3.血噛みの頁
「獣化!」
セリスは危うく椅子から立ち上がりかけた。だが、寸でのところで堪える。
頭のなかの情報は、もともとそこにあったかのように固い。記憶に、がっちりと刻まれている。焼き鏝を当てられたような、熱い痛みまで伴った。
(獣化――血から取り出した力を、血で御す)
セリスは本を握ったまま、まぶたが跳ねるのを感じていた。
(なんだ、これは)
狩人の力は幻獣から来る。穢れの血を主原料とした薬剤を注射し、その一部を手に入れる。深淵を覗き、深淵に変わる者だ。
注射は危険な行為で、初回には死の可能性すらある。それが狩人になるための関門だった。
そして、ある割合を超えた量を注げば、狩人はほどなく感染する。制御できない穢れの血が体内を荒らし、異常現象が起こる。
症状は、おおよそ三段階に分かれる。性格の歪み、正気の蒸発、肉体の異形化。
穢れの血が濃いほど、力は強く、異常も深い。
そして肉体の異形化でもっとも多いのが――獣化だ。
あの獣化は、制御できない。
穢れの血を溜めすぎた老練の狩人は、想像もつかない力を得る。だが同時に、獣化に苛まれ、動くこともできずに苦しむ。
セリスが考えていた「人でなしになる」とは、二度目の注射で力を得て、やり返すことだった。
まさか。この得体の知れない店主が、穢れの血を御す方法を、渡してくるとは。
完全に、制御できる獣化。
古から今まで、狩人も魔術師も解けなかった問題が、だ。
「『罪の数え上げ』……」
体内の血が、服従の悲鳴を上げるのが分かる。セリスの声は震え、掠れた。
「これが、あなたが私にやらせたいことですか」
(狂人だ)
強力な、狂人だ。
この短い一節だけで、狩人という集団が生き延びてきた力の体系を、根底からひっくり返せる。この技が広まれば、穢れの血で築いた今の秩序は崩れる。
それを為す彼女は、古い世界への征伐を起こすのと同じだ。
聖女と呼ばれるか、罪人と呼ばれるか。
その選択も、時代のうねりも、今、この手のなかにある。
死んだ旧世界に、彼女は罪を数え上げなければならない。
呼吸が、少しずつ荒くなる。手のなかの本を見つめる。静かな店内に、その音だけがよく響いた。
神谷彼方は、うつむいて肩を震わせる女を見て、心のなかでため息をついた。
(……ああ、これが失恋した人か)
感傷的だ。強い女に見えても、それは表層にすぎない。脆い殻だ。
ほら、少し慰めて励ましただけで、もう泣きそうになっている。
もちろん、涙は悲しみからだけではない。打ち明けられる相手ができたからでもある。
だが、脆さを吐き出したあとには、自信を呼び戻す一針が要る。「自分ならできる」「何にでも立ち向かえる」「本当の自分を見せていい」――そう思わせるものが。
彼は言った。
「ええ。僕はそれを望みますし、あなたも、そうすべきです。罪の数え上げではなく――自分に、正直になることです」
向かいの若い男は、すでに視線を戻していた。低く呟く。彼女に言うようで、独りごとのようでもある。
「審判の喇叭は、吹きたいときに吹けばいい。僕はこの本を手に、至高の裁き手の前に立つ。そして大声で宣言する――『これが私のしたこと、私の考えたこと、私という人間だ。善も悪も、同じ率直さで告げた』と」
――それは、この本に記された一節だった。
彼は微笑む。
「誰のなかにも、獣のような原始の欲がある。それが本物です。違いますか」
セリスは、はっと顔を上げた。
彼方が自分のカップを持ち上げ、「ちん」と彼女の前のカップに当てる。
「新しい明日に、乾杯しましょう」
――しばらく。
彼女は本を置き、カップを両手で取って、一息に飲み干した。微笑んで、丁寧に頭を下げる。
「ご指導、感謝します。あなたの望むとおりに」
彼方はようやく一口含んで、その飲みっぷりに動作を止めた。口の端が引きつる。
(全部飲んだ)
象徴的に言っただけだ。少しでも温まってほしかっただけだ。しかも、ついさっき茶を足したばかり。あれは、紛れもなく熱湯だ。
どうして目も瞬きせずに飲めるのか。
(……まあ、いいか)
失恋直後で、頭が回っていないのだろう。
彼方はカップを置いて、念のため訊いた。
「病院、要りますか」
セリスは首を振る。
「お心遣い、感謝します。問題ありません」
二人が話しているあいだに、彼女の傷はすでに完全に塞がっていた。これが、穢れの血の力だ。
(そう言うなら、そういうことにしておこう)
本当に火傷なら、こんな風に落ち着いて話せるはずがない。
「もう少し、休みますか」
彼方はカウンターの下から、黒い傘を引っ張り出して、水滴を払った。
「生憎、うちは狭くて。余った場所も、客室もありません。ですから、今夜までなら置いておきます。傘は本と一緒に持って行ってください。返却期限は一か月、最大七日まで延ばせます。そのときは、傘も忘れずに」
この店は、本屋というより書庫に近い。本のほかには、本棚しかない。
「もう少ししたら、出ます」
セリスは傘を受け取り、差し出された貸出帳に名前と情報を書く。そして、慎重に低い声で言った。
「ひとつ、お訊きしてもいいでしょうか。あなたのことを」
……僕を?
(先ほどの言葉は、踏み込みすぎではなかったはずだが。それとも、失恋した女は付け入られやすいのか)
彼方は瞬きして、営業用の微笑みを浮かべた。
「神谷彼方と言います。ただの、普通で、少し人助けが好きな、古店主です」
本を袋に包みながら、彼は帳面に目を落とす。
――セリス・ケイリ。
(……ん?)
アイアンベイの地下資源開発で名を成した富豪、ブリン・ケイリ。その一人娘の名前が、これではなかったか。
彼は自分の記憶には少し自信がある。この名は特徴的だ。間違えるはずがない。
加えて、あの美貌。仕立てたと分かるドレス。
彼方は平静を装って、帳面を戻した。
(……これは、大物だ)
十分に、稼げる。店の改装代くらいは、出るかもしれない。
セリスは、落胆しなかった。それどころか、予想どおりだと感じていた。
相手が素性を明かさないなら、こちらが努力するしかない。一か月の期限が来るまでに、裏切った連中を片づける。
そして、次の助けを求めに来る。
彼女は二歩下がり、片手で傘と本を持ち、杖を脇に挟んで、もう片方の手を胸に当てて礼をした。
「では、ごきげんよう」
彼方は頭を掻いた。さすがは令嬢というべきか。礼が少々、大げさだ。
セリスは息を吐き、恭しく姿勢を戻して、扉へ向かう。押し開け、傘を広げ、雨のなかへ歩き出した。
――と、彼女は杖の仕掛けに手をかけた。全身を再び警戒に切り替え、前方を見据える。
向こうから、傘を差した老人が歩いてきた。背を丸め、雨のなかをゆっくり進む。手には、一冊の本がある。




