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1.いらっしゃいませ

古い木の扉を押すと、蝶番が軋んだ。同時に、銅の鈴が「ちん」と低く鳴る。


それから、ざあっ。


扉の上に溜まっていた水が、いっぺんに落ちてきた。嵌め込まれたガラス窓を伝って、埃の筋が幾本も引かれる。


僕は半歩引いた。……遅かったけど。


黒いシャツ。黒いズボン。今日もいつも通り、上下とも黒一色。その上から冷水を浴びせられたようなものだ。


「よく降るなあ」


見上げた空は、低い灰色。昨晩から降り続いている。


隣の店から、テレビの音が漏れてきた。


「……気象台は、今回の大雨が一週間ほど続く見込みだと発表しました。大雨警報が発令されており、今後、特別警報に引き上げられる可能性も――」


音はすぐ、雨に飲み込まれた。


一週間、か。


そんな天気では、本屋に客は来ない。一日じゅう、誰も来ないかもしれない。


(店を開けるより、寝ていたほうがいい。普通は、そう考える)


僕は扉の陰から、三角の脚立と板を引っ張り出した。店の前に据えて、簡易の階段にする。それから、扉に掛けた札を「営業中」へひっくり返した。


貸出棚から一冊抜き取る。暖色の灯りを点ける。カウンターにタオルを一枚掛けて、熱い紅茶を二つ淹れた。


椅子に腰を下ろし、ページを前回の続きまで開く。そして片方のカップを、向かいへ押しやった。見ず知らずの友人に差し出すみたいに。


これで、本がある。熱い茶もある。


迷い込んだ誰かの、心と体を温めるには足りるだろう。


紅茶を一口。僕は笑った。


そう、僕はそういう人間なのだ。善良で、ロマンチストで。どこにでもいる普通の男だけど、常連さんのあいだでは有名な、お人好しの人生指南役。専門は――心に効く言葉の販売だ。


人生には、期待を持たなくちゃ。そうだろう?


――そのときだった。


「ぐちゃ」


雨の向こうで、骨の砕ける音がした。


――


「ぐちゃ」


セリスは、腕の中の男の首をひねった。振り向きざまに長刃を引き抜き、もう一人の首を落とす。


「ごとり」


転がる頭。目は見開いたまま。


両側へ死体を押しやり、路地を出る。背後では、数十の死体が積み重なったまま炭化し、火の粉を散らして灰になっていった。雨中の市街戦が、終わったのだ。


濡れた黒いドレスの隙間から血が滲む。滴り、酸のような白煙を立て、雨に洗われて消える。


体温が上がっていく。肉が蠢いて、折れた肋骨の本数が手に取るように分かった。


(……問題はない)


穢れの血を注射した狩人にとって、この程度の傷は一時間で塞がる。


「時間が、要る」


顔を上げる。


雨の幕の向こう。前方の一軒だけが、淡く光っていた。ガラス窓の内側に、本棚の列が見える。


それ以外は、どこも暗い。


これだけの雨だ。これだけの店並みだ。


開いているのは、あの一軒だけ。扉には「営業中」の札。足元には簡易の階段。周囲から浮いている。


しかも。


この路地の、ちょうど正面にある。


(偶然か、罠か)


見分けている時間はない。グレイヴハウンドの連中は鼻がいい。雨の中でも、血の匂いは嗅ぎつける。この海のような雨のなかを、鮫みたいに泳いでくる。


隠れられるだけの時間を、稼がなければ。


「しゃん」


手のなかの長刃が折れ、脊椎めいた刃が次々と内側へ巻き取られていく。瞬きのあいだに、表面の黒い金属杖になった。


雨は、まだ降っている。


セリスは扉を押した。


――店内は、静かだった。


杖が床を叩く音と同時に、彼女は店主を見つける。カウンターの後ろで本を読んでいたのは、若い男だ。


シャツ。ズボン。どちらも黒。黒い髪は少しだけ乱れ、肌は白い。節の通った長い指が、カップを持ち上げて、ページを繰る。


カウンターの上にも、カップが一つ。白い湯気が立っている。


丸椅子には、誰も座っていない。


それなのにセリスは、その茶と、その席が、自分のために用意されたものだと、なぜか思った。


店内を見回す。


狭い。詰まっている。棚は本で埋まり、床にも積んだ。二階への階段は半分ふさがれ、窓は埃をかぶって翳っていた。


唯一の光源に照らされたカウンターと、その若い男だけが、闇のなかで言いようのない神秘を帯びている。しかもカウンターには、タオルまで掛かっている。


「ぽつ。ぽつ」


彼女の体から、実際に水が落ちていた。ずぶ濡れだ。黒い髪が首に貼りつき、ドレスの胸元から白い肌が覗く。


「いらっしゃいませ」


神谷彼方は顔を上げた。黒い瞳に、暖かな灯りが映り込む。


微笑みながら、カウンターの熱い茶を彼女へ押し出した。


「ずいぶん待った甲斐がありました。雨のなかを、こんな綺麗な客が来てくれるなんて」


客を褒めるのは、店員の嗜みだ。


それに、これは嘘ではなかった。雨に濡れていても、灯りに照らされた顔は完璧だった。象牙めいた肌は滑らかで、丁寧に彫られた古い石像のようだ。


(待った甲斐があった)


この客は、話を聞いてほしそうな顔をしている。今日は新しい友人と、それから――常連が、一人増えるかもしれない。


(ああ、これは商人の了見なんかじゃない。善意の気遣いだ)


セリスはカウンターの茶を見て、瞳孔を縮めた。


「ずいぶん待った」――つまりこの店主は、知っていて待ち伏せしていたのか。


それとも、別の狙いか。


いや、どうであれ。ここまで奇妙な店、正確すぎる間合い、落ち着き払ったこの態度。ただの本屋のはずがない。


クレーフ塔か。オルデル協会か。あるいはソーン・コヴェンの招かれ人か。


(どれでも、いい。ただの本屋ではない)


警戒が湧く。彼女は杖の仕掛けを静かに回した。相手が動けば、いつでも殺人の刃になって、この男の眼窩を貫く。


「……僕を、待っていた?」


狩人は表情を変えずに探る。


神谷彼方は、善意の笑みを返した。


「ええ。運命って時々、不思議だと思うんです。赤の他人だった二人を、出会わせてしまうんですから」


カウンターを指す。


「タオルはそこに掛けてあります。新品ですから、体を拭いてください。暖房は要りますか」


セリスは迷いながらタオルを取り、首を振った。


「要りません」


神谷彼方は彼女をよく見た。眉をひそめている。


(この様子だと――)


これまでの経験から、彼は相手の困りごとを推測する。そして、軽く咳払いをした。


「どうも、お困りのようですね?」

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