24.夢濾しの網
「今日も、良い人助けができた」
彼方は呟いて、カウンターの後ろに戻った。
この社会に、彼のように熱心で善良な人間は、もう多くない。
隣の店主が、毎日テレビの前に寝転がって、碌に何もせず、不平ばかり言う怠け者だと、彼は知っている。
こんな人間を助けるのは無駄では、と思う者もいるだろう。
だが、物事は長い目で見なければならない。店の看板は、細かなところから作るものだ。
彼がこれまで多くの忠実な客を得られたのは、察しの良い心の導きで、彼らと友になり、それを積み重ねてきたからだ。
そして隣の音響店は、彼にとって重要な客の供給源でもある。
比較があってこそ、認識は深くなる。
たとえば、誰かが彼に訊いて、彼の口から隣の店主がお人好しだと聞けば、この店主も良い人間だと思うだろう。ふと、寄ってみようかという気にもなるかもしれない。
(ああ、隣の店主が、この心遣いに気づいて、客を少し呼び込んでくれるといいのだが)
「ちん」
扉の鈴が鳴った。ざあざあという雨音が、一瞬入って、また遮られる。
彼方は顔を上げ、はっとして、少し驚いた笑みを浮かべた。
「グリムさん。今回は、ずいぶん早いですね」
来たのは、グリムだった。
今回も背広だが、少しゆったりした短い外套を羽織っている。手首がちょうど隠れる長さだ。
彼方は、グリムの着こなしをいつも良いと思っている。英倫の老紳士の風格があり、今回はさらに神秘的な雰囲気がある。
グリムはまず帽子を脱いで軽く腰を折り、それから歩み寄ってカウンターの前に座り、あの本を出した。興奮した声で言う。
「ご厚意に感謝します。非常に大きな進展がありました。全身が霊感に満ちている。近いうちに、正式に突破できると信じています」
彼は、神格級まであと一歩だと感じている。遠いことは変わらないが、もう手の届かぬ遠さではない。
己の魂の概念を昇華し、自分だけの言語を見つけられれば。
彼方は手を叩いて励ました。
「現段階を突破するのは、容易なことではありません。先に祝っておきます。まだ助けが要るなら、尽力しますよ」
グリムは本を机に置き、心から言った。
「厚く感謝します。あなたの著作には、計り知れないものを得ました。ですが今回は、私が正式に感謝を表す番です」
前回、彼はガーゴイルを彼方に贈った。
だが、彼方が与えた助けに比べれば、あのガーゴイルの値打ちは取るに足らない。
だから、彼は二年かけて用意した贈り物を捧げる。それは同時に、彼が二年間、姿を消していた理由でもあった。
この贈り物の値打ちだけが、この二年で受けた恩に釣り合う。
彼は残虐な黒の魔術師だが、己の原則と信義を持っている。徳には徳を返すのも、彼の譲れぬところだ。
彼方は、机の上のガーゴイルを一瞥して言った。
「前回の贈り物で、私はもう十分満足しています。今回、あまりに高価なものを贈るというなら、受け取る前に、よく考えさせてください」
グリムは、神谷さんがまた慰めているのだと分かる。
「満足」などと。両者の値打ちは、桁違いだ。それなのに、彼方は常に謙虚な態度を保ち、彼の気持ちを気遣う。
(神谷さんは、真の強者だ)
「迷う必要はありません。これは私にとって、実用上の価値はほとんどない。ですが、あなたにとっては、より大きな役割があるかもしれません」
グリムは主張する。
「受け取ってもらえないと、心が収まりません」
そこまで言われては、彼方も断れない。
「そこまで言うなら、いったい何を用意したのか、先に見せてください」
グリムは興奮した様子で、深く息を吸い、外套から、風鈴のような飾りを、慎重に、ゆっくりと取り出した。
本体は、枝を撚り合わせた輪。珠の付いた糸が幾本も中央に走り、複雑で、幾何学的な美しさの網を編んでいる。網の最も中央には空洞が残され、幽かな青い不規則な宝石が飾られている。下方には、軽く美しい羽根が下がっていた。
「夢濾しの網ですか」
彼方は眉を上げた。グリムの贈り物がこれとは、思わなかった。
民俗学の博士課程にいた彼は、自分の故郷の民俗だけを研究していたわけではない。研究で最も大事なのは、広く引証することだ。だから、他の国や文明の民俗にも、多少の知識がある。
夢濾しの網は、先住民の文化の象徴だ。
先住民は、夜の空気は夢に満ちていると信じた。悪夢を濾し、良い夢だけを捕らえるのは、この網だけだ。
良い夢だけが網の中央の空洞を通り、羽根を伝って流れ落ちる。悪夢は網に捕らえられ、朝日とともに消える。
また、網の珠は、人が眠っているあいだに捕らえた力と智慧で、霊界との対話を強めるとも言われる。
つまりは、神秘に満ちた祝福だ。
この世界にも似たものがあるとは、思わなかった。
「まことに、博識でいらっしゃる」
グリムは、いつものように彼方を讃え、手のなかの網を少し持ち上げた。
「ご明察。まさに、夢濾しの網です」
彼は、彼方がこれを知っていることに驚かない。夢濾しの網は、施法の道具として、よくあるものではないが、さほど珍しくもない。少なくとも、破壊級の黒の魔術師の目には。
まして、この品の最大の価値は、品そのものではない。
網のなかの、あの夢だ。
彼方も、正しい手作りと思われる夢濾しの網を、初めて見た。
店で売っているものは、量産の飾りだ。派手だが、工芸上の価値はない。
グリムの手にあるこれは、明らかに手編みだ。それに、このところの大雨で店内はひどく湿り、彼の睡眠は確かに良くない。
(グリムさんの、この祝福は、心がこもっている)
(礼は軽くとも、情は重い。これこそ真の友だ)
彼方は心から感動し、立ち上がり、手を伸ばしてグリムから網を受け取り、深く感嘆した。
「まさに、私に必要なものだ。グリムさん、ありがとう」
グリムは肩の荷が下りたように、興奮した表情を浮かべ、震えを押し隠して微笑んだ。
「あなたに必要とされることこそ、私の光栄です」
この網には、比類ない存在の美しい夢が捕らえられている。だが同時に、恐ろしい危険も宿している。神格級の精神力がなければ、入れない。入れても、瞬時に魂を碾かれかねない。
だが、高位の存在にとっては、得がたい悦楽に違いない。
「良い夢を」




