エピローグ:悪友の来訪と新たな波乱の予感
あの嵐の森での出来事から、ひと月が過ぎていた。
リリアーナとアシュトンの日常は、表面上は何も変わっていない。朝は執務室で、午後は庭の手入れ、夜は読書の時間。二人は、いつものように静かで穏やかな時間を過ごしている。
だが、注意深く観察すれば、微細な変化に気づくことができただろう。
アシュトンが書類を読んでいる時、以前よりも頻繁にリリアーナの方を見るようになっていること。リリアーナが花の水やりをしている時、その横顔を見つめるアシュトンの瞳が、以前とは違う温かさを帯びていること。
そして、二人とも、相手がこちらを見ていることに気づくと、慌てて視線を逸らすようになっていること。
「公爵閣下、お茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
何気ない会話も、以前とは微妙に違っている。お互いの声に、ほんの少しだけ、優しさが混じるようになっていた。
そんな、穏やかで、そして少しだけくすぐったい午後のひととき。
「やあ、アシュトン! それに、麗しの公爵夫人! 息災かな?」
扉を乱暴に開け、ずかずかと入ってきたのは、第二王子のエリアスだった。彼は、いつものように陽気で、そして少しばかり場の空気を読まない様子で現れた。
「エリアス殿下……。ノックというものを、ご存じないのですか」
アシュトンが、心底迷惑そうに眉をひそめる。
「ははは、固いことを言うなよ。友人の安否を気遣って駆けつけてきたんだ」
エリアスは、そう言いながらも、二人の間に流れる微妙な空気の変化を敏感に察知していた。
「……ほう。なるほど、なるほど」
「何が『なるほど』だ」
「いやいや、別に深い意味はないさ。ただ、君たちの雰囲気が、以前とは少し変わったような気がしてね」
エリアスは、にやにやしながら二人を交互に見た。
「森での一件以来、仲が良くなったようじゃないか」
「別に、特別なことは……」
「まあまあ、照れるなよ。夫婦なんだから、仲が良いのは結構なことだ」
エリアスの屈託のない笑顔に、二人は苦笑するしかなかった。
「それはそうと」
エリアスは、本題に入った。
「実は、君たちに頼みたいことがあってね」
「頼み?」
「ああ。近々、隣国から姫君がいらっしゃることになった。歓迎の夜会を開くのだが……」
エリアスは、わざとらしく咳払いを一つした。
「そこで、だ。アシュトン、ケルディア王国の若き英雄であり、そして、今をときめく新婚の君に、夜会の幕開けを飾ってもらおうと思ってね」
「……何が言いたい」
「決まっているだろう?」
エリアスは、楽しそうに、そして、少しだけ意地悪く、こう告げた。
「その夜会で、君たち夫婦に、ファーストダンスを披露してもらう。もちろん、断るなんて言わせないぞ?」
ファーストダンス。
それは、夫婦となった二人が、初めて公の場で、その愛と絆を披露する、神聖な儀式。
リリアーナは、その言葉の意味を理解し、さっと血の気が引くのを感じた。
わたくしが、この方と、社交界の衆人環視の中で、ダンスを?
それは、これまでの「業務」とは、まったく次元の違う話だった。
ちらりとアシュトンに視線を送ると、彼もまた、驚いたように目を見開き、そして、次の瞬間には、その耳が、かすかに赤く染まっているのが見えた。
彼にとっても、それは、まったくの想定外だったのだろう。
「そういうわけで、頑張ってくれ給え。王国の名誉がかかっているからな」
エリアスは、そう言い残すと、満足そうに部屋を出て行った。
後に残された二人は、しばらくの間、お互いの顔を見ることができなかった。
「あの……アシュトン様」
「な、何だ」
「ダンスの練習……必要でしょうか」
「そ、そうだな……明日から、始めるか」
「はい……」
二人の会話は、まるで初心な恋人同士のように、たどたどしかった。
しかし、そんな彼らを見守るように、窓の外では、二人が一緒に育てた小さな花壇の花々が、風に揺れて美しく咲いていた。
不格好だけれど、二人で大切に育てた、世界でたった一つの花たち。
それは、これから始まる二人の関係そのものを、象徴しているかのようだった。
「……ところで」
アシュトンが、ふと思い出したように言った。
「契約更新の件だが……正式な書類を作り直した方がよいだろうか」
「そうですね」
リリアーナは、いたずらっぽく微笑んだ。
「今度は、『愛』の項目も追加していただけますか?」
「……承知した」
アシュトンの頬が、再び赤く染まった。
窓の外では、夕日が美しく沈んでいく。
嵐の森を乗り越えた二人の、奇妙な契約結婚生活。それは、一つの大きな山場を越え、今、新たな、そして、さらに眩しく、予測不能な舞台へと、その幕を開けようとしていた。
こうして、二人の新しい物語が、静かに、そして確実に、始まろうとしていた。




