2.カウンセリングの達人
神谷彼方は、この店に来る客たちと長年話し込むうちに、相手の様子を読む技術と、いくつかの簡単な話術を身につけていた。
「お困りのようですね」――この一言そのものには、何の意味もない。
インチキ占い師の口上なら、決まって「あなたには死の影が見えます」だ。あれと同じだ。ただの心理的な暗示にすぎない。
あるいは、ゲームに仕込まれたフラグだと思ってもいい。これが立つと、次の会話が始まる。
人は「困りごと」という単語を聞くと、無意識に、最近なにか困ったことがなかったかと考え始める。そして当然、大半の人生は平坦ではない。大きな困りごとも、小さな困りごとも、困りごとは困りごとだ。
客が愚痴をこぼし始めたら、そこからが神谷先生の出番だ。心に効く言葉を流し込み、一気に距離を詰める。
もっとも、この手は必ず失敗するとは限らない、というわけでもない。相手が本当に運だけで生きてきた幸運児だったり、他人に対して極端に警戒心の強い人間だったりすれば、通じないこともある。
だが、今の彼方には確信があった。この相手の口は、必ず開く。
なぜなら、この雨そのものが、目の前の濡れた女にとって、すでに立派な困りごとだからだ。
セリスはタオルで体を拭く手を止め、カウンターの向こうの若い男を見た。落ち着いた、自信に満ちた微笑み。彼女は低い声で答える。
「ええ。ずいぶん、腹立たしい困りごとに見舞われています」
敵か味方か、判別できない。だが、たとえ敵であっても、今の自分は最も弱っている。この得体の知れない相手の前で、無傷で逃げ切れるとは思えない。
ならば、相手が煙に巻きたいのなら、乗ってやればいい。この男が何者で、何を狙っているのか、見せてもらおう。
味方なら、めでたい。敵なら、その分だけ休む時間を稼げる。
女が顔を上げたとき、彼方はようやく気づいた。その瞳は黒くない。深く、年を経た鉄の灰色だ。虹彩に絮のようなものが混じり、磨き上げられた宝石のように見える。
白い耳には、三センチほどの血のように赤い、細長い菱の耳飾り。回るたび、光った。
どの細部をとっても、この客は物語を背負っている。
「人間関係の、お悩みですか?」
彼方は訊いた。この雨について愚痴らなかったのなら、この年頃の女性にもっとも多いのは、感情の問題だ。
もちろん、恋か友情か家族か、と最初から決めつけてはいけない。「人間関係」と言うのだ。
詐欺師と、インチキ占い師と、神谷先生に共通する技術はひとつ。言葉を、できるだけ曖昧にすること。自分にも相手にも、逃げ道を残しておくことだ。
セリスの胸が沈む。
二十分前。狩人の秘密拠点で起きたのは、ほかでもない、彼女を狙った裏切りだった。いま追ってくるのは、かつての同僚であり、仲間だった。
貪欲が、彼らの目を覆っている。
言い換えれば、これを人間関係の困りごと、と捉えても間違いではない。
そして、その出来事が、わずか二十分で外部に知られていた。事後に知ったのでは、出ない速さだ。
ならば可能性は二つ。
ひとつ、狩人のなかに内通者がいて、事前に通報していた。
ひとつ、目の前の若い男が、すべてを把握している。
セリスはタオルに滲む暗赤色の泡と、酸のような白煙を見て、少し黙った。うなずいて腰を下ろす。カップの取っ手に指をかけ、軽く叩いた。
「裏切られました」
「……おや」
神谷彼方は眉を上げた。少し意外だ。
(そんなに激しい話か)
恋人が他に移ったのか。それとも、友情が音を立てて崩れたのか。
だが神谷先生は、人生指南を商う男であって、噂話に目を輝かせる世間話好きではない。激しい話ほど、腕の見せどころだ。
「物事には必ず両面があります。裏切られたのは事実でしょう。でも、人を見る目が手に入ったとも言えます」
彼は急須から茶を足しながら、静かな声で言った。
「残る人も、去る人も、結局は去ります。去りたい人間は、理由を千も用意するものですから」
――そのとおりだった。
貪りの胚は、彼らの欲を煽った火種にすぎない。幻獣が心に囁いたからではなくとも、いつか同じ芝居は幕を開けた。違うのは、理由だけだ。
セリスはカップの縁を撫でて、自嘲するように笑った。
「あなたの言うとおりです。でも、今回の裏切りで、私は多くを失って、酷い傷も負いました。今さら見えたところで、何になるんですか」
多くを失い、酷い傷を負った……。恋を失い、心を傷つけたのか。
(……気の毒に)
彼方の胸に、憐れみが湧く。どうやら、ひどい男に当たった不運な人らしい。体の傷は治せる。だが、心の傷はそうはいかない。
そして、こういうときこそ、彼のような話術の専門家の出番なのだ。
彼方は両手を顎の下に組んで、相手をまっすぐ見た。否定を許さない声音で言う。
「もちろん、意味はあります。あなたは今、本物の顔と、偽物の心を知った。だからもう、あなたを傷つけた人間に、情けをかけることはない。たとえかつて親しい人であっても、傷を思い出せば、彼らは許されざる悪魔です」
――言い切った。
セリスは、黒く染まったような相手の瞳を見て、息を呑む。暖かな灯りの下で、その目は深淵のような力を持つように見えた。三分の慈悲と、七分の冷たさ。世界を慈しみながら、しかし高みから見下ろす神のように。
人を惑わすみたいに。
セリスは我に返る。心の中で激しく首を振り、意識を立て直した。
相手が自分を見つけたのだ。狙いがあることは間違いない。だがどうやら敵ではなく――むしろ、自分を利用して、狩人たちに何かを仕掛けたいように見える。
幻獣から採った穢れの血を力とする狩人は、正統な魔術師たちから、悪魔の類と呼ばれることもある。そう考えると、相手は先ほど想像した三つの勢力のどれでもなく、狩人を憎む高階の魔術師かもしれない。
――言葉と文字の力を生まれながらに握る、暴徒どもだ。
「では、訊きます」
セリスは気を引き締め、深呼吸して言った。
「私は、どうすればいいんでしょう」
「向こうが人でなしなら、こちらも同じことをしてやり返せばいい。目には目を、牙には牙を」
彼方は低く言った。
彼が売るのは、心を麻痺させるだけの甘い言葉ではない。それでは数言で飽きられ、常連は定着しない。
ひどい男には、痛撃を。そして、この手の意思の強そうな女性は、今の落ち込みなど一時の迷いにすぎない。導いてやれば、動き出す。
「……なるほど。魔術師の性格だ」
セリスはテーブルの下で、もう片方の手を開いた。血に濡れている。唇が微かに動く。
(人でなし、か)
まだ、そこまでの覚悟はない。
「ですが、その前に。自分の考えと目的を、まずはっきりさせて、準備をしてください」
彼方は余裕のある目で、女が物思いに沈むのを見て、微笑んだ。
「あなたには、この本が要ると思います」
ここで、彼方の中の本音が顔を出す。販売だ。
とはいえ、この場で後ろの棚から直に抜くのは露骨すぎる。だから彼は、自分が読んでいた本を差し出した。
セリスは、戸惑いながら受け取る。
だが、表紙に書かれた文字は――『血噛みの頁』。
(……?)
さっきまで男が読んでいたのは、別の本だったはずだ。それに、この書名は見たことがない。聞いたこともない。
冷たい作家の本だろうか。なぜ、これを自分に。
セリスは眉をひそめて開き――瞳孔が、跳ね上がった。血の気が引く。
ページの上に、びっしりと古い文字が並んでいる。その文字は蠢き、組み替わり、ひとときも同じ形を留めない。それなのに、意味は読めてしまう。毎瞬ごとに、千の異なる言葉が立ち上がる。
これが――禁忌知識。
狩人は顔を蒼白にして、全身を震わせた。このなかに含まれる知識は、あまりに恐ろしく、吐き気を催す。
彼女はすぐに本を閉じ、荒くなる息を押し殺した。
だが、恐怖に冷えた頭のなかには、もう焼きついてしまっていた。
――「獣化」。




