第10話:すれ違う心
不格好な花が咲いてから、数日が経った。
リリアーナとアシュトンの関係は、確実に変化していた。以前のような業務的な距離感は薄れ、二人の間には、穏やかで温かい空気が流れている。
花壇の世話は、今や二人にとって大切な日課となっていた。毎朝、水をやりながら交わす短い会話。午後の陽だまりの中で、雑草を抜きながら過ごす静かな時間。
そんなある日の午後、アシュトンは書類整理をしていて、重要な契約書を誤って床に落としてしまった。
「あ……」
慌てて拾い上げようとして、今度はインク壺に肘をぶつけ、机の上に黒いシミを作ってしまう。
「……やってしまった」
普通なら、苛立ちを見せるべき場面だった。だが、アシュトンの表情には、なぜか満足そうな色が浮かんでいる。まるで、何か大きな成果を達成したかのような顔だった。
「公爵閣下……?」
リリアーナは、困惑していた。
「なぜ、そんなに嬉しそうなお顔をなさっているのですか?」
「え?」
アシュトンは、はっとした表情で振り返った。
「いえ、失敗をして喜んでいらっしゃるように見えたので……」
リリアーナの率直な指摘に、アシュトンは言葉に詰まった。
「公爵閣下ほどのお方が、そのような単純なミスをなさるはずもありませんのに。もしかして、何かお悩み事でも?」
彼女の心配そうな表情を見て、アシュトンの心は大きく揺れた。
(彼女に……話すべきだろうか)
これまで、【幸運の呪い】のことを他人に打ち明けたことは、ほとんどなかった。理解してもらえないのが常だったし、何より、自分の抱える苦悩を軽視されることが怖かった。
だが、リリアーナは違う。彼女なら、もしかすると……。
「……リリアーナ」
アシュトンは、意を決して口を開いた。
「君に、話しておきたいことがある」
「はい」
「俺は……これまで、一度も失敗したことがなかった」
「それは、素晴らしいことでは……」
「いや」
アシュトンは、首を振った。
「それは、俺の能力ではない。俺にかけられた、呪いのせいだ」
「呪い……ですか?」
リリアーナの表情が、困惑に満ちた。
アシュトンは、重い口を開いて、【幸運の呪い】について説明し始めた。常に最良の結果がもたらされること。努力の意味を失ってしまったこと。真の達成感を味わったことがないこと。
「だから、君がそばにいる時だけ、俺は『普通』でいられる。失敗できる。それが、どれほど……」
「ちょっと、お待ちください」
リリアーナが、アシュトンの言葉を遮った。
「『幸運の呪い』……ですって?」
彼女の声には、明らかな困惑と、そして、僅かな怒りが込められていた。
「呪いではなく、『祝福』ではありませんか? 何をしてもうまくいく。それほど恵まれたことが、他にあるでしょうか?」
アシュトンは、予想していなかった反応に戸惑った。
「いや、君には分からないかもしれないが……」
「分からない?」
リリアーナの声が、次第に鋭くなっていく。
「確かに、わたくしには分かりません。何の努力もせずに成功が約束され、失敗の心配もない人生の、何が苦しいのか」
彼女の心の奥で、長い間抑えていた感情が渦巻いていた。
「わたくしの父は、人のために尽くし続けて、報われることなく亡くなりました。母は、病気と闘いながら、家族のために力を尽くして……」
リリアーナの声が、震え始めた。
「それなのに、閣下は『幸運すぎて苦しい』とおっしゃる。『失敗したい』とおっしゃる」
アシュトンは、リリアーナの怒りの深さに、愕然とした。
「世の中には、どんなに努力しても報われない人がいるのです。どんなに願っても、幸運など訪れない人がいるのです」
リリアーナの瞳から、ついに涙が溢れた。
「それなのに、それなのに……!」
彼女は、拳を強く握りしめていた。
「なぜ、そんな恵まれた境遇を『呪い』などと呼べるのですか!」
その叫びは、アシュトンの心に深く突き刺さった。
彼は、リリアーナの立場から見れば、自分の悩みがどれほど贅沢で、そして彼女を傷つけるものかを、初めて理解した。
「リリアーナ……俺は……」
「もう、結構です」
リリアーナは、涙を拭って立ち上がった。
「わたくしは、少し一人になりたいと思います。失礼いたします」
彼女は、そのまま部屋を出て行ってしまった。
後に残されたアシュトンは、深い後悔に苛まれていた。
(俺は……また、失敗した)
今度は、【幸運の呪い】とは関係のない、純粋に自分自身の失敗だった。
リリアーナの気持ちを理解せず、自分の苦悩ばかりを押し付けてしまった。彼女がこれまでどれほどの苦労を重ねてきたかを、全く考慮していなかった。
(これが……本当の失敗か)
呪いによって阻まれる失敗ではなく、自分の不甲斐なさによる、心からの失敗。
それは、アシュトンが求めていたものではあったが、こんなにも苦しいものだとは思わなかった。
一方、自室に戻ったリリアーナも、複雑な感情に支配されていた。
(わたくしは……なぜ、あんなに怒ってしまったのでしょう)
確かに、アシュトンの悩みは理解しがたいものだった。だが、彼が真剣に苦しんでいることも、また事実だった。
それなのに、自分は感情的になって、彼を傷つけてしまった。
(私とアシュトン様の関係は、ただの契約上の関係……でもなぜ、こんなにも心が乱されるのかしら)
リリアーナは、自分の変化に困惑していた。いつの間にか、アシュトンのことを、単なる契約相手ではなく、一人の人間として見るようになっていた。
だからこそ、彼の言葉が、これほどまでに心に響いたのだ。
外では、雲が厚くなり始めていた。嵐の予感が、空気に漂っている。
二人の心にも、同じような嵐雲が立ち込めていた。




