7.ガーゴイル
「これは?」
彼方の目がカウンターの像に落ちた。手に取って眺める。
「ガーゴイル、ですか」
高さ三十センチ、幅十センチほど。三分の一が台座で、残りが本体。台座にしゃがみ込んだ、半人半獣の怪物だ。
蝙蝠の翼と尾。頭には短い二本の角。悪魔めいた姿だ。
(グリムさんは、よくこれを服のなかに隠していたな)
だが、彼方の目から見ても、この像の価値は高い。細工は精緻で、彫刻は生きているようだった。
ガーゴイルの目が、邪な赤い光を帯びたように見える。いつ動き出してもおかしくない。
その瞬間、彼方の胸に、ちくりと妙な引っかかりが走った。
(……薄気味悪い)
だが、掌に残る粗い石の感触が、これはただの像だと教えてくれる。
「ええ」
グリムはうなずいた。
「さして貴重なものではありません。あなたの助けに比べれば、足元にも及ばない。ですが、感謝の気持ちとして、どうか」
「次に来るときは、もっと価値のあるものを持ってきます」
彼方は像を手に取り、眺める。習慣で一度は辞退しようとして――すぐに思い直した。
東の果ての謙遜は、ここでは通じない。グリムが心から礼をしたいと望んでいるのは明白だ。
断れば、贈り物を疎まれた、あるいは交誼が浅いと思わせる。関係を壊す。
それに、ガーゴイルというのは、東の果ての魔除けの石に近い。主に厄を払うためのものだ。
グリムの気持ちと祝福、しかと受け取った。
値打ちからしても、意味からしても、断る理由はない。
では、この「土産」を頂いておこう。
彼方は像をカウンターに置き、微笑んで褒めた。
「とても精美な芸術品です。僕の好みに、本当に合う。次は何を持ってきてくれるのか、楽しみにしています」
グリムは顔をほころばせ、そっと息を吐いた。
このガーゴイルは、彼が長年秘蔵してきたものだ。そして、師のもとを巣立つ作品でもある。
彼が自ら作った、最も出来のいいガーゴイル。
遠い遺跡、死者の門の破片を素材に使い、九百九十人分の血と魂が凝った生命力を注ぎ込んだ。
硬い皮膚は刃を通さず、鋭い爪牙は人を裂く。強い翼は機動力を与え、殺意を自動で識別する。戦闘力は、恐慌級の戦士に匹敵する。
魔術師の造物学において、グリムの腕は疑いなく極に達していた。
(見せてやりたい)
内心には、わずかな得意と、忍び笑いがあった。
だが、「芸術品」という言葉を聞いた瞬間、その得意は消えた。頭が冷える。
(そうだ。恐慌級のガーゴイルなど、ただの品だ)
神谷さんの本一冊の価値で、千や万のガーゴイルに釣り合う。
(やはり、この程度の贈り物は、高みの者には何でもない)
(ああ、神谷さんはやはり慈悲深い。別の角度から褒めて、私の心を気遣ってくれた)
だが、構わない。
次の贈り物は、すでに用意してある。あれは間違いなく、重い品だ。神格級の存在でも、無視できないはずだ。
「お気に召すはずです」
老人は帽子の下で目を光らせ、後退し、扉を押して店を出た。
彼方は手を振って見送り、ため息をついた。
外では、雨がまだ激しく降っている。今日の営業は、これで終わりだろう。
これほど悪い天気で二人の客とは、十分に低い確率だ。これ以上は望めない。
「やはり、良い心持ちでいるほうが、運も寄ってくるものですね」
呟いて、紅茶を一口。ガーゴイルをしばらく弄び、それからカウンターの脇に置いた。
薄暗い光のなか、本物の悪魔のような像が台座にしゃがんでいる。いつでも翼を広げ、狩りに出る準備ができているように。
ある意味で、このガーゴイルはこの店によく似合っていた。
彼は少し考えて、像の向きを変える。赤く光る目を、扉の外へ向けた。
これで、泥棒が入ってきても――夜はもちろん、昼間でも、不意を突かれて肝を冷やすだろう。
威嚇の効果は十分だ。
(実に、いい)
満足してうなずき、カウンターを片づける。カップを手に取ったとき、彼方はふと瞳孔を縮めた。
机の上の水滴が、ゆっくり動いている。そして、文字になった。
――「久しぶり」。
彼方は立ち上がった。目を机に据える。
懐かしい感覚が湧く。三年前、この店の扉の前に立ったときと同じだ。
(こいつ)
彼方は、あのとき自分を異世界へ送った黒幕が、三年を経て再び現れたと悟った。
「……あなたか」
落ち着いて、深呼吸。腰を下ろす。
「本当に、久しぶりです。では、今また現れたというのは――ようやく、僕が払うべき代価を思い出した、ということですか」
彼は、少しばかり恨みがましくなる。
「そもそも、条件をはっきり言わなかったでしょう。訳も分からないまま、ここへ来た。気前のいい客が店を出させてくれなければ、とっくに飢え死にしていましたよ」
「あなたは、何か悪魔ですか。魂を取引する類の」
水滴が、また動く。――「違う」。
彼方は息を吐いた。
「でしょうね。見た目も違う。こんなに怠けた悪魔が、どこにいますか」
各種の文学作品や神話のなかで、悪魔というものは、知恵を絞って利益を絞り出すものだ。
「いいですよ、直接言ってください。僕に、何をさせたいんですか」
彼は背筋を伸ばして手を組み、カウンターの水滴を見つめる。
三年の遅れだが、払うべきものを払うのは構わない。
もともと彼は、契約の精神を重んじる。相手は条件を明示しなかったが、願いを叶えたのは事実だ。
三年間、契約成立の利益を先に享受した。計算すれば、得をしている。
それに、この儀式で呼び出された存在は、態度がとても穏やかだ。「ランプの魔神」のような、善き神の類だろう。
――だが。
水滴が変わった。――「お前は、すでに行った。それで、私が目覚めた」。
彼方は上体を反らせ、思考を回す。
「つまり、僕の願いを叶えたあと、三年間は眠っていた。僕が何かをしたことで、あなたがそこから何かを得て――ようやく目覚めた、と」
「そう」
「……」
机を叩く。
「さっき、グリムさんに本を勧めさせたからですか」
「そう」
「では、それがあなたの望みで、僕が払う代価――他の誰かに、僕の本を勧めさせて、広めさせること?」
「そう」
「あなたに、利がある?」
「そう」
(……実に、簡潔だ)
「では、問題ありません。全力を尽くします」
彼方が改めて言うと、カウンターの水滴は、跡形もなく消えた。
――
グリムの姿が雨の向こうに消えて、しばらく。
霧のような路地から、人影が半身を覗かせた。フードに雨粒が跳ね、鷹のような目が、グリムの消えた場所を見据える。男は受話器を取り出した。
エーテルの力が空気を流れ、無音の障壁が張られる。
「こちらヴィーム。報告します。ロズモア二十三番街で、"黒面の蛇"コルム・グリムを確認。狩人の内紛に関与した模様です」
「加えて、彼は一軒の書店に一時間ほど滞在していました。極めて不審です――この書店は、黒の魔術師どもの秘密拠点かもしれません」




