昔話
夏祭りが終わって数日。
ルーベル村には、またいつもの時間が戻っていた。
畑仕事をして。
飯を食って。
日が沈んだら眠る。
変わらない毎日。
変わらない景色。
そんなある日の朝だった。
「行商人が来たぞー!」
村の広場から声が聞こえた。
その瞬間。
「兄ちゃん、行こう!!」
トムが飛び上がった。
レオンはまだ朝食のパンを食べていた。
「早い」
「行商人だぞ!?」
「知ってる」
「早く!」
「飯食わせろ」
トムは椅子の上でそわそわしていた。
足をぶらぶらさせ、何度も窓の外を見る。
母が呆れた顔をする。
「落ち着きなさい」
「無理!」
父が笑った。
「元気だな」
「行商人だぞ!?」
二回目だった。
レオンには、そこまで騒ぐほどのことなのかよく分からない。
けれど、トムにとっては特別なのだろう。
村の外から人が来る。
知らない品物が来る。
知らない話が来る。
それは、ルーベル村で暮らす子供にとって、小さな冒険みたいなものだった。
「分かった」
レオンは残っていたパンを口に入れた。
「食べ終わったら行く」
「今食べ終わった!」
「俺がな」
「早く!」
「急かすな」
そう言いながらも、レオンは少し笑っていた。
◇
広場には、すでに人だかりができていた。
大きな荷馬車。
積み上げられた木箱。
布。
鍋。
工具。
干した果物。
見慣れない瓶。
村では手に入りにくい物が、荷台いっぱいに並んでいる。
その前に立っていたのは、大きな口髭の行商人だった。
「おじさん!」
トムが駆け寄る。
「おお」
行商人は目尻に皺を寄せて笑った。
「今年も元気だな、坊主」
「十歳になった!」
「そうかそうか。そりゃめでたい」
行商人に頭を撫でられ、トムは誇らしそうに胸を張った。
レオンは少し後ろからそれを見ていた。
トムは人懐っこい。
誰にでもすぐ話しかける。
行商人にも、村人にも、子供にも、大人にも。
それが少し羨ましい時があった。
自分には、ああいう真似はできない。
「何か面白いものある!?」
「あるぞ」
行商人がにやりと笑う。
「だが、まずは買い物だ」
「見るだけ!」
「それじゃ商売にならねぇなぁ」
周りの大人達が笑った。
トムは荷台の周囲をぐるぐる回る。
珍しいものを見つけるたびに声を上げた。
「兄ちゃん、これ何!?」
「知らん」
「これは!?」
「知らん」
「兄ちゃん知らないこと多いな!」
「うるさい」
そんなやり取りをしていると、トムの足がぴたりと止まった。
本だった。
荷台の隅に、何冊か古びた本が積まれている。
そのうちの一冊に、トムの目が吸い寄せられていた。
「おじさん」
「ん?」
「本読んで」
行商人は、少し困ったように笑った。
「またか」
「お願い!」
その声を聞いた子供達が、わらわらと集まってくる。
「聞きたい!」
「俺も!」
「読んでー!」
行商人は大げさに肩を落とした。
「まったく。これじゃ商売にならねぇ」
そう言いながら、どこか楽しそうだった。
広場の端にあった木箱へ腰掛ける。
子供達がその前に座り込む。
トムは一番前だった。
レオンは少し離れた柵にもたれた。
聞くつもりはなかった。
けれど、トムがあまりに真剣な顔をしていたので、何となくその場に残った。
行商人は一冊の絵本を開く。
少し古びた本だった。
表紙には、剣を掲げる勇者らしき人物と、杖を持った魔法使いが描かれている。
「よし」
行商人が咳払いをした。
「今日は、勇者様のお話だ」
子供達が歓声を上げた。
◇
「むかしむかし」
行商人の声が、広場に響く。
「世界には、恐ろしい魔王がおりました」
子供達が静かになる。
「魔王はたくさんの魔物を従え、人々を苦しめていました」
ページがめくられる。
黒い城。
空を覆う魔物。
逃げ惑う人々。
絵本の中の魔王は、いかにも恐ろしい姿をしていた。
「そこで世界中の国々は話し合い、それぞれの国から最も優秀な人物を一人ずつ選びました」
次のページには五人が描かれていた。
勇者。
戦士。
シーフ。
僧侶。
そして魔法使い。
「五人は力を合わせ、魔王を倒す旅へ出ました」
トムの目が輝いていた。
完全に夢中だった。
レオンはその横顔を眺める。
絵本を見ているだけなのに、トムはまるで自分も一緒に旅へ出ているような顔をしていた。
「長い長い旅の末、五人は見事に魔王を討ち倒します」
ページの中で、勇者が剣を掲げている。
魔王は倒れ、空には光が差していた。
「世界に平和が戻りました」
子供達がほっとしたような顔をする。
だが、行商人はそこで声を少し落とした。
「ですが」
ページがめくられる。
「帰ってきたのは、魔法使いだけでした」
子供達がざわついた。
「なんで?」
誰かが聞いた。
行商人は本を指差す。
そこには暗い顔をした魔法使いが描かれていた。
「魔法使いは、勇者を愛していました」
子供達は黙って聞いている。
「けれど、勇者が選んだのは僧侶でした」
「魔法使いは、それが許せなかったのです」
トムが眉をひそめた。
「そして魔王との戦いで傷付き、弱っていた仲間達を」
行商人は少し間を置く。
「魔法使いは裏切り、皆殺しにしてしまいました」
「えぇ!?」
子供達が悲鳴を上げた。
トムも口を開けたまま固まっている。
「ひどい……」
小さく呟いた。
行商人は読み続ける。
「一人だけ生き残った魔法使いは、世界を呪いました」
ページがめくられる。
黒い塔。
怪しい魔法陣。
泣いている人々。
「そして恐ろしい研究を始めます」
「魔法使いは、世界中の魔法の源を奪いました」
「そして、倒されたはずの魔物を復活させたのです」
子供達が真剣な顔になる。
「その結果、世界から魔法は失われてしまいました」
レオンは絵本を見ていた。
魔法。
この世界には、もう存在しない力。
昔はあったらしい。
だが今はない。
村で暮らしていて、魔法が必要だと思ったことはない。
けれど、もし本当に昔の人々がそんな力を使えたのなら。
それを失った時、人々は何を思ったのだろう。
そんなことを、少しだけ考えた。
行商人はさらにページをめくる。
「そして、勇者の国は魔物によって苦しめられました」
壊れた町。
逃げる人々。
泣いている子供。
その絵を、トムは食い入るように見つめていた。
「その時、手を差し伸べたのが僧侶の国でした」
次のページには、白い衣をまとった僧侶が描かれていた。
怪我人に手を差し伸べ、泣く子供を抱きしめている。
「僧侶の国は勇者の国を守りました」
「多くの人々を救いました」
「勇者の国はなくなってしまいましたが」
「かつて勇者と僧侶が愛し合ったように」
「二つの国は一つになったのです」
トムは少し安心したような顔をした。
「良かった……」
そう呟いた。
レオンはそれを聞いて、少しだけ笑った。
トムはこういうところがある。
絵本の中の人間にまで、本気で安心したり、怒ったり、悲しんだりする。
子供っぽい。
でも、嫌いじゃなかった。
◇
行商人は最後のページを開いた。
そこには、恐ろしい顔の魔法使いが描かれていた。
黒い杖。
黒い塔。
足元には魔物達。
「けれど、悪い魔法使いは今も生きています」
子供達が息を呑む。
「新しい魔王となり、世界を滅ぼす準備をしているのです」
行商人は声を低くした。
「だからみんな」
子供達が身を寄せる。
「悪いことをしてはいけません」
さらに声を低くする。
「悪い魔法使いに食べられてしまいますよー」
「うわぁぁぁぁ!」
子供達が叫んだ。
でも、その声は悲鳴というより笑い声だった。
行商人が本を閉じる。
子供達は口々に感想を言い合った。
「魔法使い怖い!」
「俺、悪いことしない!」
「嘘だ! お前昨日パン盗み食いしただろ!」
「してない!」
「した!」
広場がまた賑やかになる。
トムも笑っていた。
けれど、少ししてから、ふと真面目な顔になった。
「でもさ」
ぽつりと言う。
行商人が顔を向けた。
「ん?」
「勇者様、かわいそうだな」
周囲が少し静かになる。
トムは続けた。
「世界を助けたのに」
言葉を探すように、少しだけ間を置く。
「国、なくなっちゃったんだろ?」
行商人は困ったように笑った。
「まあ……そうだな」
トムは胸元の首飾りを握った。
「俺だったら嫌だな」
小さな声だった。
それを聞いて、レオンはトムを見た。
絵本の勇者に本気で同情している。
そんな弟が、少しだけ眩しかった。
「帰るぞ、トム」
レオンが声をかける。
「あ、うん」
トムは立ち上がる。
けれど、まだ絵本の表紙を見ていた。
勇者と魔法使い。
笑っていない二人。
トムは少しだけ考え込むような顔をしてから、レオンの隣に並んだ。
行商人は、すでに次の客の相手を始めている。
広場はいつもの騒がしさに戻っていた。
レオンは歩きながら、小さく呟く。
「勇者様か」
「兄ちゃん?」
「いや」
首を振る。
それまで、勇者なんて昔話の中の人間でしかなかった。
遠い昔。
遠い国。
自分には関係のない英雄。
でもその日だけは、少しだけ。
その名前が胸に残った。




