第9話:不格好な花と初めての笑顔
完璧だった料理の一件以来、屋敷の中には、どこかぎこちない空気が流れていた。
アシュトンは、あの日からさらに口数が減り、リリアーナは、そんな彼の様子にどう接すればいいのか分からず、ただひたすらに「完璧な置物」としての業務に徹していた。
あの厨房での出来事は、リリアーナにとって奇妙な体験だった。初めて、契約相手としてではなく、一人の人間として彼と接したような気がしたのだ。だが、翌日からは、また元通りの関係に戻ってしまった。
すれ違い。
その言葉が、二人の間に横たわる分厚い壁のように、リリアーナには感じられた。
そんなある晴れた日の午後。
アシュトンは、執務室でペンを走らせる手をふと止め、窓の外に広がる庭園を、じっと見つめた。そして、ぽつりと呟いた。
「……花を、育てたい」
「はあ」
またしても唐突な宣言に、リリアーナは気の抜けた返事をすることしかできない。
「庭師に命じれば、明日には世界中のどんな珍しい花でも、この庭に咲き誇ることでしょう」
「そうではない」
アシュトンは、静かに首を振った。
「俺の手で、だ。……自分で植えて、自分で世話をして、そして自分の力で咲かせた花が見てみたい」
その声には、子供のような、切実な響きがあった。
リリアーナは、もう何も言えなかった。料理の時と同じような、あの真摯な表情。彼の渇望が、痛いほどに伝わってきたからだ。
(この方は、いったい何を求めていらっしゃるのかしら……)
なぜ、自分で料理を作り、自分で花を育てようとするのか。公爵ともあろう人が、そんなことをする必要などないはずなのに。
こうして、二人の新たな「共同作業」が始まった。
舞台となったのは、広大な庭園の、ほとんど忘れ去られたような片隅だった。そこは、庭師の手入れもろくに行き届かず、雑草が生い茂る、荒れた一画。
「こんな場所で、本当に花が育つのでしょうか?」
リリアーナが心配そうに尋ねると、アシュトンは力強く頷いた。
「ここがいい。誰の手も加えられていない、素のままの土地だ」
アシュトンは、生まれて初めて、土の匂いをその手で感じた。慣れない手つきで鍬を握り、硬い地面を掘り返す。額には汗が滲み、高価なシャツは泥で汚れていく。
「あの、公爵閣下。そのように鍬を振り下ろされては、腰を痛めてしまいますわ」
思わず、リリアーナの口から言葉がこぼれていた。
「……では、どうすれば」
「もう少し、腰を落として、体全体で……。そうです、そのように」
リリアーナは、いつの間にか椅子から立ち上がり、彼の隣にいた。実家で、庭師を雇う金もなかった頃、自分でハーブを育てていた経験が、こんなところで役に立つとは。
「この土の硬さでしたら、まずは腐葉土を混ぜ込んで、土質を改良した方がよろしいでしょう」
「腐葉土?」
「ええ。朽ちた葉を発酵させたもので、土を柔らかくし、栄養も豊富になります」
アシュトンは、リリアーナの説明を、真剣な表情で聞いていた。そして、素直に彼女の助言に従って作業を続ける。
その姿は、お世辞にも公爵様らしいとは言えなかったが、不思議と、生き生きとして見えた。
「それから、日当たりと水はけを考慮して、どんな花の種がこの場所に適しているかを……」
リリアーナは、土の硬さや、日の当たり具合を見ながら、どんな花がこの場所に適しているかを助言した。アシュトンは、その言葉を、素直な生徒のように真剣に聞き入っている。
「君は、随分と詳しいんだな」
「恥ずかしながら、実家では庭師を雇う余裕がなく、自分で庭の手入れをしておりましたので」
リリアーナは、少し苦笑いを浮かべた。
「貴族令嬢らしからぬ経験でございますが」
「いや、素晴らしいことだ」
アシュトンの声には、心からの敬意が込められていた。
「自分の手で何かを育てる経験。俺には、それがなかった」
二人で並んで、小さな種を、一粒、一粒、丁寧に土に埋めていく。時折、彼の手と彼女の手が、偶然、触れ合った。そのたびに、アシュトンはびくりと肩を震わせ、リリアーナは、なぜか自分の心臓が、とくん、と小さく跳ねるのを感じていた。
言葉は、ほとんどない。ただ、土の匂いと、柔らかな風の音、そして、隣にいる互いの気配だけが、そこにあった。
それは、リリアーナにとって、この屋敷に来て初めて感じる、穏やかで、そして温かい時間だった。
(まるで、本当の夫婦のような……)
その考えが頭をよぎった瞬間、リリアーナは慌てて首を振った。これは契約だ。一年間限定の、業務上の関係に過ぎない。感情的になってはいけない。
だが、隣で一生懸命に種を植えるアシュトンの横顔を見ていると、そんな理性的な判断が、どこかに飛んでいってしまいそうになる。
それから、数週間。
二人の日課に、花壇の手入れが加わった。毎日、水をやり、雑草を抜き、小さな芽が顔を出すのを、今か今かと待つ。
「今日も、まだ芽は出ませんね」
「そうだな……。もう少し待ってみよう」
そんな会話を交わしながら、二人は根気強く花壇の世話を続けた。その時間だけは、公爵と子爵令嬢という身分の差も、契約結婚という奇妙な関係も、すべて忘れることができた。
そして、ある朝。ついに、その時は訪れた。
「……咲いている」
アシュトンの、かすかに震える声。
花壇には、数輪の花が、朝露に濡れて健気に咲いていた。それは、庭師が育てる完璧な薔薇とは、似ても似つかない。背丈はまばらで、花びらの形も少しだけいびつ。一輪は、虫に食われたのか、葉に小さな穴が開いている。
不格好で、完璧とは程遠い花々。
だが、アシュトンは、その花たちから目が離せないようだった。彼は、ゆっくりと花壇の前に膝をつくと、そっと、その不格好な花びらに、指先で触れた。
そして。
リリアーナは、見た。彼の唇が、ゆっくりと、弧を描くのを。
それは、これまで彼女が見たことのない、どんな表情とも違っていた。皮肉な笑みでも、儀礼的な微笑みでもない。心の底から、喜びが込み上げてくるのを、抑えきれないといったような、無防備で、そして、少年のような、本物の笑顔。
その瞬間、リリアーナの世界が、色を変えた。
ドクン、と。今度ははっきりと、心臓が大きく鳴った。頬が、かあっと熱くなる。
(……この方は)
この人は、ただ、不器用なだけなのだ。氷のような仮面の下で、ずっと、こんな風に笑いたかっただけなのだ。
その笑顔を守ってあげたい。
そう、強く、思ってしまった。
それは、憐憫でも、同情でもない。ましてや、「業務」などでは断じてない。
リリアーナの中に、契約書には書かれていない、温かくて、少しだけくすぐったい感情が、確かに芽生えた瞬間だった。
「美しい花だな」
アシュトンが、感慨深げに呟いた。
「完璧ではないが……いや、完璧ではないからこそ、愛おしい」
その言葉に、リリアーナの胸が、また小さく跳ねた。
(わたくしも……この方にとって、そんな存在になれるのでしょうか)
その考えが浮かんだ瞬間、彼女は自分の変化に気づいた。
いつの間にか、この奇妙な契約相手のことを、一人の男性として見つめている自分がいたのだ。




