17.雨夜の屠殺者
彼方は考えた。地下室に、予備の折りたたみ寝椅子がある。
狭いので寝るには向かないが、少し横たえるくらいなら問題ない。
彼方は地下室へ降りて、寝椅子を運び上げた。定期的に掃除しているので、すぐ使える。
「重いだろうとは思っていたが、まさか、これほどとは……」
彼方はハルムートの腕を肩に回し、床から起こそうとして、三度失敗した。そのとき、自分の誤りを深く悟った。
(まるで、二メートルの棕熊だ。全身、鋼のような筋肉か。まったく、ひどい)
先ほど、カウンター越しのときとは違う。あのときは、彼方が座り、相手が立っていた。身長と体躯の差は、それほど目立たなかった。
だが今は、大型の猛獣と正面から向き合う感覚だ。
少なくとも二メートルの身長。積み上がった筋肉の稜線は、角のようにくっきりしている。拳は、本当に人を殴り殺せそうだ。
髪が白くなる年齢で、この体格。
(普通は、グリムさんのように、ひょろりと痩せているのが老人というものでは)
彼方は、床に転がるハルムートを見て、頭を抱えた。
(どうしよう)
このまま放置するわけにはいかない。他の客が来れば、手を借りられるのだが。
(この天気で、他の客など来るか)
「……すみません。心ならずも、失礼を働きます。許してください」
彼方は、これからする無礼への詫びを、心から述べた。
そして手を伸ばし……ハルムートの背広の襟を掴み、熊のような重い体をずるずると引きずり、寝椅子の前まで運び、力を込めて載せた。
「ごん」
ハルムートの右腕が、折りたたみ寝椅子の金属の肘掛けに落ちる。鈍い金属音が響いた。
彼方は、はっとした。そして、露わになった右の手首を見る。
銀白色の金属の輝きが、灯りに照らされて目立つ。鱗のような細かな文様が、独特の美しさを帯びている。最高水準の細工だ。
彼方の目つきが変わった。
(このおやじも、グリムさんと同じく、体が不自由なのか)
しかも、この精度の機械義肢は、普通の者が使うものではない。
彼方は、機械義肢について、多少の知識があった。
この世界の技術への好奇心と、民俗学の本能から、こうした新技術を広く浅く調べたことがある。この地の人々の考えと習慣をよく知り、溶け込むために。
ヴァレニアは概ね、地球の八十年代から九十年代の水準だが、機械と生物の技術は地球をはるかに超えている。奇妙な技術の枝を伸ばしている。
機械義肢も、そのひとつ。
ただし、普通の型でも高級品だ。平民には縁もなく、手も出ない。
まして、この男のものは。金があっても、買えない。
「この精度と重量は、日常生活に必要な域を超えている」
彼方は思案する。
「加えて、この体格。この気配。……まさか」
真実に手が届いた気がした。
「このおやじは、退役した高級将校では」
彼方は、もっともらしくうなずく。
(間違いない。以前、軍人にも何人か会った。このおやじと、とてもよく似ている)
共通する、生来の硬さと正しさ。
そう考えれば、先ほどの凶暴さと、隠された疲労は、戦場を離れたあとの心の病かもしれない。
この失われた右腕は、戦場の勲章だ。
「だから、関節の話をしたとき、妙な顔をしたのか」
彼方は、すべてを悟った。
機械義肢は全体が金属だが、自由に動くのは、自分の神経を義肢の生体神経と筋肉に接続しているからだ。駆動の核は電気。
詳しい原理は知らないが、この一連の説明は、どうにも「たぶん、これで動くはず」という妖精の技術の匂いがする。
ひとつ、彼方はよく覚えている。関節の金属接合部は、湿気で微細な短絡を起こしやすい。だから、雨の日は義肢にリウマチと同じ影響が出る。
「だから、怪しいと思ったんだ。まさか、気を失ったのは義肢の不調か。漏電が続けば、神経にも影響が」
彼方はため息をつき、ハルムートの腕を直してやった。
二歩下がり、狭い寝椅子に「拘束」された昏睡の男を見る。薄暗い店内の灯りと、外の風雨の音。
(……なぜだか、自分が妙なことをしている気がしてきた)
一瞬、彼方は自分が雨夜の屠殺者になった気がした。
昏い雨の夜に人を殺し、重い死体を引きずり、暗い店のなかで人に言えぬことをして真相を隠し、死体を眺めて突っ立っている。床には、長い血の跡が、ひどく陰惨に。
そんな感覚。
「は」
彼方は首を振って笑った。想像が、豊かすぎる。まさか、そう考える者がいるだろうか。
自分は、こうも穏やかで親しみやすい性質で、善良で熱心な徳を持っている。こんな誤解を招く場面でも、いつだって、正しく、胸を張っていられる。
彼方は背を伸ばし、はっとした。あの『小さな星の旅人』を、ハルムートがまだ固く握っている。気を失っても、離していない。
彼方は微笑んだ。
「鋼の人にも、童話のような夢を見る権利がある。ゆっくり、お休みなさい」
「……こつん」
突然、店の外で、何かが倒れるような音がした。
彼方はぎょっとして、振り向く。
灰色のショーウィンドウの外を、人影のようなものが素早く横切った。驚いたように低い声を上げ、口を必死に塞いだようにも見えた。
「誰かいますか」
彼方は眉をひそめて訊く。
扉へ行き、開ける。だが、誰もいない。遠くで、一匹の黒猫が雨のなかを慌てて走り、すぐに見えなくなった。
「なんだ、猫か」
彼方は黒猫に手を振り、笑いかけた。
「外は危ないですよ。気をつけて。早く帰りなさい」




