25.空庭の狼
「ばん」
高く尖った建物が、吹き飛んだ体に横から砕かれる。
無数の石が飛び散るなか、その影は素早く空中で姿勢を整え、最も近い建物へ落ちていった。
「くそ。連中に魔術師がいる」
シェイマスは、宙に浮く管の縁に間一髪で掴まり、体勢を立て直し、セリスへ叫ぶ。
「使い魔に気をつけて」
紫の光が瞬き、呪文を唱える声が重なる。
「――しゅる」
巨大な大蛇が背の翼膜を張り、下から一気に躍り出た。血のように赤い口を開き、凄まじい牙を剥いて、噛みついてくる。
速さは、驚異的だった。
セリスの瞳孔が縮む。彼女は手のなかの刃杖を捨て、回転する剣刃が、がり、と横の壁に突き刺さる。
「吼」
大蛇の、汽灯ほどもある昏い目が、血に飢え、狂った光を帯びて、狩人へ向けて噛み下ろす。
上下の歯が閉じかけて――止まった。
銀色の毛に覆われた、鎌のような爪が、蛇の上顎を掴んでいる。刃のような爪が、蛇の皮膚に血の溝を刻む。
続けてもう一方の爪が、蛇の下顎をこじ開ける。
上下に同時に力を込めると、大蛇の口角が裂けていく。蛇は怯えて暴れ、体をくねらせたが、何の意味もない。悲鳴を上げ、真ん中から二つに引き裂かれた。
「――ぷっ」
血と内臓が噴き出す。滝のように、壁を赤く染めた。
「何だと」
使い魔を呼び出した魔術師は、その反動を受け、殴られたように二歩下がった。顔が白くなる。目には、驚愕の色。
「ありえない。この程度の獣化で、正気を保てるはずがない。くそ。噂は本当だったのか。ブライスは知っていて、我々に告げなかった。奴は、我々を利用している」
「今、気づいても仕方ない。もう戦場だ」
傍らの魔術師が焦った声で言う。
「慌てるな。空庭の狼の血は、火を恐れる」
「だが、今は雨だ」
「構うものか。硝石と硫黄を用意しろ。落ち着け、奴も恐慌級にすぎない。我々なら勝てる」
「……吼」
尖塔の上。両の爪を血に染めた銀狼は、小山ほどに巨大だ。後肢を壁に力強くかけ、全身の毛が、生きているように揺れている。目は稲妻のようだ。少し掠れた女の声が、口から出る。
「……自ら死にに来たな」
離れた場所で、シェイマスが幾度か跳び、地面に降りる。彼女は上方の、美しく危険な、たくましい銀狼を見上げ、少し興奮した様子で呟く。
「……お嬢様」
セリスには、もう人としての特徴が一片もない。完全に獣化の状態だ。
もし彼女が言葉を話せず、目が澄んでいなければ、どの狩人が見ても、これは強大な幻獣だ。
狩人にとって、これこそ望みうる力。
(お嬢様はきっと、狩人に新しい世界をもたらす)
だが、そのすべてをもたらした、お嬢様を助けた男は、二十三番街の住人は、いったい誰なのか。
彼の目的は、何なのか。
「考えるな」
タディの声がした。背後からシェイマスの肩を叩く。
「我々は従い、栄光を分け合えばいい」
シェイマスは長く息を吐き、五指を黒く染める。毒の鱗粉が散った。
「そうだな。行こう。戦いはまだ続く」
二人は魔術師たちのいる区域へ高速で移動し、二条の残像を引いた。
魔術師たちは、硫黄と硝石を手に、火の呪文を唱える。
「炎呪・活火」
彼らの背後で、虚空のエーテルが凝縮し、大量の火元素になる。白い小球が、炎の矢となり、半空を渡り、セリスへ襲いかかる。
銀狼は嘶き、跳び上がって密集する矢を避け、四肢で駆け出す。一部の矢が彼女と地面に落ち、次々と爆発し、よろめかせ、毛を焼いた。外れた火元素は、周囲の建物をすべて融かす。温度の高さが分かる。
セリスは激痛に低く吼え、焦げた傷がほどなく蠢いて癒える。彼女は疾走を続け、建物をなぎ倒し、土煙で姿を隠す。
(今回ブライスが雇った魔術師たちは、弱くない)
三人とも、恐慌級の精鋭の魔術師だ。
誰が知るだろう。狩人を軽蔑してきた魔術師が、狩人と組むとは。
神谷さんからの贈り物と導きがなければ、今回、自分は間違いなく死んでいた。
ブライス・モイランは、さすがは大組織の頭領だ。第二首領のドーナルを後ろから刺し、魔術師と組み、自分は終始、幕の後ろに隠れている。
(だが、構わない)
虚空のなかで、「鋼の意志」が頭上に浮かび、すでに区域全体を覆っている。
彼女は、ブライスの位置を掴んでいた。
魔術師たちの二度目の詠唱が、終わりに近づく。歪んだ巨大な炎の虚影が、定まらない形を変え、最後に螺旋状の、三メートルの槍になった。
「炎呪・クトゥグアの矛」
「――ひゅ」
白い焔を纏った矛が、恐ろしい気勢で放たれる。音の壁が破れる音が響き、大量の雨を蒸発させ、霧を作る。
シェイマスとタディがちょうどこのとき、背後から奇襲に成功した。魔術師は近接戦に何の利もなく、瞬きのうちに殺される。だが二人が振り返ると、あの矛が巨大な銀狼の体に突き刺さり、直後に爆発した。
「どうっ」
「お嬢様」
――
ブライスは、幻術の結界に覆われた街区を見下ろしていた。雨のなかで、火が光っている。
爆発の音は結界を通り、歪んだ雷鳴となって、この大雨に混じる。誰の注意も引かない。
今日のような大小の戦いは、すでにロズモアで数十度起きている。
大雨が、あの猩紅の血をすべて洗い流す。戦いの巻き添えで壊れた建物は、すべて、この特大の豪雨のせいになる。
彼は両手をポケットに入れている。成熟した中年の男だ。両鬢が少し白く、深い法令線が、冷徹で厳格な印象を与える。背後で、若い男が黒い傘を差している。
「エイラ。誰かが、あの女を助けている」
ブライスは呟く。
「ロズモアに、こんな者がいるとは知らなかった。獣化を制御する……グリムでもできなかったことだ」
「はい」
傘を差す若い男が答える。
「グリムには、会ったか」
「いいえ」
「会ってやれ。何しろ、まだお前の師だ。クレーフ塔の者が言うには、彼も二十三番街に現れたらしい。何か、手がかりがあるかもしれん」
「はい」
「それと……」
ブライスが話の半ばで――
「吼」
エーテルが猛然と半空に裂け目を裂き、銀狼の、低く吼える歪んだ姿が、そこから躍り出た。速さは、残像しか残らない。背の鬣が、旗のように揺れる。
セリスだ。
空庭の狼の血が、彼女の体内で沸騰している。高度な獣化は、幻獣の特性を与える。
そして空庭の狼は、名高い、時空を渡る者。
「鋼の意志」が与える一定の予知能力。彼女は矛に刺された瞬間、定められた座標へ跳んでいたのだ。




