18.彼には選択肢がない
「くそ。くそ、くそ、くそ。どうして、こうなる」
黒猫の顔には、人と同じ恐怖と怯えがあった。目は、慌てふためいている。
雨のなかを走り、霧のような雨幕を割って進む。
どれほど走ったか。疲れ果てた黒猫は、何かに蹴つまずき、でんぐり返って起き上がり、また数歩、みっともなく走って、細い路地に隠れた。
「はあ、はあ……」
黒猫は毛の水滴を払い、慎重に外を窺う。誰もいないのを見て、少し息を吐いた。
崩れるように、その場に座り込む。
「変身術、解除」
黒猫の呼吸が落ち着く。口を開くと、変声期の尖った少年の声がした。
エーテルの波動が、黒猫の体を歪め、引き伸ばす。十五、六の少年になった。
褐色の短髪、そばかすの浮いた顔。猫になれるハルヴィン・ヴォス。
クレーフ塔の情報科の偵察員で、任官一年。
若いが、変身術の腕は並外れており、単独任務を任される資格を持つ。
だが、今回の状況はまるで違った。
本来、彼は任務の合間、休暇のような時期で、任務は請けていなかった。
だが、聞いてしまったのだ。前・光輝の大騎士ハルムートが、グリムの危険性ゆえに、誰の随行も断り、単身で調査に向かったと。
ハルヴィンは、ハルムートにあこがれて情報科に入った追っかけの少年だ。光輝の大騎士ハルムートと、黒の魔術師グリムのあいだに何があったか、細部まで知っている。
偶像への好奇心と案じる心から、彼は慎重にハルムートの後を追って、この書店へ来た。
もちろん、己の特技は存分に活かした。終始、安全な距離を保ち、決して姿を晒さなかった。
――つい先ほどまで。
ハルヴィンは店の外で十分ほど待ち、中がどうなっているか少しだけ見ようとした。
そして、恐ろしい光景を見た。
破壊級の光輝の大騎士。不敗の聖炎。半身が鋼の人型怪物。
それが、カウンターの前で、傷を負ったように苦しげに身を縮め――そのあと、まっすぐに倒れた。
ハルヴィンは誓う。あの猫の目で、はっきりと見た。
一秒前まで、ハルムートは、あの穏やかそうな店主と笑い合っていた。和やかな空気だった。
次の一秒、ハルムートは強打を受けたように床に倒れた。
そして店主がカウンターから飛び出し、大騎士の急所を押さえ、奇妙な動作をした――ハルヴィンは誓う、あれは邪悪な呪術に違いない。
続けて店主は、慈悲も哀れみもなく、生死の知れない騎士を狭い容器へ乱暴に引きずり込み、低く、冷たい皮肉を浴びせた。
「鋼の人にも、童話のような夢を見る権利がある」?
ハルムートさまの単身乗り込みの無謀を嘲笑い、子どものように幼稚だとでも言うのか。
それとも、クレーフ塔の「闇を掃き清める偉業」など、虚ろな幻の夢にすぎないと。
「くそ。『ゆっくり、お休みなさい』だと。不敗の聖炎を、永遠の眠りに就かせるつもりか」
ハルヴィンは震えた。
(恐ろしい)
そして、もっと恐ろしいことに、それは半分、現実になっている。
「いったい、何が起きたんだ。この店主は何者だ。なぜハルムートさまが、まったく抗えずに倒れるんだ」
ハルヴィンの心は乱れた。顔は青ざめ、全身が震え、死地から逃げ帰ったような心地がする。
いや、そのとおりだ。彼はついさっき、死の縁から戻ってきた。
忘れられない。驚きと怒りで、外の荷物を倒してしまったとき、心臓が止まるかと思った。
あの店主は、そのまま自分を捕まえられたはずだ。だが、店の扉の前で足を止めただけだった。
だが、分かっている。店主は、自分の変身を見破っていた。
「危険」か。
ああ、危険は目の前にある。
「安全」へ通じる道は、ひとつだけ。「家に帰れ」だ。
店主はわざと見逃し、帰って報せろと言っている。
警告か。挑発か。嘲笑か。
だが、彼には選択肢がない。
ハルムートはすでに倒れた。
今、クレーフ塔に報せられるのは、自分しかいない。
ハルヴィン・ヴォス。クレーフ塔情報科の偵察員、任官一年。
彼は、これまでで最も重い使命を負った。
恐怖を呑み込み、歯を食いしばり、拳を握る。再び黒猫になると、クレーフ塔の方角へ駆け出した。
――
ハルムートは、ふたたび幻覚に沈んでいた。
目の前には、果てのない星空と虚無。大小の星が、黒い空に散りばめられている。
何億光年の彼方で、星が生まれ、滅びる。
時間の概念が、消えていく。
この星の海を、無数の巨大なものが泳いでいる。
しばしば、その影がこちらへ流れ込み、現実と重なる。ハルムートの目には、二つの空間が重なり、奇妙で美しい絵になる。
藍鯨が街のあいだを縫うように。衝撃的だ。
だが、その衝撃は、たいてい苦痛を伴う。認識を壊され、未知への恐怖に落ちる。
そして魔剣セルメンは、万年の歳月を越えて、この星空へ向け、苦痛に歪んだ嘶きを放つ。
ハルムートは時折、思う。これは、母親を恋しがる赤子のようだ、と。
正直に言えば、魔剣セルメンの守り手であることは、言うことを聞かない子どもを世話するようなものだ。彼にはその子の機嫌が掴めず、老いるほどに手に負えなくなっている。
だが、今回は違った。
ハルムートの手には、一冊の本がある。厚くも大きくもない本だ。
「ぱらぱら……」
ページが速くめくれ、そこに名状しがたい禁忌の言葉が次々と流れる。
「深淵を凝視する者は、深淵からも凝視される。まして、深淵に認められる――」
「ま、待て……くそ。罠だ。うあああっ」
ハルムートは、頭の激痛で一気に意識を取り戻した。受け取った情報の多さに、頭が膨れる。
魔剣の狂暴な感情のなかに、なんと、喜びと愉しさが混じっていた。そして、ハルムートの苦痛が急速に引いていく。
(なぜ、喜んでいる。この本のせいか)
(童話……確かに、これは子どもに読ませるものだ)
ハルムートは、はっと目を開けた。
見知らぬ天井を、ぼんやり見る。動こうとして、体が拘束されているのに気づく。
少し首を下げると、自分の手に、あの「童話」が握られている。
(なるほど。こういう童話か)
「おや。おやじさん、目が覚めましたか」
傍らから、聞き覚えのある若い声。
ハルムートが顔を向けると、あの見慣れた笑顔があった。
彼は首を振り、頭痛が消えたのを確かめ、手をついて体を起こす。
ハルムートは彼方を見て、座り直し、低く言った。
「……礼を言う」




