23.ブレーカーはどこだ
「……今回の大雨は、赤色警報に引き上げられました。ロズモアのアイアンベイは通道を一時閉鎖。グレイスヒルの交通はほぼ麻痺し、多くの産業が深刻な打撃を受けています。基幹施設の損壊も甚大です」
「現在、下水網は最大効率で稼働し、浸水はやや緩和しました。ですが専門家の予測によれば、これも焼け石に水です。大雨がさらに一週間続けば、ロズモアの三分の一が水没する可能性があります」
「クアーリ鉱業は、アイアンベイを利用した、より完全で有効な下水網の建設を提案しました。これは極めて巨大な事業となるため、社会各界に呼びかけ、オーヴァル区の支援を求めています」
「専門家の分析によれば、今回の大雨の主因は、北嶺からの寒気団……」
彼方は、隣の店のテレビから流れるニュースを聞きながら、モップで床の水を必死に拭っていた。
この大雨は、もう一週間近く続いている。
ニュースのとおり、昨日までは最も酷いときで、路面の水が三十センチを超えた。交通が完全に麻痺したわけではない。カヤックのような水上の乗り物が使える。水面は一時、外から店内へも流れ込んだ。
朝、起きて階下へ降りると、水が扉の隙間から入り、木の葉などを運んでいた。彼方は一瞬、引っ越しかと思った。
だが幸い、そこまで酷くはなかった。下水網が完全に稼働してから、外の水位は上がっていない。ただ、流れてきたビニール袋などが入口を塞ぎ、それで水が入ったのだ。
「ざあっ」
彼方は最後の水を扉から押し出し、腰を伸ばして息を吐いた。
「よし。疲れるなあ」
モップを脇に置き、きれいになった床を見て満足する。
「あの黒猫は、家を見つけたかな。こんな天気だ。外をうろつくのは危険すぎる」
彼方は、ハルムートが来た日、扉の外を走り去った黒猫を思い出した。生来の善良さから、彼は心配そうにため息をつく。
隣のテレビの音が、ふと止まった。続いて、罵声と、ばたばたと叩く音。
彼方には、隣の店主がどれほど苛立っているか、手に取るように分かる。
「何か、お手伝いしましょうか」
彼方は、隣に一番近い壁へ歩いていき、咳払いをして訊いた。
この書店の隣は、音響店だ。中古の記録盤やデジタル機器を売っている。品質は、かなり怪しい。商売の盛況ぶりは、この古書店とどっこいどっこいで、一日平均の客数は零点二人に達する。
「いいえ、結構です」
隣から店主の声がした。続けて、二度、苛立った叩く音。
「ばん、ばん」
カール・コリンは、怒りに燃えて目の前のテレビを睨み、低く呪った。
「ちくしょう……この忌々しいテレビ。忌々しい雨の日。神様、誰か助けてくれ」
彼はテレビを一通り調べ、本体の問題ではないと分かった。ならば、回線か電源の問題だ。回線も調べたが、異常はない。
「なら、ブレーカーが落ちたんだ。だが、今は入口がほぼ水没していて、ブレーカーは外にある……」
音響店は、書店より地盤が低い。水に足を踏み入れると考えただけで、コリンは顔をしかめる。下水管を設計した連中に、一人一発、レンチを振り回してやりたい気分だ。
(待てよ。隣のあいつなら、手を貸してくれるかもしれない)
先ほどは、羞恥と矜持から隣の店主の申し出を断った。だが、隣のあいつがお人好しなのは知っている。頼めば、まず間違いなく手を貸す。
「ええと、ごほん。あの、まだいますか」
コリンが声をかける。
隣から、予想どおり、あの若者の返事が来た。
「いますよ。何かお困りですか」
(やはり)
コリンは自分のテレビを見て言う。
「実はですね、聞こえていたでしょうが、私のテレビが不調で。おそらく外のブレーカーが落ちたのだと思います。今、手が離せないので、見てきてもらえますか」
隣のあいつは、人助けが好きだ。これくらいの頼みは、何でもない。それに、このテレビは毎日ニュースを流している。タダで聞かせてやっているようなものだ。
彼方は、もちろん構わない。実際、暇を持て余していて、何かしたいと思っていた。
「いいですよ。ブレーカーなら、確か」
彼方は外へ出ようとして――
ふと、扉に、黒い、ぼやけた人影が映った。ガラスの枠のなかに、黒く塗り潰された肖像のように。
あの、以心伝心の感覚が、また現れた。
「ああ、あなたか。来ていたんですね」
彼方は少し驚いた。数日ぶりに、この黒幕がまた現れたのだ。
「何か用ですか。それとも、早く本を貸せと催促に」
扉の黒い影は、首を振り、指を左へ向けた。
彼方は振り向く。そこは音響店の方角だ。文脈から推測する。
「つまり、手伝ってくれる、と」
影はうなずいた。
彼方は思わず笑む。
(なんだか、この黒幕は案外かわいい)
前回は実体がなく、水の跡でしか表せなかった。今は影のような姿を持っている。それは、自分が貸し出した本のおかげだろう。前回、本を貸せば利益になると言っていた。
だから、礼を言いに来たのか。何しろ、すでに取引だ。こちらが代価を払う番なのに、わざわざ礼を言われるとは。
(なんという、礼儀正しい良い子なんだろう)
断れば、悲しませてしまいそうだ。
「では、ありがとう。ブレーカーの位置は……ううん……私も、少し曖昧で」
彼方は隣へ向き直り、声を張る。
「ブレーカーは、どこですか」
コリンは慌てて答える。
「店の裏口のところです。右側の壁。落ちていないか見て、落ちていたら入れればいいです」
「分かりました」
彼方が言い終えた瞬間、コリンのテレビが、ぱっと音を立てて点いた。ニュースは終わり、広告が流れている。彼は大喜びした。
「直った。ありがとう」
「どういたしまして」
彼方は黒い影を見て、微笑んでうなずいた。影はガラスの外で、次第に薄れ、雨の幕のなかへ消えていく。
コリンは満足して、椅子にもたれ、遠隔器でいくつかの局を回した。
画面の変わるのを見て、ふと固まる。
背筋に、冷や汗が滲む。
隣の店主が話し始めてから、テレビが点くまで。
彼の声の位置は――一度も、動いていなかった。




