4.ひとりぼっちの老人
雨のなか、セリスは足を止めた。
だが、向かってくる老人は止まらない。
二人は、すれ違う。
セリスは、刃杖を切り替える仕掛けを開く暇さえなかった。開かなかったのではない。近距離から放たれる無形の威圧が、全身を硬直させたのだ。額から冷や汗が伝う。
老人は、黒い古い背広に、紳士帽をかぶっていた。彼女の脇で少し止まり、手のなかの本に意外そうな目を向ける。
「――これは。運のいい小娘だ」
声は嗄れていた。傘の下から覗く顔の半分は、黒く古びた鉄の面で覆われている。露わなのは、蛇めいた暗緑の瞳だけ。
視線は剣の刃のように鋭く、老人らしい濁りが一片もない。
セリスは、余光でその本の題を見た。黒地に赤い紋の一冊――『消え残り』。
老人はすでに彼女を通り過ぎ、灯りの薄い店へ歩いていく。
雨の冷えた湿りが、露出した肌を這い、寒気を運んだ。
「……ふう」
セリスは深く息を吐いた。振り返る。
少しずつ閉じていく店の扉の向こうから、会話が漏れてくる。
「いらっしゃいませ。……あれ、グリムさんだ。返しに来てくれたんですか」
「……君が親愛の印だと言うのは分かったが、どうにも落ち着かない。名前で呼んでくれないか、神谷さん」
「もちろんですよ、グリムさん」
「……ふう。妙に安心するな。また新しい客か」
「そうなんです、グリムさん」
「名前……いや、いい。どうやら気に入ったようだね。よく読んでいた本まで貸して――これが、前回借りた本だ」
「よく読む本も、ただの本ですよ。それに、あの本は彼女に合うと思っただけです。それより、二十日で返しに来るとは。賭けは三十日以内でしたよね。グリムさん、負けです。言ったでしょう、年寄りには向かない本だって。頭が痛くなるだけだと」
「……私の負けだ。すまない。あの本はあまりに深すぎた。まるで、一つの完結した巨大な世界だ。神秘と、魔術的な未知に満ちていて、時空の限界を超えている。生から死まで、誕生から消滅まで。私の浅い理解では、想像も及ばない。これほどの大著を書いた人間は、きっと偉大な人物に違いない」
「ええ。亡くなった巨人です」
「巨人……なるほど」
声は、やがて消えた。
セリスは、自分の手にある本と傘を見た。
店主は、あの明らかに常連の老人と話すとき、ずっと気楽で、冗談めいていた。老人も親しげで、年の離れた旧友のようだった。
だが、先ほどのすれ違いを思い出すと、背中が総毛立つ。
――「黒面の蛇」コルム・グリム。破壊級の黒魔術師。
最大の特徴は、あの面と、リザードマンの血統がもたらした暗緑の蛇瞳。
温和に見えるあの老人は、広く知られた、凶名高き冷徹な処刑人であり、両手を血に染めた屠殺者だ。
かつてクレーフ塔の十人の光輝の大騎士の一人と渡り合い、半径一万キロ近い区域を更地にして、破壊級の称号を手に入れた。
その後、理由は分からないが、表舞台から消えた。
オルデル協会が千七百八十八年に公布した規定により、超凡者は四段階に格付される。四階級格付と呼ばれるものだ。協会は毎年、各階級の登録者の異動名簿を公示する。
――異常級。
――恐慌級。
――破壊級。
――神格級。
グリムの名には「消息不明」と「クレーフ塔懸賞中」の二つの注記が付いたままだが、破壊級から動いたことはない。
ロズモアのグレイスヒルには、破壊級の超凡者が十人もいない。ヴァレニア全土でも、百に満たない。
その、とうに消えたはずの残虐な黒魔術師が、ここにいる?
しかも、あの若い男と友人らしい。
セリスは息を吸い、足早に去った。胸のなかの確信が、ますます強くなる。
(あの店主は、間違いなく強大な魔術師だ)
少なくとも、グリムと同じ破壊級。
(……とんでもない相手に、取り入ってしまった)
――
神谷彼方は、『名を繰り返す家』を棚に戻しながら、振り返った。
「グリムさん、なんだか、浮かない顔ですね」
グリムは、この店の常連だ。
――もっとも、この古びた店には、そもそも客が多くない。数えるほどの常連しか来ないが、丁寧に相手をしてきたおかげで、皆とは深い友誼ができていた。通うのが習慣になった者ばかりだ。
グリムなど、二年前に初めて来てから、今回で五回目の貸出になる。回数だけ見れば少ないが、一回の期間は一か月ほど。二年のうち四か月、つまり六分の一を、彼はこの店に費やしている。
十分な誠意だ。
この店を開いて三年。最初の一年は、ほとんど客が来なかった。だからグリムは、最古参の客と言っていい。同時に、神谷先生が人生相談と心理指導を施す、主要な相手でもある。
――老人、とりわけ独り暮らしの老人は、体も心も不調をきたしやすい。
そしてグリムさんは、典型的な独居老人だった。
彼方の知るかぎり、子供は二人いるが、どちらも彼に冷たい。連れ合いにも去られ、同僚からも疎まれている。その外貌ゆえに怯えられ、この大都市ロズモアに、一人で置かれている。
金には困らない。衣食には事欠かない。だが、精神の生活が、ひどく乏しい。
その欠落は、肉親や友人の気遣いの不在だけではない。もっと大事なもの――承認の不在だ。
グリム自身、言語学の専門家だ。珍しい言葉に深い造詣を持ち、集中力のある、優れた学者だった。
そういう人間は、独りに慣れてしまう。だが、理解者のいない孤独には耐えられない。
だから彼方は、そこを突いた。
初対面では、彼の外貌の欠陥を正面から見据え、尊重することで、最初の好感を得た。売り物の本から身元を推測した。そして、ついでに一冊を勧めた。
『舌の回らぬ頁』――極東の果てに伝わる、最も読めぬ言葉のひとつ。同じ境域のなかで、互いに通じ合わない言葉が十二種もある。戦時には、これを密語に使った。敵には、解けなかった。
彼方は、グリムの目が、気楽な色から、疑いへ、恐怖へ、そして生活の希望を燃やし直した狂喜へ変わっていくのを見た。「悪魔だ、これこそ本物の悪魔だ」と呟くのを聞いて、自分が言葉の売り手であることの意味を噛みしめた。
(ああ、人生指南の喜びとは、かくも地味で、淡々としたものだ)
もちろん、このヴァレニアの地に、極東の国はない。彼方はこの本を、すでに滅びた辺境の遺跡から来たものだと説明するしかなかった。




