス・フォン・ケルディア。
「やあ、アシュトン! それに、麗しの公爵夫人。息災か……な?」
エリアスの声が響いた瞬間、リリアーナは慌てて立ち上がった。
「え、エリアス殿下!」
彼女は、突然の王族の来訪に動揺し、深々と頭を下げる。
「お、お目にかかれて光栄でございます。わたくし、リリアーナ・グレイと申します」
「ああ、そんなに固くならないでくれ。君がアシュトンの妻君か。噂通りの美人だな」
エリアスは陽気に笑ったが、すぐに二人の間に流れる妙な緊張感に気づいた。
「……おや? 何やら、雲行きが怪しいようだが」
「何の話だ」
アシュトンが、素っ気なく答える。
「まあ、新婚夫婦にも色々あるだろうからな。ところで、来週、王家主催の狩猟大会があるのだが」
エリアスは、話題を変えるように続けた。
「もちろん、君たち夫婦も参加するだろう?」
その言葉に、リリアーナの心臓が、どきりと跳ねた。
狩猟大会。それは、貴族の男たちが、その武勇を競い合う、勇壮で、そして危険な催しだ。平穏を愛する彼女にとっては、最も縁遠い世界。
しかも、今の気まずい関係で、そんな場に一緒に参加するなど……。
だが、アシュトンの反応は違った。
「……承知した」
彼の短い返事に、リリアーナは内心で深いため息をつくしかなかった。
そして、運命の狩猟大会当日。
王家の森は、貴族たちの熱気に包まれていた。勇壮な角笛の音が鳴り響き、色とりどりの旗が風にはためいている。
開始前、エリアスがアシュトンの元に近づいてきた。
「アシュトン、君たちのために、特別なルートを用意しておいた」
エリアスは、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべながら囁いた。
「他の連中とは違う、静かで獲物も多い、とっておきの場所だ。なに、友人としてのはなむけだよ。新妻に、いいところを見せてやれ」
アシュトンは、エリアスの提案に興味を示した。大勢の中では、自分の実力がどの程度なのか判断がつかない。二人きりなら、純粋に自分の力を試すことができるだろう。
「分かった。そのルートを頼む」
「よし! では、この地図の通りに進んでくれ。きっと、良い成果が上げられるはずだ」
エリアスは、満足そうに小さな地図を手渡した。
リリアーナは、万が一に備えて用意された観覧席ではなく、アシュトンと共に狩猟に参加することになった。彼女は馬に乗り、少し離れた場所から彼の狩猟を見守る役割だった。
二人は、エリアスに示された特別なルートへと進んだ。そのルートは、他の参加者たちとは明らかに違う方向へと続いており、森のより深い区域へと向かっていた。
大会が始まると、アシュトンの実力が明らかになった。
彼の狩猟技術は、確かに優れていた。矢の腕前も、追跡技術も、一流の水準にある。しかし、それは「圧倒的」というほどではなかった。
他の場所では、エリアス王子が見事な腕前で次々と獲物を仕留めているという報告が聞こえてくる。
(あれ? 公爵閣下は、常に大会で優秀な成績を収めていたと聞いていましたのに……)
リリアーナは、困惑していた。
(エリアス殿下に負けているではありませんか)
これまでの噂では、アシュトンは「戦場の悪魔」と呼ばれるほどの実力者で、狩猟大会でも常に上位の成績を収めていたはずだった。
だが、今日の彼は、確かに優秀だが、特別に突出しているわけではない。むしろ、堅実で真面目な、普通の上級貴族という印象だった。
(もしかして、これまでの成績も……)
リリアーナの脳裏に、あの日のアシュトンの言葉が蘇った。『何をしても最良の結果がもたらされる』。
つまり、これまでの輝かしい成績も、彼本来の実力ではなかったということなのか。
アシュトン本人は、そんな「普通の結果」を、内心では歓迎していた。矢を外すこともあれば、獲物に逃げられることもある。そんな当たり前の体験が、彼にとっては貴重だった。
しかし、リリアーナとの関係がぎくしゃくしている今、素直にその喜びを表現することはできない。
だが、そんな穏やかな狩猟は、長くは続かなかった。
昼過ぎから、空には急速に暗雲が立ち込め始め、やがて、ぽつり、ぽつりと冷たい雨が落ちてきたのだ。
天候は、見る間に悪化していく。風が強くなり、雨脚も激しさを増していく。
遠くから、大会中止を告げる角笛の音が響いてきた。
「引き返そう」
アシュトンが言った時、既に二人は森の深い場所にいた。エリアスが示したルートは、メイン会場からかなり離れた場所へと続いていたのだ。
雨は、瞬く間に豪雨へと変わり、森の視界を奪っていく。二人は、急いで来た道を戻ろうとしたが、激しい雨で道が分からなくなってしまった。
「くそっ、道が……!」
アシュトンは悪態をつくが、こんな時でも彼に都合の良い道が開けたりはしない。リリアーナがそばにいるため、【幸運の呪い】は無効化されているのだ。
ただ、雨と風が、無慈悲に体温を奪っていくだけだった。
「公爵閣下……」
リリアーナは、申し訳なさそうに呟いた。
「わたくしが、そばにいるせいで……」
「何を言っている」
アシュトンは、きっぱりと言い切った。
「君を一人にするわけにはいかん」
その言葉に、リリアーナの胸が小さく震えた。
その、まさにその時。
ザザッ、と。
前方の茂みが、不自然に大きく揺れた。そして、闇の中から、ぬらりと二つの、燃えるような紅い光が現れる。
グルルルルル……。
地を這うような、低い唸り声。それは、ただの獣のものではなかった。獲物を前にした、飢えた捕食者の、殺意に満ちた声。
茂みから姿を現したのは、巨大な黒豹に似た、しかしその体躯も、牙の鋭さも、尋常ではない一頭の魔獣だった。
嵐で縄張りを荒らされ、凶暴化した森の主。大会の想定を、遥かに超える危険な存在。
「……シャドウパンサー、だと……?」
アシュトンが、絶望的な色を浮かべて呟く。
その俊敏さと凶暴性で知られる、C級の魔獣。騎士団でも、複数人でかからねば討伐は困難とされる相手だ。
ましてや、今は丸腰に近い。アシュトンが持っているのは、狩猟用の短い剣だけだった。
そして何より、リリアーナがそばにいるため、【幸運の呪い】は発動しない。都合の良い奇跡は、決して起こらないのだ。
魔獣は、その紅い瞳で、じっと二人を捉えている。雨に濡れた黒い毛皮が、不気味に光っている。
そして、次の瞬間。
そのしなやかな身体を、ぐっと低く沈めた。
狩りの、開始を告げる合図だった。
時間が、凍り付いたように感じられた。
魔獣が、弾丸のように動いたのだ。




