6.灰蝕の頁
「ああ、これは……あなたが、書いたのか」
グリムの目つきが変わった。本を持つ手つきが、変わる。慎重だったのが、ひどく優しいものになった。
表紙には、神谷彼方の名が刷られている。そして先ほどの言葉を思い返せば――あれは、自分の著書を勧めていたのだ。
彼は表紙の『灰蝕の頁』という文字を見て、顔を上げた。
「これが、あなたの研究分野か。儀式について?」
「頁」の字は分かる。書物の一部だ。
「灰蝕」――灰を蝕む。だが、エルダ……ヴァレニアでは、そんな名の教団を聞いたことがない。
主流の、信徒の多い信仰は三つある。
知識を奉ずるオルデル協会。
月を奉ずるソレーユ聖教会。
壁の霧を奉ずるサン・コルヴォ教会。
その他の小さな教派は、点在するだけで、あまり知られていない。だが、各種勢力のあいだを渡り歩いて打ち手を務めてきた魔術師として、彼はそれなりに詳しい。
それでも、灰蝕という名には覚えがない。
(人食いの部族が信じる宗教……いや)
そうでなければ――黒の魔術師の内心に、わずかな揺らぎが生じた。
学者はおおむね、秩序と善の側に立つ。彼もこれまで、彼方が少なくとも中立だろうと考えていた。だから素性を明かさず、己の過去にも触れずにきたのだ。
高みの者の慈悲は短い。この店主が「残忍な黒の魔術師を、言葉で善へ導けるか」などという退屈な実験をしているかもしれない。もし意に背けば、どうなるか分からない。
だが、この店主が書いた本は、その気配からして、すでに深く邪だった。書き手は疑いなく、邪の側だ。
禁忌の課題を研究し、それでいて強い力を持つ学者は、主流から排除される。
(これが、彼方が隠遁している理由か)
心臓が跳ねる。彼は彼方を見た。
店主は、客の好奇の視線を気にするでもなく、微笑んでうなずいた。少し懐かしむように。
「ええ。これは僕の研究課題の一部で、僕の運命を変えた――」
彼方は長く息を吐く。
「……いや、もう過ぎたことです。今さら話す必要もないでしょう」
――過ぎたこと。運命を変えた?
グリムの胸に、大胆な推測が浮かぶ。だが彼は相手の様子をうかがい、慎重にページを撫でた。装丁が粗いことに気づき、言葉を選ぶ。
「これは……手製かね」
彼方はうなずく。
「当時、ちょっとした事情があって、公表する暇がなかった。ですから、自分で刷った一冊だけが残っています。ですが、グリムさんとは縁がある気がする。これは貸しましょう。もちろん、信用ならないと言うなら、別のものを勧めますが」
彼方は、転移する前、民俗学の博士課程に在籍する学生であり、講師でもあった。
――神谷先生という呼び名には、そういう由来がある。人生指南の言葉も、一日で身につくものではない。
もし転移を選ばなければ、今ごろは民俗学の六冊目の本を出し、准教授の席を得ていたはずだ。
次々と現れる「最年少准教授」や「天才学者」と並べれば、二十四の彼は、とても優秀とは言えない。しかも社会科学系は、中身が薄いと見られがちだ。口に出せば、批判もされるだろう。
だが、この分野の研究において、彼方はまさしくその道の専門家だった。
「ご厚意に感謝します。あなたの著作を読めるとは、光栄です」
グリムは軽く頭を下げ、彼方を見た。
「ですが、これほど大事な孤本を、私のような老いぼれに託されるのは、さすがに落ち着きません」
彼が案じているのは、もちろん紛失ではない。
老練な魔術師として気にかかるのは、これが未発表の著作だという点だ。ならばここに記された事柄は、実験的なものかもしれない。無断で研究すれば、予期せぬ結果を招く。
(……やはり、私を何かの実験体に)
「何が不安なんですか、グリムさん。あなたなら、この本にもっと価値を足せます。人に見られてこそ、僕の研究に価値が出る」
「孤本? 僕にとっては、もう大したものじゃありません」
彼方は微笑み、背後の棚に目をやった。
「今の僕には、森が一つあるんです。いつでも一冊は複製できます。頭のなかの知識は盗めません。盗まれるのは名誉と金だけです。そしてそれは、僕にとっては一番要らないものだ」
――彼方はグリムをじっと見た。
(グリムさん、グリムさん。受け取ってください。これが最後の一杯です)
彼は会話のなかで感じ取っていた。グリムが自分の研究を気にかけていること。だがそれは、課題そのものへの関心ではない。成果がもたらすものへの憧れだ。
独居老人のグリムは、穏やかに見えて、実は高慢で孤立している。親や友人に遠ざけられ、学問に執着している。
彼にはその方面の成果が要る。名誉、利益――心の空白を埋めるための。
だが、その心持ちは病的で、偏っている。人からさらに遠ざかるだろう。だから彼方は、彼を導き、人の気遣いをもう一度感じさせようと決めた。
グリムは、店主の意味深な目を受けて、はっとした。帽子を脱ぐ。
「……教えられました」
帽子を持つ指が、微かに震えている。
(名誉は要らない――これは、他人に情報を漏らすなという警告か)
(私が勘づいたことに、気づいたのだ)
黒の魔術師の内心は、ますます慎重になる。
彼方が続けた。
「ところで。あなたが、ええと、舌の回らぬ頁を読めるなら、この本も読めるでしょう。よければ、誰かに勧めてくれると助かります」
彼は礼儀正しく、含みのある微笑みを浮かべる。
グリムは手のなかの本を見て、うなずいた。
「承知した。必ず、尽力しよう」
(店主は、自分の著作を広めてほしいのだ)
(これが、支払うべき代価か)
グリムの心は軽くなった。
(代価があるなら、いい)
この世に、無償の食事などない。店主がずっと気前のままなら、むしろ恐ろしい。そのとき最後に払うのは、自分自身かもしれないのだから。
店主の素性を明かさず、この本の内容を広める。
ならば、まず自分が内容を研究し尽くし、他人に口頭で伝えるしかない。慎重に、慎重に、慎重に。
「では、私はこれで」
グリムは帽子をかぶり直し、少しためらってから、懐から黒い石の像を取り出し、カウンターに置いた。
「これまでのご指導に感謝します。ほんの気持ちです。お受け取りください」




