10-1 アイリスの恫喝、翻る忠誠
シグルド=アイズベルクの直轄領。
その中心部に位置する白亜の広場は、かつてない不穏な熱気に包まれていた。
俺たち一行が広場の中央に立つと、瞬く間に領民たちが集まり、幾重にも重なる包囲網が形成された。
その瞳に宿るのは、好奇心などではなく、明確な拒絶と剥き出しの殺意だった。
「静かに聞いてくれ。 俺たちは戦いに来たのではない。
シグルドがこの地に遺した、危険な魔法兵器や、禁忌の術式の在処を知りたいだけだ」
俺の言葉は、冷笑と罵声の嵐にかき消された。
「黙れ、嘘つきめ! シグルド様を王都から連れ去った悪党が何を言う!」
「我らの聖域を汚すな! 出ていけ!」
怒号と共に、どこからか小石や泥、そして汚物が放たれた。
それらは俺の周囲に展開された目に見えぬ結界に弾かれ、虚空で消えていく。
彼らにとって、シグルドはこの地を豊かにした救世主であり、俺たちはその英雄を不当に貶めた侵略者なのだ。
信じてきた平穏を否定されることは、彼らにとって自分たちの人生を否定されるに等しい。
「リーフ、ネロ、頼む」
俺の声に応じ、二人が魔力を同調させる。
広場の中央に投影されたのは、王都を蹂躙した異界の怪物と、狂気に駆られたシグルドの醜悪な姿だ。
真実の記録を曝け出したが、民衆はさらに激しく拒絶した。
「捏造だ! 幻惑の魔法でいくらでも嘘は作れる!」
真実が残酷であればあるほど、人はそれから目を背け、心地よい幻想に縋りつく。
俺は一歩前に踏み出し、冷徹に告げた。
「シグルド=アイズベルクは、もう魔導師ではない。
俺が彼の全権限を奪い、その力を根底から封じ込めた。
奴はもう、指先一つ動かす魔法すら使えない」
ざわめきが波紋のように広がった。
「この土地は、今はまだ奴が残した余り物の魔力で保っているが、それも時間の問題だ。持ち主を失った魔法の仕掛けはやがて動きを止め、この楽園は枯れ果てていくだろう。
……心当たりがあるはずだ。 すでに『異変』は始まっているんじゃないか?」
その問いかけが、領民たちの心に致命的な亀裂を生じさせた。
「……そういえば、果樹園の水場が動かなくなった」
「工房の道具も、昨日から妙な音を立てて止まったぞ……」
「馬鹿な。 シグルド様がお戻りになれば、すぐに直してくださるはずだ!」
「だが、あの御方はもういないんだろう? もし、この男の言うことが本当だったら、今年の収穫はどうなる」
疑念、不安、打算。
善意ではなく実利が揺らぎ始めたその瞬間を見逃さず、アイリスが音もなく前へ出た。
彼女は優雅に、しかしどこか相手を小馬鹿にするような笑みを浮かべ、王都の刻印が押された書簡を高く掲げた。
「あらあら、皆様。 そんなに必死に石を投げて、後で腕が痛くなっても知りませんわよ?」
アイリスの鈴を転がすような、それでいて氷のように冷たい声が広場を静まり返らせる。
「聞きなさいな、哀れな羊さんたち。 これは王都の政府が発行した正式な布告ですわ。
シグルド=アイズベルクは国家への反逆者として、一生を暗い鉱山で過ごすことが決まりましたの。
そして、今なお、あんな男を慕い、罪を隠そうとする者は……すべて同罪。
つまり、皆様もまとめて『死刑』の対象になりますわ」
彼女の鋭い視線が、最前列の男を射抜いた。
「罪が決まれば、すぐにでも執行されますわ。
行き先はシグルドと同じ地獄か、あるいは首切り台。
女、子供、老人の区別なんてしませんわよ?
一族郎党、まとめてこの世から消えていただきますの。
……ふふ、想像しただけでゾクゾクしませんこと?」
あまりに楽しげな宣告に、広場から一切の音が消えた。
アイリスは畳みかけるように、甘い毒を流し込む。
「……ですけれど、もし皆様が物分かりよく協力してくださるなら、話は別ですわ。
新しい行政官を呼んで、止まった水場も直して差し上げます。
さあ、選びなさいませ。
主君への義理を抱いて一族心中するか、あるいは賢明な市民として、明日の温かいパンを手に入れるか。
……皆様のようなお利口さんなら、答えは決まっていますわよね?」
それは交渉ですらなかった。
逃げ道をすべて言葉の刃で切り裂き、従う以外の選択肢を奪う断罪。
沈黙の後、一人の男が膝をついた。
「……待ってくれ! あいつが北の倉庫に、誰も入れるなと言っていた地下室があるんだ!」
「私だって反対だったんだ、あんな男のやり方には!」
先ほどまでの敵意は消え、領民たちは我先にと媚を売り始めた。
その滑稽な手のひら返しを、俺は冷めた目で見守るしかなかった。
「……アイリス、少しやりすぎじゃないか?」
俺の耳打ちに、彼女は楽しげに微笑んだ。
「これくらい言わないと、この手の連中は動きませんわ。
彼らにとっての忠義なんて、自分の首の皮一枚の価値もありませんもの。
……さあ、ルシ。案内人はいくらでも手に入りましたわ。
ゴミ捨て場の掃除を始めましょう」
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