26.松葉を衣に、雪を冠に
ブライスの冷徹な表情が、ようやく裂けた。目に驚きが走る。次の瞬間には、銀狼に押し倒され、肩胛骨を裂かれていた。
彼は袖から短剣を抜き、銀狼の眼窩に思い切り突き刺す。筋肉を張り、血肉を万力のようにして、一瞬だけ狼の爪を食い止めた。低く叫ぶ。
「エイラ」
気浪に押しやられた若い男は二度転がり、体勢を立て直す。額から血が流れるが、目は鋭い。
「眩暈術。閃光術」
施法の仕方だけで分かる。死んだ三人の魔術師より、はるかに高い。
黒の魔術師の言語の力は、天賦の高さと霊感の強さで決まる。そして、借りる言語が精錬され、簡単なほど、その魔術師の造詣は深い。
グリムの師――神格級に近い黒の魔術師は、最もありふれた言葉で一つの術を完成させる。
「吼」
セリスはうめき、脳が否応なく混乱の渦に巻き込まれる。視界は、さらに刺すような白光に覆われた。
エイラは、グリムの弟子として戦いに千錘百錬されており、最良の援護をこなした。
ブライスは手首をひねり、銀狼の前脚を折る。短剣を抜き、翻身して、巨大な狼を地面に叩きつけた。
「くそ」
セリスは天地が回るのを感じ、背骨が砕けるかと思った。動けない危険が、全身を覆う。
「鋼の意志」
彼女は低く唱えた。
上空で彼女に従っていた、章魚のような精神体が、無数の触手で眼と耳と口と鼻を覆い、負の状態を一気に吸い取る。
セリスの意識が、はっきりと戻る。血で滲む視界に、一点の冷たい光が急速に近づく。
全身の毛が逆立った。彼女は最速で口を開き、少し角度をつけ、突き下ろされる短剣を噛む。
「――嗤」
剣刃が腮を貫き、歯と筋肉に完全に固定される。
セリスの冷たい縦瞳に、殺意が満ちる。彼女は首を振り、相手の腕を引き千切り、巨大な体を一回転させてブライスの上を碾いた。骨のずれる、耳障りな音が鳴る。
彼女は爪で相手の躯を掴み、左右に引き裂こうとする。
「炎呪・朽ちる日」
十分な準備の時を得たエイラが、ようやく高速の詠唱を終えた。
セリスの背後に、眩い太陽の虚影が浮かぶ。蠢き、歪む光のなかに、濁った闇が翻り、恐ろしいエネルギーが醸されている。今にも膨れ上がり、爆発しそうだ。
見ているだけで、吐き気がする。
(危険。極度の危険。逃げろ)
セリスの脳裏に、その言葉が走る。そして、彼女は即座に、再度の強行跳躍を選んだ。
耐えきれぬ体は、跳躍の過程で、ほとんど完全に変形する。
「ぱたり」
自分がどこへ落ちたのかも、分からない。
「はあ……はあ……」
エイラは大きく息をつき、手を振ってこの腐りの日を結界のなかへ投げ入れ、地面に崩れ落ちて訊いた。
「ブライスさん……ご無事ですか」
エイラは立ち上がり、前方を見て、肝を冷やす。
地面に横たわる霜牙の頭領ブライスは、全身が血に覆われている。片腕が外れ、見るからに瀕死だ。
「問題ない」
意外なことに、男の声は依然として平静だった。
彼はよろよろと立ち上がる。血肉が高速で成長し、新しい腕を生む。
だが、もっと恐ろしいのは、その腕の下の傷口から、また一本の腕が生えてきたことだ。
ブライスは一瞥し、手を伸ばしてその余分な腕を引きちぎった。
これが、高濃度の穢れの血を注入した者の、正常な症状――肉体の異形化だ。
定期的に自分の体を「清理」しなければ、やがて全身に腕や眼球が生えた怪物になる。
「どうやら、あの二十三番街の住人は、我々の想像より強力らしい」
「時空を跳ぶ力のことですか」
「いや」
ブライスは首を振った。
「私が言っているのは、ローリーの魂で彼の情報網を受け取り、我々の位置を正確に掴んだこと。そして、お前の精神系の術を消したことだ。私はそちらの力に、興味がある」
しばらくして、彼は全身を雨に濡らし、結界のなかの、エイラの腐りの日に大半を破壊された区域を遠く眺めた。
「残念だが、今はもっと優先すべきことがある。行って見てこい、エイラ。彼は、グリムよりも重要だ」
「はい」
エイラはうなずく。
ブライスは手のひらを返し、宝石のように透き通った卵を取り出した。陶酔した顔で、静かに言う。
「エイラ。これから、何が孵ると思う」
「……幻獣」
「いや。神だ。本物の神が」
――
彼方は、書店の扉を閉め、錠を下ろし、差し錠をかけた。
それから、すべての本棚を一度確認する。帳面と会計簿を片づける。
ようやく満足して、グリムから貰った夢濾しの網を持ち、二階へ上がって寝ようとする。
二階は一階と、間取りが大きく違う。一階は詰め込まれた本棚だが、二階には生活の設備がすべてある。便所、台所、寝室、それから体を鍛えるための小さな一角も。
長年、店に籠もって出ないので、彼は自分に、一週間単位の鍛錬表を作らざるを得なかった。強度は高くないが、さすがに本当の怠け者にはなりたくない。
今は連日の大雨で、天井から少し漏れ、二階全体に、かすかな湿りがある。
(しまった。石灰のような乾燥剤を、蓄えておくのを忘れていた)
彼方は思った。
(まあ、雨が止んだら、買いに出よう)
彼方は寝室の扉を開ける。狭い空間に、寝台と、机と、椅子が一脚だけ。机の上は、各種の紙の研究資料で埋まっている。この二年、ロズモアの暮らしに溶け込むために、彼がしてきた小さな調査だ。
彼は釘と槌を探し、壁に簡単な固定点を作る。それから、羽根の垂れる美しい夢濾しの網を、壁に掛けた。ちょうど、枕の真上だ。
横になれば、網の羽根の先端が、ちょうど彼の目に向く。
彼方は道具を戻し、背を伸ばし、服を脱ぎ、明かりを消し、寝台に倒れて布団をかける。
揺れ、軽く漂う羽根を見上げる。
「本当に効くといいな……良い夢を」
彼方は目を閉じる。闇が、潮のように押し寄せる。
――
夢だろうか。
彼方は瞬きをして、目の前に広がる白い世界を、ぼんやり見る。細かな雪が降り、額が冷たい。
顔を上げると、巨大な緑の樹が枝を茂らせ、白雪をかぶっていた。絡み合う幹は血管のようで、樹冠は天を覆うばかりだ。
あたりには、揺れる白いアイリスが、一面に咲いている。風が吹けば、ざわざわと鳴る。
樹の下に、目を閉じた銀髪の女がいる。
銀の月、あるいは夜の雪のような美貌。白い薄絹が体をぼんやり覆い、花叢から覗く一截の脚は、雪のように白く、繊細で、その線はほとんど完璧だった。
彼方は、どこかで読んだ一言を、ふと思い出す。
――希寒の北国に王として冠せられ、
松葉を衣に、雪を冠に。




