10-4 古代の祈り
地下工房の空気は、凍てつくような静寂に支配されていた。
エルフィが入った調整槽の端末に触れ、俺、リーフ、ネロの三人は、意識を肉体から切り離した。
世界樹ユグドラシルのネットワークを介し、少女の魂が漂う深層域へと精神潜行を開始したのだ。
現実世界に残された俺たちの肉体は、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。
それを、メギストス師父、バナード師匠、アイリスの三人が、油断なく囲んで守護していた。
メギストス師父は、すでに事切れていた十一柱の子供たちの亡骸に対し、慈しむような手つきで清浄の魔法をかけていた。
古代の防腐液と死の臭いを払い、空間収納から取り出した柔らかな白い布で、一体ずつ丁寧に包んでいく。
「……代官、この子たちを地上へ。 共同墓地の陽の当たる場所に、丁重に葬ってやってくれ。 これ以上の暗闇に閉じ込めておく必要はない」
師父の静かな、だが重みのある指示に、代官たちは震える手で亡骸を抱きかかえ、階段の上へと運び出していった。
◆
その頃、俺たちの意識は、世界樹の根元に広がる光の海を漂っていた。
そこは音も重力もない、情報の純粋な集積地。
その中心に、膝を抱え、母の胎内にいる赤子のように丸くなって浮かぶ少女の姿があった。
エルフィ。
彼女の魂は、千年以上もの間、凍りついた時間の中で独りきりだったのだ。
「エルフィ、聞こえる? 僕だ、ネロだよ! 迎えに来たんだ!」
ネロが必死に語りかける。
その声に反応したのか、少女の睫毛が微かに震え、一瞬だけ翡翠色の瞳が覗いた。
だが、彼女はすぐに、ひどく怯えたように再び強く目を閉じてしまった。
リーフが優しく手を伸ばすが、彼女の魂を包む不可視の膜に拒絶される。
「……とても深い絶望ね。 目覚めることそのものを、魂が拒んでいるみたい」
俺はエルフィの魂と肉体を繋ぎ止めている鎖――すなわち、彼女の中に刻み込まれた魔導術式の解析を開始した。
解析眼を深層モードへ移行させると、彼女の存在を定義する膨大な数式の羅列が見えてくる。
構造はネロに近い感性特化型だ。
だが、その術式の最外殻には、繭のように彼女を守り、同時に縛り付ける異質なコードが綴られていた。
それは、千年前の記述者による、あまりにも身勝手な注釈だった。
『願わくば、いつか慈悲深き者が現れ、彼女をこの地獄から解放せんことを――』
その文字を読み解いた瞬間、俺の胸の中に激しい憤りが燃え上がった。
「……ふざけるなッ!」
精神世界に俺の怒号が響き渡る。
「解放してほしいだと!?
だったら最初から、こんな非道な人体実験に子供を巻き込むな!
自分の手を汚して地獄に突き落としておきながら、未来の誰かに善行を丸投げするのか……! これを書いた奴のツラを拝んでやりたいぜ!」
俺の剣幕に、リーフも毅然と頷いた。
「そうよ。 あまりにも無責任だわ。 希望という名の呪いを、この子に押し付けて眠らせるなんて!」
二人の怒りを受け止めるように、ネロが悲しげに首を振った。
「……しょうがないんだよ。 当時の魔導師たちは、強欲な貴族たちに監視されて、『隷属の冠』で魂を縛られていたんだ。
逆らえば殺される……そんな中で、これが彼らにできる唯一の精一杯の抵抗だったんだね」
俺は少し呼吸を整え、ネロに問いかけた。
「……ネロ、その魔導師たちを支配していた貴族の名は覚えているか?」
「……ううん、名前までは。 でも、姓は忘れない。……『アイズベルク』。 みんな、そう呼んでいた」
俺とリーフは顔を見合わせた。
合点がいった。
シグルドがなぜこの地に執着し、この地下工房を私物化していたのか。
ここは彼の先祖が犯した罪の証であり、同時に彼が求めて止まなかった絶対的な力の源流だったのだ。
代々、アイズベルク家はこの地下に眠る負の遺産を、いつか自分たちが再利用するために秘匿し続けてきたのだろう。
「……因縁の清算、というわけか。 よし、繭を開くぞ」
俺がエルフィを包む術式の繭に触れると、それは大輪の花が綻ぶように開いていった。
中から現れたのは、彼女の神経系を侵食し、兵器として強制駆動させるための黒い魔術式だ。
俺は迷わず、その死のプログラムを書き換えていく。
破壊の道具ではなく、世界樹の循環を支えるための特権魔術式へ。
ネロやリーフ、俺と同じように、世界樹のくびきを受け入れ、永劫の時を生きるための新しい命の定義へと、コードを一つずつ置換していく。
「……これで、システム上の制約は消えた。 あとはエルフィ、君が目覚めるだけだ」
俺は起動命令を送る。
だが、彼女の魂は依然として、暗い海の底で眠り続けることを選んでいた。
◆
一方、地上では大きな変化が起きていた。
代官の部下たちが、丁寧に布で包まれた小さな亡骸を運び出し、街の共同墓地へと向かった。
その光景を、領民たちが遠巻きに、しかし確かな戦慄を持って見守っていた。
「おい……あれを見ろよ。 シグルド様の……いや、あの館から子供の亡骸が出てきたっていうのは本当だったのか」
「人体実験、だと……? あんなに優しそうだった御方が、裏でそんな非道を……」
「シグルドが大罪人だって話、俺はまだどこかで疑っていた。 だが、あんな小さな亡骸を見せられちゃ、もう言い逃れはできない」
「まだ信じていたのか? 王都を怪物で埋め尽くそうとした男だぞ。 この領地だって、いつ俺たちが実験台にされていたか分かったもんじゃない」
シグルドへの盲信は、音を立てて崩れ去っていった。
実際には千年前の出来事であっても、彼がそれを隠し、私物化していたという事実は、領民たちにとって裏切りそのものだった。
噂は風よりも速く直轄領を駆け抜け、かつての英雄の名は、一瞬にして忌むべき悪鬼へと塗り替えられていった。
◆
地下工房の奥深く。
メギストス、バナード、アイリスの三人は、微動だにしないルシたちの肉体を見つめていた。
「……いつになれば、彼らは目覚めるのですの?
ネロを再構築した時よりも、随分と時間がかかっているようですけど」
アイリスが、不安を押し殺したような声で尋ねる。
「……そうさな。 術式の書き換えは終わっておるようだが、魂の『呼び戻し』に苦戦しておるのやもしれん。 ……ルシたちの精神が、あちら側の情報の波に呑まれぬよう祈るばかりじゃ」
メギストス師父の言葉に、バナード師匠が力なく拳を握りしめた。
「……歯がゆいのう。 魔物相手ならこの拳で叩き伏せてやれるが、魂の深淵にまでは手が届かん。 ……信じて待つ以外にないとは、柄にもなく心細いものだ」
沈黙が再び、工房を支配する。
唯一の音は、エルフィを包む調整槽が刻む、不規則な心拍のような駆動音だけだった。
◆
深層域の海で、俺たちは少女の手を握りしめていた。
俺たちの意識が触れた彼女の手は、凍りついた時間そのままに、驚くほど冷たかった。
果たして彼女は、この新しい地獄かもしれない世界へ、再び戻ってくることを選ぶのか。
話しは、魂の対話へと委ねられた。
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