16.寝る前の童話
「休む? 私が、そんなに役立たずに見えるか」
ハルムートは鼻を鳴らした。
だが、目の前の店主からは、騎士の「公正」の聖印に引っかかる悪念が一片もない。頑固な老騎士にとって、その加点は小さくない。
少なくとも、冷淡から善意へは上がった。
そして、この気さくで対等な態度が、なぜか、久しく忘れていた話したい気持ちを呼び起こす。
光輝の大騎士になってから、誰も彼にこんな気安い口を利かなかった。それだけの年月が過ぎている。
(どうせ、目の前の男は事情を知らぬ普通人だ。上司や先輩の面子を張る必要もあるまい)
彼方は首を振り、誠実に言った。
「もちろんです。ただ……このところの長雨は、関節に堪えるでしょう。お休みも、よく眠れていないのでは。少し、お疲れの顔をされています」
この年頃の老人は、おおむね睡眠やリウマチに悩みを抱える。加えて彼は、相手の左右の手の動きが噛み合っていないことにも気づいていた。
精神から来る疲労は目立たないが、よく観察する彼方には、分かる。
「グリムさんを探すのに、ずいぶん骨を折られたのでしょう」
彼方はしみじみと言った。
「あなたがたの、その偉大な友情に、心から感服します」
ハルムートの、革の手袋をした右手が微かに動いた。目に疑いが走る。
(この店主が、なぜ――いや、偶然だろう)
だが、なぜだろう。「関節」「睡眠」「グリム」という三つの言葉が並ぶと、妙に含みがあるように聞こえる。
しかも「偉大な友情」の五文字には、どこか棘がある。
――いや、これも意味などない。彼とグリムの友情が深いと、先に口にしたのは自分だ。
ハルムートの表情が複雑になる。
「私は、年寄りではない。雨が関節に堪えるなど、あるものか。顔色が悪いのも、それが理由ではない。……本を読ませたいのなら、無駄だ。金は持っていない」
そう言いながら、彼は椅子を引き寄せて座った。
(ああ、もう。口を開けば、これだ)
(このおやじ、典型的なツンデレだ)
彼方は茶を差し出した。
「店内で読むのは無料です。ただし、私の後ろの貸出区画の本に限ります。まずはお茶で温まってください」
「グリムさんをお探しの件、私からお伝えしてもいいですよ」
ハルムートは受け取って一口飲み、その茶の味に慣れず、眉をひそめて首を振った。
「要らん。少し座ったら、すぐ出る」
眉をひそめつつ、彼は頭痛がまた始まるのを感じていた。
(……くそ。ますます頻繁になる)
堪えながら、彼は椅子の上で少し身をずらす。座った角度と意識の移動のせいで、余光が、机の脇に置かれた本に触れた。もともと彼が手にしていた本だ。
――『名を繰り返す家』?
彼方のほうが、すでに何気なく口を開いている。
「ちょうど、とても気の休まる童話を読んでいたんです。心が温まりますよ。寝る前に読むと、よく眠れます。試しますか」
高校のときの国語の教師が言っていた。見た目が荒々しい男ほど、内側はやさしい乙女であることが多い、と。
彼はそれを疑っていない。
この男は、心が細やかで、あの友情を忘れられず、しかもツンデレだ。十中八九、この類型だ。
「童話?」
ハルムートは鼻で笑った。
「幼稚で、滑稽なものだ。若いの、あんたもいい歳だろう。なぜ、そんなものを」
「そうですか。これは、私が読んだなかで最高の童話です。ロズモアで、唯一の孤本ですが」
彼方は残念そうに、『小さな星の旅人』を持ちかけた手を引いた。
「残念です……」
ハルムートの口元が、ひくりと動く。彼は彼方の手の本を指さして言った。
「あんたが言っているのは、それか。童話? 本気で言っているのか」
(どこの童話が、題を『名を繰り返す家』というんだ)
(これは夢の幻獣の童話か)
彼方は訳が分からず、うなずく。
「ええ。とても面白い童話です。間違いなく、古典ですよ」
ハルムートは、何かがおかしいと感じた。だが、今に至るまで、エーテルの流れは感じない。
ただ、この忌々しい童話は、なぜその題なのか、見て確かめたいという衝動を起こさせる。
「寄越せ」
ついに、無表情のまま手を伸ばし、カウンターに寄りかかった。
「あんたの願いを叶えてやる。ちょっと見るだけだ」
彼方は、それ見たことか、という顔で微笑み、手のなかの本を差し出す。
ハルムートは、何気ないふりをして、目の前を過ぎる表紙と題を一瞥した。――『名を繰り返す家』。
(本当に、この題か。これが、寝る前の童話?)
彼は手を伸ばし、受け取ろうとして――突然、激しい眩暈に襲われた。
押さえ込んでいた刺すような痛みが、頭のなかで一気に膨れ上がる。視界が影に覆われ、耳に重なる呟きと耳鳴り。
背骨から魂の奥へ広がる、魂を引き裂くような激痛が、すべてを呑み込む。
体の重心が、失われる。
「――ッ」
この、影のように付きまとう感覚。彼はよく知っている。
魔剣セルメン。何かと共鳴している――
(なぜ、よりによって今)
(待て。こいつは、さっきから「寝る前」と言っていた。まさか、この眠りのことでは)
(罠か――)
ハルムートの意識は、そこで途切れた。カウンターから崩れ落ち、店主の呼び声が遠ざかる。
「おい、おい、おやじさん。おやじさん、大丈夫ですか」
「おい、おい。しっかりしてください」
彼方は顔色を変え、片手でカウンターを飛び越え、倒れたおやじを抱え起こした。
(あるいは……脳の血管か)
年はそれなりに見える。だが体格は頑健で、こういう病には縁がなさそうに見える。
とはいえ、やはり老人だ。
(とにかく、応急処置を)
だが、苦労して床に寝かせてみると、このおやじは呼吸も穏やか、脈も力強い。異常がない。
むしろ、ただ眠っているだけのように見える。
「……異常なし?」
彼方は、眉をひそめて手首を取った。指を正しく動脈に当てる。
(民俗学者なら、脈を見て、簡単な医術ができてもおかしくない)
彼方は眉をひそめ、ほどなく緩めて、腕を置いた。そして感嘆する。
「この脈、私のような若者より力強い。おやじはおやじだ。健康そのものだ」
だが、なぜ突然倒れた。
(まさか、僕の本が原因なわけがない。……だろう?)
確かに、このおやじが気を失う前にしたことといえば、僕の本を受け取ろうとしただけだ。
だが、この世に『小さな星の旅人』を一目見て急病になる道理があるだろうか。
(あるはずがない)
あれは『小さな星の旅人』だ。穏やかで癒やされる童話だ。読めば安心するだけ。心臓発作など起きない。
彼方はため息をついた。だが、自分の店で倒れたのだ。とりあえず寝かせて、目が覚めてから訊こう。




