14.おやじ、だと?
雨の軌跡が、はっきりと見える。細かな雨脚が白い線に伸び、最後には視界のなかで、分解された水滴になる。
狂った風がすべてを撫で、無数の雑音が風に運ばれて耳に落ちる。それが一本ずつ解かれ、頭のなかで、物の形になる。
空に集まりつつある雲の渦。ざわめいて舞う木の葉。揺れる電線。走る人。急ぐ水。呼吸。鼓動。血。魂。エーテル――
セリスは、自分の魂が引き剥がされるのを感じた。だが、体から完全に切り離されてはいない。
魂は、もう魂の形をしていない。伸び、広がる。まるで巨大な章魚が虚空へ昇り、周囲へ無数の触手を伸ばしていくように。
しばらく呆けていたセリスは、やがて今の状況を悟った。
本能的に店の方を見る。だが、そこには一团の霧があるようにしか見えず、何も見えない。
ガラス窓の向こうでは、彼方が棚の本を選んでいる。相変わらず、どこにでもいる普通の男に見えた。
視線を、あのガーゴイルへ移す。
黒い小さな像の上に、千に近い魂が凝っている。腐敗の度合いの異なる髑髏がひしめき、慟哭し、咆哮し、何かを掴もうと手を伸ばしている。
そのなかで、ひときわ目立つ、最も完全な魂が、苦しげに叫んでいた。
つい先ほど、非業の死を遂げた「鼠」ローリーだ。
セリスは、その魂の上に「忠誠」のルーンを見つけられなかった。
グウィリムの烙印は、やはり解除されていた。
そう思った瞬間、宙に浮かぶ触手が、遠くへ一気に走った。ガーゴイルに同化されかけていたローリーの魂を、絡め取る。
――引き裂き。
セリスは、頭に金槌で殴られ、かき回されるような激痛を覚えた。
「……ん」
彼女はうめき、殴られたように半歩下がって、体勢を立て直す。目を開け、手のなかのページを見て、荒く息を吐いた。
「……なるほど」
狩人は、変異した自分の魂を感じていた。あの章魚のような巨大な無形の魂は、今も幽霊のように背後に漂う。ただし、しばらくは自分の周囲を離れられない。
そして、その無数の触手が、一つの怯えた魂を絡め取っている。
ローリーだ。何か言いたげに目を見開いているが、触手に口を塞がれている。
「消えない鋼の意志。魂に直接働きかける力……さすが、神谷さん。私の魂の構造を、こうも容易く作り変え、膨大なエーテルを注ぎ込むなんて。今の私は、名実ともに恐慌級の狩人。獣化すれば、破壊級と渡り合うことすらできるかもしれない」
セリスは呟き、手の甲で鼻血を拭った。鉄の灰色の目は、ひどく明るい。
「……この、満たされる感じ。悪くない」
これもすべて、神谷さんが与えたものだ。
そもそも、あのとき店の扉が開かなければ、自分は追跡のなかで死んでいた。その先はなかった。
――神谷さんは、自分に第二の命をくれたと言ってもいい。
セリスの胸が揺れる。彼女は雨のなかに立ち、店の方へ向かって胸に手を当て、腰を折った。声もなく、服従と忠誠を示す。
強者への敬意であり、その付属となることを甘んじて受ける礼だ。
相手はこれほど手をかけて、力を引き上げ、裏切り者まで始末してくれた。だが、今のところ見返りを求めていない。
ならば最もありうるのは――自分の勢力を育て、狩人の階層の生態を、少しずつ変えようとしている。
こちらの進んでの忠誠は、さぞ喜ばしいはずだ。
ならば、もっと従順に振る舞ってはどうか。
――とはいえ。
やはり神谷さんは、底が知れない。
さっきの状態の自分なら、破壊級のエーテル偽装でも、ほころびが見えるかもしれないと思えた。それなのに、神谷さんの偽装には、一片の異常もない。
肉眼で見たままの、平凡さ。実に、敬服すべきことだ。
――
彼方は絵本を一冊取り出し、本の順番を整えて、戻した。
振り返って席へ戻ろうとしたとき、余光に、外のセリスが鼻血を拭い、こちらへ済まなそうに一礼するのが見えた。
彼方は口の端を引きつらせ、棚を整える手を止め、その背を見送った。そして、少し嫌な予感がした。
(おいおい)
(まさか、この人にそういう気質が)
こんなに頻繁に店へ来るのは、実は――いや、いや、失礼な想像はよそう。双方のためにならない。
彼方は首を振り、浮かんだ考えを振り払う。
自分の定位置に戻り、適当に一冊抜いて、時間を潰す。
引いたのは、とても癒やされる『小さな星の旅人』だった。哲理に満ちたこの童話は、やさしくてかわいい。何度読んでも飽きない。
(今日の寝る前は、これにしよう)
満足して、そう決める。
「ちん」
「いらっしゃいませ」
反射的に言って、彼方ははっとした。――また客が来た。
(今日は、何かいい日か)
(あの令嬢は、やはり幸運を運ぶ魚だ)
少し背を伸ばして扉を見て、目がさらに明るくなる。今度は、まったく見知らぬ新しい客だ。
だが……あまり友好的には見えない。
「ばたん」
扉が閉まり、革靴が床を踏む。重い音が響いた。
だらりと背広を着た、疲れた様子の初老の男が入ってくる。逞しい体躯が、扉のガラスを完全に塞いだ。
たちまち、もともと明るくない店内の光が、さらに半分ほど削られる。
彼方は灯りを明るくし、営業用の微笑みを浮かべて口を開いた。
「こんにちは。何を探しましょうか。読む、借りる、買う、どれでも」
灯りの下に浮かぶ、山のような体躯。白髪まじりだが、老人とは思わせない。疲れと鋭さの混じった目は、憩う雄獅子のようだ。
男は中を歩き、視線を巡らせる。自分の領地を視察するように。
彼方には、この客の年齢が測りかねた。
(では……おやじ、でいいか。おやじなら、間違いない)
この「おやじ」は一周見回し、最後にカウンターのガーゴイルで止まった。目が鋭くなる。カウンターを軽く叩き、顔を上げて言う。
「あんたが、この店主か」
彼方はうなずいた。
「ええ、おやじさん。そうですよ」
「……」
ハルムートは一瞬、黙った。それから、歯のあいだから一句、絞り出す。
「――おやじ?」
(誰がおやじだ)
もし小僧の騎士がこんな口を利こうものなら、ハルムートは誓って、その中身の空っぽな頭を叩き割っていた。
胸を二度、上下させた。だが、目の前の男はただの普通人だと思い直し、怒りを飲み込む。
「ばん」と両手をカウンターに突き、彼方を睨んで低く言った。
「そのガーゴイルは、あんたのか」




