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8/21

昔話

 夏祭りが終わって数日。


 ルーベル村には、またいつもの時間が戻っていた。


 畑仕事をして。


 飯を食って。


 日が沈んだら眠る。


 変わらない毎日。


 変わらない景色。


 そんなある日の朝だった。


「行商人が来たぞー!」


 村の広場から声が聞こえた。


 その瞬間。


「兄ちゃん、行こう!!」


 トムが飛び上がった。


 レオンはまだ朝食のパンを食べていた。


「早い」


「行商人だぞ!?」


「知ってる」


「早く!」


「飯食わせろ」


 トムは椅子の上でそわそわしていた。


 足をぶらぶらさせ、何度も窓の外を見る。


 母が呆れた顔をする。


「落ち着きなさい」


「無理!」


 父が笑った。


「元気だな」


「行商人だぞ!?」


 二回目だった。


 レオンには、そこまで騒ぐほどのことなのかよく分からない。


 けれど、トムにとっては特別なのだろう。


 村の外から人が来る。


 知らない品物が来る。


 知らない話が来る。


 それは、ルーベル村で暮らす子供にとって、小さな冒険みたいなものだった。


「分かった」


 レオンは残っていたパンを口に入れた。


「食べ終わったら行く」


「今食べ終わった!」


「俺がな」


「早く!」


「急かすな」


 そう言いながらも、レオンは少し笑っていた。



 広場には、すでに人だかりができていた。


 大きな荷馬車。


 積み上げられた木箱。


 布。


 鍋。


 工具。


 干した果物。


 見慣れない瓶。


 村では手に入りにくい物が、荷台いっぱいに並んでいる。


 その前に立っていたのは、大きな口髭の行商人だった。


「おじさん!」


 トムが駆け寄る。


「おお」


 行商人は目尻に皺を寄せて笑った。


「今年も元気だな、坊主」


「十歳になった!」


「そうかそうか。そりゃめでたい」


 行商人に頭を撫でられ、トムは誇らしそうに胸を張った。


 レオンは少し後ろからそれを見ていた。


 トムは人懐っこい。


 誰にでもすぐ話しかける。


 行商人にも、村人にも、子供にも、大人にも。


 それが少し羨ましい時があった。


 自分には、ああいう真似はできない。


「何か面白いものある!?」


「あるぞ」


 行商人がにやりと笑う。


「だが、まずは買い物だ」


「見るだけ!」


「それじゃ商売にならねぇなぁ」


 周りの大人達が笑った。


 トムは荷台の周囲をぐるぐる回る。


 珍しいものを見つけるたびに声を上げた。


「兄ちゃん、これ何!?」


「知らん」


「これは!?」


「知らん」


「兄ちゃん知らないこと多いな!」


「うるさい」


 そんなやり取りをしていると、トムの足がぴたりと止まった。


 本だった。


 荷台の隅に、何冊か古びた本が積まれている。


 そのうちの一冊に、トムの目が吸い寄せられていた。


「おじさん」


「ん?」


「本読んで」


 行商人は、少し困ったように笑った。


「またか」


「お願い!」


 その声を聞いた子供達が、わらわらと集まってくる。


「聞きたい!」


「俺も!」


「読んでー!」


 行商人は大げさに肩を落とした。


「まったく。これじゃ商売にならねぇ」


 そう言いながら、どこか楽しそうだった。


 広場の端にあった木箱へ腰掛ける。


 子供達がその前に座り込む。


 トムは一番前だった。


 レオンは少し離れた柵にもたれた。


 聞くつもりはなかった。


 けれど、トムがあまりに真剣な顔をしていたので、何となくその場に残った。


 行商人は一冊の絵本を開く。


 少し古びた本だった。


 表紙には、剣を掲げる勇者らしき人物と、杖を持った魔法使いが描かれている。


「よし」


 行商人が咳払いをした。


「今日は、勇者様のお話だ」


 子供達が歓声を上げた。



「むかしむかし」


 行商人の声が、広場に響く。


「世界には、恐ろしい魔王がおりました」


 子供達が静かになる。


「魔王はたくさんの魔物を従え、人々を苦しめていました」


 ページがめくられる。


 黒い城。


 空を覆う魔物。


 逃げ惑う人々。


 絵本の中の魔王は、いかにも恐ろしい姿をしていた。


「そこで世界中の国々は話し合い、それぞれの国から最も優秀な人物を一人ずつ選びました」


 次のページには五人が描かれていた。


 勇者。


 戦士。


 シーフ。


 僧侶。


 そして魔法使い。


「五人は力を合わせ、魔王を倒す旅へ出ました」


 トムの目が輝いていた。


 完全に夢中だった。


 レオンはその横顔を眺める。


 絵本を見ているだけなのに、トムはまるで自分も一緒に旅へ出ているような顔をしていた。


「長い長い旅の末、五人は見事に魔王を討ち倒します」


 ページの中で、勇者が剣を掲げている。


 魔王は倒れ、空には光が差していた。


「世界に平和が戻りました」


 子供達がほっとしたような顔をする。


 だが、行商人はそこで声を少し落とした。


「ですが」


 ページがめくられる。


「帰ってきたのは、魔法使いだけでした」


 子供達がざわついた。


「なんで?」


 誰かが聞いた。


 行商人は本を指差す。


 そこには暗い顔をした魔法使いが描かれていた。


「魔法使いは、勇者を愛していました」


 子供達は黙って聞いている。


「けれど、勇者が選んだのは僧侶でした」


「魔法使いは、それが許せなかったのです」


 トムが眉をひそめた。


「そして魔王との戦いで傷付き、弱っていた仲間達を」


 行商人は少し間を置く。


「魔法使いは裏切り、皆殺しにしてしまいました」


「えぇ!?」


 子供達が悲鳴を上げた。


 トムも口を開けたまま固まっている。


「ひどい……」


 小さく呟いた。


 行商人は読み続ける。


「一人だけ生き残った魔法使いは、世界を呪いました」


 ページがめくられる。


 黒い塔。


 怪しい魔法陣。


 泣いている人々。


「そして恐ろしい研究を始めます」


「魔法使いは、世界中の魔法の源を奪いました」


「そして、倒されたはずの魔物を復活させたのです」


 子供達が真剣な顔になる。


「その結果、世界から魔法は失われてしまいました」


 レオンは絵本を見ていた。


 魔法。


 この世界には、もう存在しない力。


 昔はあったらしい。


 だが今はない。


 村で暮らしていて、魔法が必要だと思ったことはない。


 けれど、もし本当に昔の人々がそんな力を使えたのなら。


 それを失った時、人々は何を思ったのだろう。


 そんなことを、少しだけ考えた。


 行商人はさらにページをめくる。


「そして、勇者の国は魔物によって苦しめられました」


 壊れた町。


 逃げる人々。


 泣いている子供。


 その絵を、トムは食い入るように見つめていた。


「その時、手を差し伸べたのが僧侶の国でした」


 次のページには、白い衣をまとった僧侶が描かれていた。


 怪我人に手を差し伸べ、泣く子供を抱きしめている。


「僧侶の国は勇者の国を守りました」


「多くの人々を救いました」


「勇者の国はなくなってしまいましたが」


「かつて勇者と僧侶が愛し合ったように」


「二つの国は一つになったのです」


 トムは少し安心したような顔をした。


「良かった……」


 そう呟いた。


 レオンはそれを聞いて、少しだけ笑った。


 トムはこういうところがある。


 絵本の中の人間にまで、本気で安心したり、怒ったり、悲しんだりする。


 子供っぽい。


 でも、嫌いじゃなかった。



 行商人は最後のページを開いた。


 そこには、恐ろしい顔の魔法使いが描かれていた。


 黒い杖。


 黒い塔。


 足元には魔物達。


「けれど、悪い魔法使いは今も生きています」


 子供達が息を呑む。


「新しい魔王となり、世界を滅ぼす準備をしているのです」


 行商人は声を低くした。


「だからみんな」


 子供達が身を寄せる。


「悪いことをしてはいけません」


 さらに声を低くする。


「悪い魔法使いに食べられてしまいますよー」


「うわぁぁぁぁ!」


 子供達が叫んだ。


 でも、その声は悲鳴というより笑い声だった。


 行商人が本を閉じる。


 子供達は口々に感想を言い合った。


「魔法使い怖い!」


「俺、悪いことしない!」


「嘘だ! お前昨日パン盗み食いしただろ!」


「してない!」


「した!」


 広場がまた賑やかになる。


 トムも笑っていた。


 けれど、少ししてから、ふと真面目な顔になった。


「でもさ」


 ぽつりと言う。


 行商人が顔を向けた。


「ん?」


「勇者様、かわいそうだな」


 周囲が少し静かになる。


 トムは続けた。


「世界を助けたのに」


 言葉を探すように、少しだけ間を置く。


「国、なくなっちゃったんだろ?」


 行商人は困ったように笑った。


「まあ……そうだな」


 トムは胸元の首飾りを握った。


「俺だったら嫌だな」


 小さな声だった。


 それを聞いて、レオンはトムを見た。


 絵本の勇者に本気で同情している。


 そんな弟が、少しだけ眩しかった。


「帰るぞ、トム」


 レオンが声をかける。


「あ、うん」


 トムは立ち上がる。


 けれど、まだ絵本の表紙を見ていた。


 勇者と魔法使い。


 笑っていない二人。


 トムは少しだけ考え込むような顔をしてから、レオンの隣に並んだ。


 行商人は、すでに次の客の相手を始めている。


 広場はいつもの騒がしさに戻っていた。


 レオンは歩きながら、小さく呟く。


「勇者様か」


「兄ちゃん?」


「いや」


 首を振る。


 それまで、勇者なんて昔話の中の人間でしかなかった。


 遠い昔。


 遠い国。


 自分には関係のない英雄。


 でもその日だけは、少しだけ。


 その名前が胸に残った。

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