5.転移者、神谷彼方
そう。神谷彼方は、転移者だ。
地球から、このヴァレニアという広大な国へ、移ってきた。
横に並べて見れば、彼は数多の転移者のなかの、取るに足らない一人にすぎない。だが、ある意味では違っていた。
なぜなら、彼の転移は――ある程度、自分で選んだものだったからだ。
話は、神谷先生の趣味から始まる。
現代の若者には、奇妙な癖がある。強迫症。集合体恐怖症。あるいは、ボディソープの成分表まで読んでしまう読書癖。
そして神谷彼方という人間は、熱烈な書籍収集癖の持ち主だった。
生涯の願いは、この世のすべての刊行物を手に入れること。読み切れるかどうかは置いておく。両腕を広げ、整然と並んだ渺茫たる書の海を眺める――その光景を想像するだけで、彼は濡れた。
……目の縁が。
もちろん、そんな偉業は個人の努力では不可能だ。極東の国では、ある半年だけで新刊が九万点。定価の中央値が四十五クレジット。全部買えば四百万。世界中の本となれば、想像もできない金額になる。
本の価値は、人が思うよりずっと高い。
しかも、金の問題だけではない。絶版本、発禁本、そういうものは探すだけで途方もない時間がかかる。
彼方にとって、それは一生かけても届かない、しかし憧れ続ける夢だった。
――ある日まで。
彼は偶然、近道を見つけてしまった。代価を払えば、どんな願いも叶うという儀式だ。
どうせ本物ではない。そう思って、試しに、儀式を一分の狂いもなくやり遂げ、世界中の本を手に入れたいと願った。
そのとき、耳元で柔らかな囁きを聞いた気がする。
だが、言葉を交わそうとすると、まるで噛み合わなかった。何が起きたのか分からないうちに、彼は異世界に立っていた。目の前には、この打ち捨てられた古書店がある。
直感で分かった。今、ほんの一念で、夢に見た巨大な書庫をこの店に降ろせる。だが同時に、二度と地球へは帰れない。
(選ぶ余地など、あるか)
もともと身一つだった彼方は、迷わず扉を押した。
それから、三年。
彼方は、ロズモアの暮らしに、すっかり馴染んでいた。
――馴染んだというほどでもない。この世界の技術水準は、地球の八十年代から九十年代あたりに近い。文字も似ている。歴史的な理由で、漢字と英語が通用するので、言葉に不自由はしない。
ただ、奇妙な名と髪の色の持ち主が多い。巷では「裏世界」だの「超能力者」だのといった噂もある。
もっとも、彼方はまだ見たことがない。
いまだに、あれがどんな代価だったのかも分かっていない。
だが、構わない。今の暮らしには満足している。本棚は毎日、勝手に入れ替わる。手動で更新も検索もできる。読み切れないほどの本があり、客を相手に――違う、心に言葉を注げる。
「最近、また研究が行き詰まっていてね」
鉄の面の奥から、悩んでいるような嗄れ声が届いた。
「君が二年前に貸してくれた『舌の回らぬ頁』のおかげで、新しい方向は見えた。だが、似た言葉の文献について、もっと手がかりが要る」
彼方の飛んでいた思考が、そこで断ち切られた。カウンターに出て、帳面に「返却済」と書き込む。
(グリムさん、この本を真面目に「舌の回らぬ頁」と呼ぶのか。学者らしい、渋い冗談だ)
「では、今回も同じ系統を?」
彼方は顔を上げて、ペンで机を叩く。
グリムは唸った。
「前のは難しすぎた。しかも、大きな全体のごく一部らしい。もっと平易なもの……できれば、広く文化を扱ったものがいい。あの言葉の多くは、習俗と深く結びついているように見える。その意味を、もっとよく理解したい」
二年を経て、彼はようやく、あの本に残された知識から、禁呪の研究の手がかりを掴んだ。
――神格級へ、あと一歩という機会が、目の前にある。
魔術師は言葉と文字の力を用いる。黒の魔術師は言葉、白の魔術師は文字を。前者は呪文を唱え、後者はルーンを記す。
一流の黒の魔術師であるグリムは、習得可能な基礎の呪文を、ほぼすべて使いこなしている。今、必要なのは、魂の内側を掘り、自分を突破すること。
つまり――自分だけの魂の声を探すことだ。
黒の魔術師の悲願は、己の言語を創り出すこと。これが神格級への道だ。
「なるほど……では、少し探させてください」
彼方はうなずき、考えて、棚へ向かった。
グリムの要求は理解できる。言葉は概ね同じでも、やはり二つの世界だ。習俗の違いが、理解の隔たりを大きくする。
それに、極東の文化を完全に理解しろというのは酷だ。まずは、扱う範囲の広い本を渡すしかない。
指が、棚の背をなぞる。――と、止まった。
本を探しているあいだ、グリムは外の暗い雨を見ていた。待ちながら、記憶に沈む。
二年前。ハルムートとの一戦に敗れ、みっともなく逃げ出したあと。自分の道について、最も迷っていたとき。彼はこの店で、彼方の導きを得た。
今でも、あの本に宿る悪魔の言語を思い出すと、心臓が速くなる。あの息を呑むような神秘と力。全身が震える。
――初恋のような感覚だ。
自分がまだ徒弟だった頃、初めて魔術師の力に触れたときを思い出す。
年老いた師は、平然とした声で、あの美しい鳥に言った。「死ね」と。
そして、その生き物は死んだ。
なんと偉大か。なんと衝撃的か。
彼は自分の目標と信念を、そして初心を、もう一度思い出した。
今の彼は、数年前の傲慢な自分とは、雲泥の差だ。
全ては、目の前の、無私で寛大な、全知で博識な店主のおかげだ。
彼は彼方の来歴も素性も訊いたことはない。だが、心のなかで答えは出ていた。
――彼は、オルデル協会の隠遁学者に違いない。
いや、もしかすると、真理の神殿の鍵を握るという伝説の神格級の大賢者か。だが、相手からエーテルの波動を感じないので、ただの推測だ。
グリムは、棚から一冊を抜く若者を見て、内心の波を隠した。
「見つかったかね」
彼方は手のなかの本を見て、咳払いを一つ。改まった顔で、微笑みながら差し出す。
「少々、差し出がましい気もしますが。どうしても、これは合うと思ったんです。正直に言うと、この方面の研究には、わりと自信がありまして」
「?」
グリムは、その控えめな物言いに首を傾げ、本を受け取って目を落とした。
彼方も、その視線を追う。表紙には、書名と著者名が刷られている。
――『語り灰』。
――神谷彼方。




