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9-8 弟と姉と:負の遺産と家族の絆

 世界樹ユグドラシルの間、そこは王都の喧騒から切り離された、静謐なる命の揺りかごであった。


 ルシ、リーフ、そしてネロの三人がその神域に籠もり、存在の再構築に心血を注いでいる間、外の世界ではゼノス団長を中心とした生き残りの将官や側近たちによって、暫定的な政府が組織されていた。


 それは平民の代表を欠いた、騎士と魔導師による緊急避難的な統治体制であり、真の意味での民主主義とは程遠いものだったが、崩壊に瀕した国家を辛うじて繋ぎ止める仮初めの秩序としては、今の王国にとって最善の形でもあった。


 そんなある日のこと。


 王宮の機能が一部回復しつつあった宿営地の一角で、ついにネロが目を覚ました。


 かつて彼を支配し、脳裏を焼き尽くさんばかりに響き渡っていた破壊命令の呪縛は、もうどこにもない。


 目を開けた少年の視界に飛び込んできたのは、ひび割れた天井を伝う柔らかな木漏れ日と、寄り添うように彼を見守る、紺碧の髪の少女の姿だった。


「……おはよう、ネロ。 よく眠れた?」


 リーフの慈愛に満ちた声に、ネロは戸惑いながらも小さく頷いた。


 それからの数日間は、ネロにとって奇跡のような時間の連続だった。


 リーフは姉として、甲斐甲斐しく彼の世話を焼いた。


 泥にまみれた古い服を脱がせ、仕立ての良い柔らかな布の服に着せ替え、冷え切った彼の体を温める。


 そして何より、温かな食卓。


 効率や燃料としてではなく、純粋に美味しいと感じるために用意されたスープやパンを、ネロは一口ずつ、噛み締めるように口に運んだ。


 リーフの手が、ネロの新しい紺碧の髪を優しく撫でる。


 その温もりに触れるたび、凍てついていた少年の心は、少しずつ、だが確実に人間としての輪郭を取り戻していった。


 しかし、平穏な日々の中で、ネロの瞳に時折暗い影が差すことがあった。


 ある日の午後、窓の外を見つめていたネロが、絞り出すような声で口を開いた。


「……ルシ兄さん。 まだ、終わっていないんだ」


 俺は読みかけの古文書から顔を上げ、ネロの傍らに歩み寄る。


「あの男……シグルドが行ったことは、王都だけじゃない。

 僕と同じように、無理やり力を植え付けられた『失敗作』や、人の心を奪った兵器が、まだ、どこかに隠されているんだ」


 その告白は、シグルドという災厄が残した負の遺産の全貌を示唆するものだった。


 俺は静かに頷き、険しい表情で応じる。


「やはりそうか……。 シグルドが一人で溜め込んでいた秘密は、そう簡単には尽きないだろうな。 だが、あの男が素直にすべての隠し場所を口にするとは思えない」


 リーフが心配そうに俺の顔を覗き込んだ。


「貴方が直接、シグルドの記憶を読み取ることはできないの?」


「いや。 今の俺とシグルドの間には、あまりにも強い憎悪の断絶がある。

 精神の深層へ潜ろうとしても、拒絶反応で情報が歪んでしまう可能性が高い。

 ……拷問アイリスに任せて口を割らせるか、あるいは魔道的な手段で無理やり情報を引き抜く(メギストス)か。 どちらが適任だと思う?」


「そうね……メギストス師に頼んで、意識の底を直接覗いてもらった方が早そうね。

 もっとも、あの男の精神が耐えられるかどうかは怪しいけれど。 貴方の解析眼は?」


 リーフの言葉に、俺は苦い表情を浮かべた。


「俺の『解析眼』で脳内を直接見るのはどうかって? ……冗談じゃない。 生理的に無理だ」


「ああ、分かるわ。 私もあんな男の中を覗くなんて真っ平よ!」


「……僕も、顔すら見たくないな」


 ネロの言葉に、三人は顔を見合わせ、わずかに苦笑した。


「分かった。 俺がメギストス師父に、泥をかぶってくれるよう頼んでくるよ」


 ◆


 翌日、俺はメギストス師父のもとから、重要な戦果を持ち帰ってきた。


「師父に頼んで正解だったよ。 期待以上の情報を得られた」


 宿営地の机に地図を広げ、俺はペンで数箇所を指し示した。


「精霊の森はすでに浄化が進んでいる。

 北の山脈も調査は終わっているし、西の荒野にはかつて特務部隊を送り込んだ。

 あの臆病なシグルドが、魔物や魔獣が跋扈する危険地帯に重要な資産を隠せるとは思えない」


 リーフが地図を覗き込み、一つの空白地帯に指を当てた。


「そうなると、残るは王都の東ね」


「ああ。 シグルドが直轄領として管理していた地域だ。

 どうやらそこに、奴が隠し持っていた最大の『工房』があるらしい」


「じゃあ、次の目的地はそこね?」


「そうだ。 完全に奴のホームグラウンド、俺たちにとっては完全なアウェーだけどな」


「今の状況で、まだシグルドを信奉している領民がいるとは思えないけれど……」


「そうあって欲しいね。 だが、奴の支配が『魔法的な強制』に基づいたものだとしたら、厄介なことになる」


 リーフは俺を見つめ、静かに問いかけた。


「今回も、前のように五人で行くの?」


 俺は少し考えた後、傍らで静かに話を聞いていたネロに視線を向けた。


「……ネロも、一緒に連れて行こうと思う。 どうかな?」


「えっ、僕も?」


 驚くネロに、俺は穏やかな笑みを浮かべた。


 リーフに向き直って、


「ああ。 ネロには、破壊される前の……本来のこの世界の美しさを知ってほしいんだ。

 旅の合間に、各地の美味しいものや、見たこともない特産品を味わってもらう。

 それは、あの子が『人間』として生き直すために、何より必要なことだと思うんだ」


「でも、東の領地も破壊されているんじゃないの?」


「いや、記録によればシグルドは『隷属の冠』による支配を確実にするため、東方向への攻撃は意図的に抑えていたらしい。

 自分の退路と資産だけは、無傷で残したかったんだろうさ」


 リーフは納得したように頷き、ネロに向き直った。


「ネロ。 貴方はどうしたい? 私たちと一緒に、外の世界を見てみたい?」


 ネロは一瞬、不安そうに視線を泳がせたが、やがてルシとリーフの顔を見て、力強く頷いた。


「……うん。 僕、行ってみたい。 色んなものを見て、知りたいんだ」


「決まりだな」


 俺が宣言し、リーフが微笑む。


「そうね、まずは美味しいお菓子がある街を探さないと!」


 こうして、一行の次なる行き先が決まった。


 それは、シグルドが遺した負の連鎖を断ち切るための戦いであると同時に、新しく生まれた小さな家族の、初めての旅立ちでもあった。


 王都の復興をゼノスたちに託し、俺たちは東の地――忘却の工房が眠るシグルド直轄領へと、その一歩を踏み出す準備を始めた。

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