19.私に預けてください
「礼を言う」
その一言は、心から出たものだった。本能でもある。
疑いと警戒は薄れていない。だが、この感謝もまた、本物だ。
ハルムートは寝椅子から起き上がる。重い体躯が、古びた椅子に大きな負担をかける。椅子が、歯が浮くような音を立てた。壊れる寸前のようだ。
彼は眉をひそめ、両手を握り、立ち上がる。
店主は手を振った。自分がしたことを気に留めていない様子だ。
「構いませんよ。客を助けるのは、私の役目です。どうです、もう大丈夫ですか」
ハルムートは全身の関節と筋肉を動かし、拳を握る構えを取った。――張り詰めた弓弦のような音が鳴る。
この拳は、まるで放たれるのを待つ矢だ。ばねが解ければ、その力は並外れているだろう。
彼は深く息を吸う。頭のなかが、晴れている。
幻覚に苛まれるこれまでとは違う。感覚が異様に澄んでいる。かつてない、爽快な感覚だ。
魔剣セルメンから伝わる感情が、まだ残っている。
安らぎ。心地よさ。歓喜。
(……いいものだ)
ハルムートは、思わず安堵の笑みを浮かべる。最盛期の感覚が、二年を経て、自分のもとに戻ってきた。
彼方は傍らで、内心、口の端を引きつらせていた。
(どうやら、このおやじ。一拳で、本当に人が死ぬかもしれない)
自分の推測に、ますます自信が湧く。この構え、実に軍人らしい。冷たく、殺気を帯びた匂い。背筋が粟立つような危険。
「今は、良い。かつてないほど、良い」
ハルムートは拳を収め、元の姿勢に戻って、うなずいた。
店主の言葉を、彼は噛みしめる。
(客を助けるのは役目、か。つまり、どんな客でも助ける中立の姿勢、ということか)
(いや、違う。これはむしろ、混とんとした、己の意志だけに従う善だ)
グリムのような、極悪の残虐な黒の魔術師であれ。
彼のような、悪を憎む大騎士であれ。
この店に入れば、店主が助ける対象になる。
このやり方を、ハルムートは一つの種族にしか見たことがない。――エルフだ。
遠い昔から、今も滅びずに残る少数の種族。長命で、優雅で、芸術に長ける。
目の前の店主の印象は、彼らに、よく似ている。
長い寿命があってこそ、善悪を分別する意欲を失い、新たな楽しみを追い始める。
人に接する態度は、このうえなく穏やかで礼儀正しく、生来の余裕と優雅がある。
そして書店を開き、書物を愛することは、芸術に長けるという一点に対応する。今の人間は、書物にそこまで興味を持たない。
しかも、偶然にも。魔剣セルメンの初代の持ち主は、セルメンという名のエルフだった。
万年を経て伝わる伝説のなかで、セルメンは、いにしえのエルフの国の王子であり、のちの月のエルフ王。
そして「大疫病の源」、「最初に狂った者」。
彼の狂気は歴史の埃の下に隠され、ただ一つ知られているのは、自らの剣で自らを刺し殺したこと。
剣は楔となり、彼の魂を縫いとめた。
魂は呪いとなり、この長剣を魔剣に変えた。王子とその剣は、同じ名を分かち合う。
以来、魔剣の持ち主は、最後には必ず狂って死ぬ。
これまでハルムートは、自分もその過程の終わりに近いと思っていた。
だが今は、すべてが違う。
この本が、魔剣セルメンを鎮める。
ならば、そんな本を持つ店主は――どう考えても、エルフしかありえない。
それなら、エーテルの波動がないことも説明がつく。遠い昔から今まで生きるエルフが、寿命以外の領域に力を割くはずがない。
これまでの店主の言葉を思い返せば、すべて辻褄が合う。
ハルムートは店主を見て、手のなかの本を掲げ、低く言った。
「先ほど、この本は唯一の孤本で、あんたが愛読していると言った。なら、外に貸してもらえるか」
彼方はうなずき、瞬きして、思わず笑った。
「もちろんです。そのつもりがなければ、表に出しませんし、勧めもしません」
彼は咳払いをした。
「実は、一目見たときから、これはあなたに合うと思っていたんです」
「あなたと同じ多くの人は、苦しみます。心の苛みと後悔から、自分の力が足りない、自分の意志が弱いからこうなったのだと、自分を疑い、最後には狂ってしまう」
(ああ、戦場を経験した者は、私も見てきた)
彼らは、戦場で自分のした誤りを、いつまでも引きずる。戦場では、どんな小さな誤りも、人の命になりうるからだ。
「ですが、彼らを打ち負かしたのは、苦痛ではない。彼らの、弱い善良さです」
ハルムートは、はっとした。低く呟く。
「善良?」
彼は、魔剣の二人の持ち主を知っている。どちらも、クレーフ塔に名高い光輝の大騎士だった。偉大な功績と、完璧な品行。だが最後には、例外なく魔剣に汚染された。そして彼らの最大の悔恨は、自分の力が足りないから魔剣を完全に制御できない、という不甘だった。
彼方は首を振り、ハルムートを深く見て、カウンターの後ろに戻り、両手を組んだ。
「善良は、良いことです。ですが、鍵は、弱さのほうにある」
「他人の過剰な期待に応えようと、自分の高い徳と責任感から、他人にもっと自信と助けを与えようとして、倍に自分を武装する。無敵に見えるように。攻撃的に。ですが実際、その防御は、ひどく脆い」
「心が一度崩れれば、どんな要因も、入り込める」
「その善良は、他人を救える。ですが、自分を救えない」
「深淵を凝視する者は、深淵からも凝視される。時に、自分を万能の英雄と思わないことです。普通の人間でいて、適度に逃げることも、勇気です。自分を潰さないために」
――一杯の言葉。これで、感動しない者はいない。
彼方は、いつもの微笑みを浮かべた。すべて、神谷先生の定番の売り文句だ。
必ず、商品と客を結びつける。自分だけがこれにふさわしい、と思わせる。そしてこれが、客の特質を際立たせるもの、と思わせる。
ハルムートは、その言葉を噛みしめ、何か掴んだ気がした。
(なるほど)
魔剣の侵蝕は、一朝一夕ではない。大騎士たちの品行は、非の打ちどころがなかった。それなのに、最後には汚染された。
彼らは、魔剣の呪いが強すぎるのだと思ってきた。
だがその裏には、魔剣の持ち主自身の「心の闇」があった。彼らは、ずっと方向を間違えていたのだ。
「だが、それを宥めるだけで、長くは持つまい」
ハルムートは眉をひそめる。
(……そうだな)
童話で情緒を宥めるのは、短いあいだの発散にすぎない。
「もちろん、持ちません」
彼方は首を振り、微笑んで言った。
「ですが、よければ――私に預けてください。ずっと効くようにしますから」
(ふふ。これで、長く心の相談を要する客が、一人確保できた)
(……?)
ハルムートは、店主の顔を見た。その笑みは、澄んでいる。
長すぎるほど長く生きた者だけが、浮かべられる顔だった。




