第8話:公爵様の初めての料理
契約結婚生活が始まって、一週間が過ぎた。
リリアーナの「業務」は、驚くほど順調だった。朝から晩までアシュトンのそばにいるだけ。肉体的な負担は皆無だ。
だが、その生活は、彼女の心を少しずつ、しかし確実に摩耗させていた。
(……今日も、完璧な置物にならなくては)
朝、鏡の前で自分に言い聞かせる。感情を排し、完璧な公爵夫人を演じ続ける。それが、彼女に与えられた役割だった。
そんなある日の昼食後、アシュトンが、唐突に、とんでもないことを言い出した。
「リリアーナ。君のために、菓子を焼こうと思う」
「…………はい?」
思わず、リリアーナは聞き返した。隣に控えていた侍従長のセバスチャンも、普段の鉄仮面のような表情をわずかに崩し、目を見開いている。
あの、氷の公爵が? 料理を? しかも、わたくしのために?
あまりの突飛な言葉に、リリアーナの思考は一瞬、停止した。
「何か、問題でも?」
アシュトンは、不思議そうに首を傾げる。
(問題だらけですわ!)
リリアーナは、内心で叫んだ。この国で最も高貴な身分の男性が、自ら厨房に立つなど、前代未聞だ。それも、契約上の妻とはいえ、没落した子爵令嬢のために。
「い、いえ、滅相もございません。ですが、厨房は……」
「もちろん、君も一緒に来てもらう」
アシュトンの言葉に、公爵邸の厨房は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
料理長は顔面蒼白になり、「こ、公爵閣下がこの神聖なる厨房に足を踏み入れられるなど、前代未聞にございます!」とわめき、他の料理人たちは、右往左往するばかりだ。
「旦那様のお料理など、とんでもない! 我々にお任せください!」
「そうです! どのような菓子でも、最高級の職人が心を込めて……!」
しかし、アシュトンの意志は固かった。
「俺が作る」
その一言で、厨房の騒ぎは静まった。
そんな大混乱の厨房の隅に、リリアーナのための、これまた豪奢な椅子が一つ、用意された。そして、その隣には、真新しいエプロンをぎこちなく身に着けた、氷の公爵様。
そのあまりにシュールな光景に、リリアーナは必死で笑いをこらえなければならなかった。
(なぜ、この方はこんなことを……?)
理解に苦しむ行動だった。公爵ともあろう人が、わざわざ自分で料理を作る理由が、まったく分からない。
「さて、始めるか」
アシュトンは、料理長が戦々恐々としながら用意した最高級の食材を前に、腕まくりをした。
今日のメニューは、シンプルな焼き菓子、パウンドケーキだ。
しかし、彼の挑戦は、開始早々、困難を極めた。
「……っ、小麦粉が」
ボウルに小麦粉を移そうとして、その大半をぶちまけてしまう。銀色の髪と、普段は冷たい光を放つ長いまつ毛が、真っ白な粉に覆われた。
リリアーナは、思わず「ぷっ」と噴き出しそうになり、慌てて口元をハンカチで覆う。
(あの氷の公爵が、真っ白になって……)
それは、普段の威厳ある姿からは想像もつかない、滑稽な光景だった。
「……何がおかしい」
「い、いえ、何も。とてもお似合いですわ、閣下」
「……そうか」
むっとした表情で、アシュトンは続ける。
今度は、卵を割る番だ。力加減が分からず、ぐしゃり、と卵を握りつぶしてしまう。ようやくボウルに割り入れたかと思えば、殻が盛大に混入していた。
その不器用で、必死な姿は、普段の彼からは想像もつかないものだった。
氷の公爵。戦場の悪魔。
そんな二つ名を持つこの人が、たった一つの卵に、こんなにも苦戦している。
(……なんだか、見ていられないわ)
リリアーナは、いつの間にか、彼のことを「契約相手」ではなく、目が離せない危なっかしい子供のように感じ始めていた。その感情が、彼女の冷静な仮面を少しずつ溶かしていく。
料理長たちは、遠巻きに見守りながら、ひやひやしていた。
「ああ、お砂糖の分量が……」
「泡立て方が、そのような加減では……」
しかし、誰も口を出すことはできない。主君の命令は絶対だからだ。
アシュトンは、レシピを何度も確認しながら、汗をかいて作業を続けた。生地を混ぜる時も、泡立て器の使い方が分からず、まるで武器でも扱うかのような手つきだった。
「もう少し、優しく混ぜた方が……」
リリアーナが、思わず口を挟みそうになって、慌てて口を閉じる。これは彼の挑戦だ。手を出すべきではない。
だが、そんな彼女の心境の変化を、アシュトンは敏感に察知していた。
「何か、言いたいことがあるか?」
「い、いえ……」
「遠慮はいらん。気づいたことがあれば、教えてくれ」
その言葉に、リリアーナは少し戸惑った。これまで、彼女は「そばにいる」こと以外、何も求められていなかった。それなのに、今は違う。
「……もう少し、優しく混ぜられた方が、生地がふんわりと仕上がるかと」
「そうか」
アシュトンは、素直にリリアーナの助言を受け入れた。今度は、慎重に、優しく生地をかき混ぜる。
「このくらいか?」
「はい。とても良い感じです」
その瞬間、リリアーナの表情が、わずかに緩んだ。それは、これまで見せたことのない、自然な笑みだった。
だが、その時だった。
「奥様、失礼いたします。急ぎ、ご確認いただきたい書類が……」
侍従長のセバスチャンが、申し訳なさそうな顔でリリアーナに声をかけた。どうやら、どうしても今、彼女のサインが必要な書類があるらしい。
「すぐ戻りますわ」
リリアーナはアシュトンに断りを入れ、一瞬だけ、その場を離れた。
その、ほんの数十秒の間。
アシュトンは、まだ完成していない生地を前に、ふと手を止めた。リリアーナがいない今、何かが起こるのではないだろうか。そんな予感があった。
だが、何も起こらない。
生地は、相変わらず不完全なままで、まだまだ手を加える必要がある状態だった。
(……そうか。これが、普通ということか)
アシュトンは、小さく笑みを浮かべた。
リリアーナが戻ってきた時、アシュトンは黙々と生地作りを続けていた。
「お待たせいたしました」
「ああ。丁度良いところだ。型に流し込むところだった」
二人で協力して、生地を型に流し込む。その作業は、これまでの彼らの関係とは違う、自然な共同作業だった。
そして、オーブンに入れて焼き上がりを待つ間、アシュトンは珍しく、多弁だった。
「初めて、自分の手で何かを作った気がする」
「そうなのですか?」
「ああ。これまで、何でも人任せだった。だが、今日は違う。自分の手で、君のために……」
その言葉に、リリアーナの胸が、小さく高鳴った。
やがて、ケーキが焼き上がった。形は少し歪で、表面も完璧とは言えない。だが、甘い香りが厨房に広がり、確かに美味しそうだった。
「どうだ?」
アシュトンが、期待と不安の混じった表情で尋ねる。
リリアーナは、一口食べてみた。味は、確かに素朴で、プロの作ったものには及ばない。だが、その中に、作り手の真摯な気持ちが込められているのを感じた。
「とても……温かいお味ですわ」
それは、心からの感想だった。
アシュトンの表情が、ぱっと明るくなる。それは、これまで見たことのない、純粋な喜びの表情だった。
その瞬間、リリアーナの心に、何かが変化した。
この人は、ただ不器用なだけなのかもしれない。
そして、意外にも、とても人間らしい一面を持っているのかもしれない。
二人の心の距離が、ほんの少しだけ、縮まった午後だった。




