母の願い
その日の夜。
ルーベル村には静かな風が吹いていた。
夕食を終えた後。
父は椅子に座ったまま寝ている。
正確には寝落ちだ。
昼間の仕事で疲れたのだろう。
大きないびきが聞こえる。
「父さんまた寝てる」
トムが小声で言う。
「起こすか?」
「やめとけ」
レオンは笑った。
「起きたら機嫌悪いぞ」
「それは嫌だ」
トムは真顔で頷いた。
経験者だった。
過去に何度も起こしている。
そして何度も怒られている。
学習はしているらしい。
一応。
◇
母は台所で片付けをしていた。
水の流れる音。
皿の触れ合う音。
見慣れた光景だった。
レオンはふと立ち上がる。
「手伝う」
母が少し驚いた顔をした。
「珍しいわね」
「そうか?」
「そうよ」
少し笑う。
「ありがとう」
レオンは皿を受け取った。
拭く。
棚へ戻す。
それだけの作業だ。
でも。
母は嬉しそうだった。
「兄ちゃん偉い」
トムも参加してきた。
だが。
三枚目の皿を落としそうになる。
「やっぱり座ってろ」
「なんで!?」
「危ない」
「できる!」
できなかった。
危なかった。
母が慌てて受け止めた。
「ほら」
「……」
反論できなかった。
◇
片付けが終わる。
トムは眠そうだった。
祭りが終わったとはいえ。
毎日全力で遊んでいる。
十歳の体力は底なしに見えて。
実際はそうでもない。
欠伸をしている。
「もう寝なさい」
母が言う。
「まだ眠くない」
大嘘だった。
目が半分閉じている。
「ほら」
母が頭を撫でる。
「おやすみ」
「……おやすみ」
素直に部屋へ向かう。
階段を上がる途中。
眠気でふらついた。
「危ない」
レオンが支える。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
トムは笑った。
眠そうな顔のまま。
「兄ちゃんいるから大丈夫」
そう言った。
レオンは少し困った。
本当に。
この弟は昔からこうだった。
◇
しばらくして。
レオンも部屋へ戻ろうとする。
その時だった。
「レオン」
母が呼び止めた。
「ん?」
振り返る。
母は片付けを終えたばかりだった。
布巾を畳みながら、少しだけ笑っている。
「最近ね」
「?」
「トム、何かあるたびにあなたの話をするの」
レオンは首を傾げた。
「そうか?」
「そうよ」
母は楽しそうだった。
「兄ちゃんが木剣を振ってた、とか」
「兄ちゃんが教えてくれた、とか」
「兄ちゃんみたいに強くなる、とか」
レオンは少し困った顔になった。
なんとなく照れ臭い。
母は続ける。
「今日だって」
くすりと笑う。
「一人でお使いできたのは、兄ちゃんが頑張ってるからだって言ってたわ」
「……」
レオンは言葉に詰まった。
そんなことを言っていたのか。
知らなかった。
「だから」
母は少しだけ優しい顔になった。
「いつもありがとう」
「何が」
反射的にそう返していた。
本当に分からなかった。
当たり前のことだと思っていたからだ。
弟の面倒を見る。
困っていたら助ける。
転んだら起こす。
それだけのことだった。
母は小さく笑う。
「そういうところ」
「?」
「父さんに似たわね」
レオンはますます分からなくなった。
褒められているのか。
そうじゃないのか。
よく分からない。
けれど。
母は嬉しそうだった。
それだけは分かった。
「ねえ」
母が窓の外を見る。
夜空だった。
無数の星が瞬いている。
「これからも仲良くしてあげてね」
静かな声だった。
願うような。
祈るような。
そんな優しい声。
「分かってる」
レオンは答えた。
少し照れ臭かった。
でも。
本心だった。
トムは弟だ。
面倒で。
うるさくて。
よく転ぶ。
すぐ調子に乗る。
けれど。
大切な弟だった。
◇
部屋へ戻る。
トムは既に眠っていた。
首飾りを握ったまま。
幸せそうな顔で。
レオンは少し笑う。
毛布を掛け直した。
「風邪ひくぞ」
小さく呟く。
返事はない。
静かな寝息だけが聞こえる。
昼間はあれだけ騒がしいのに。
寝ている時だけは妙に大人しい。
少しだけ羨ましいくらいだった。
レオンは窓の外を見る。
星空が広がっていた。
穏やかな夜だった。
寝ているトムの頭をそっと撫でる。
「おやすみ」
小さく呟いて。
レオンは自分の部屋へ戻った。




