9-6 権限の消滅と因果応報(ロスト・エンタイトルメント)
静寂が支配する戦場。
王都の黄昏が、崩壊した街並みを長く黒い影で塗りつぶしていく。
俺は、腰を抜かして震えるシグルドの前まで歩みを進め、その冷徹な視線を足元に転がった男へと向けた。
「シグルド。 ……あんたがこの世界で享受してきた、あらゆる『権限』を今、ここで消去する」
静かだが、世界の理そのものを揺るがすような響き。
だが、それを聞いたシグルドは、呆けたように口を開けた。
「……はっ? 権限を、消す……だと?」
その言葉の意味を即座に理解できなかったのは、シグルドだけではない。
傍らに立つメギストス師父、バナード師匠、そしてアイリスもまた、不可解そうに顔を見合わせた。
唯一、俺と魂の底で繋がり、琥珀色の瞳の奥に宿る真理を共有したリーフだけは、これから起こるであろう絶望の正体を理解し、静かに口を閉ざしていた。
シグルドは数秒の沈黙の後、下卑た笑いを顔に張り付けた。
「なんだ、そんなことか! 虚勢を張るなと言っただろう。
地位や名声などという不確かなものを奪った程度で、この私を屈服させられると思っているのか?」
俺は表情一つ変えず、淡々と言葉を重ねる。
「いや。 地位や名声なんていう外付けの飾りじゃない。
あんたという存在を定義している根源、今まで犯してきた罪のすべてを、あんた自身の『生』で清算してもらうということだ」
「ふん、できるものならやってみろ! まだ魔力は残っている。
このまま転移魔法で逃げ延び、いずれ貴様らを地獄へ――」
「そうか。 なら、試してみろ」
俺は指をパチン、と鳴らした。
魔法の詠唱も、複雑な儀式も、陣の展開すらない。
ただの指の動き一つ。
だが、それは世界樹の管理者権限を持つルシにとって、宇宙の法則を書き換えるのに十分な所作だった。
「……ふん、指を鳴らした程度で……無詠唱か何か知らんが、無駄だと言ったはずだ!
転送――!? な、何故だ、何故発動しない。
……待て、魔力が、内側に集まらない……!? 何をした、ルシ! 貴様、何をした!!」
シグルドは狂ったように腕を振り回し、呪文を叫び続けた。
しかし、彼の指先からは一欠片の光も、一筋の熱も生まれない。
まるで乾いた砂を掴むかのように、世界から拒絶されている。
「最初に言ったはずだ。 あんたの権限をすべて消すと」
俺の言葉が、死刑宣告のように響く。
「魔導の源から力を受け取る権利を消した。
魔法を行使し、事象を歪める資格を消した。
シグルド、あんたという個体がこの世界の法則に干渉するための、あらゆる承認を剥奪したんだ。
……それだけじゃない。
その浅ましい頭脳で他人を騙し、操る言葉の魔力も、他者を惹きつける魅力も……すべて消した。
今のあんたは、誰にも届かず、何も成せない、ただの『空っぽな器』だ。
本当の意味で、何も持てない木偶人形になったんだよ」
シグルドの顔から、急速に生の色が失われていった。
魔法が使えないだけではない。
言葉に力がこもらず、他者の視線さえも自分を素通りしていくような、世界そのものから無視されているような恐ろしい孤独。
「ルシ……貴様、貴様ァァァ!!」
「さあ、大罪人。 国家反逆罪、そして数多の命を弄んだ罪……その重さを、魔法という盾を持たない裸の体で味わうがいい。 アイリス、捕縛を」
アイリスは迷うことなく歩み寄り、シグルドの手首を冷たい枷で繋いだ。
「キリキリ歩きなさいませ、大罪人! あんたの醜い言い訳は、もう誰の耳にも届かないことですわ」
アイリスは、もはや抵抗する気力すら奪われたシグルドを引きずり、王宮の瓦礫の中へと連行していった。
それを見送るメギストス師父とバナード師匠が、感嘆と少しの寒気を込めて呟く。
「なるほどの。 プライドと魔法の才能だけを拠り所に生きてきた奴にとって、これ以上の罰はあるまいな」
「ふむ……。 しかしルシよ、無能力者にするくらいなら、いっそ五感も閉じてしまえば良かったのではないか?」
師匠の過激な提案に、ルシは少しだけ口角を上げた。
「それでは、罰にならないでしょう? 自分が何をして、これからどうなるのか。
その恐怖を感じるための感覚……例えば、寒さや痛み、そして絶望は、しっかりと残してありますから」
リーフが、眠るネロを抱き直しながら微笑んだ。
「暗い牢獄で、いつ刑が執行されるか、あるいは永遠に忘れ去られるのか……ビクビクしながら生き延びるのも、彼にはお似合いね」
「そうだな。 ギロチンで一瞬に終わらせるのは、あいつには軽すぎる。
……実は、あいつから『歳を取る権限』も奪っておいた。
死ぬことも、老いることも許されない。
罪を償い続けるための、永遠の時間が彼には与えられる」
その言葉に、メギストス師父が目を細める。
「……そんなことまで可能とはな。 ならばルシよ、汝のその『不老の呪い』も、自ら消せるのではないか?」
俺は静かに首を振った。
「いいえ、メギストス師父。 今の俺の存在は、リーフたちに限りなく近くなってしまった。 魂の構造自体が変質しているんです。 ……もう、普通の人間に戻ることはできません」
「そうか……それは、残念なことじゃな」
師父の顔に、憐憫の色が浮かぶ。
だが、ルシはそれを遮るように続けた。
「まあ、でも。 シグルドから奪い取った『成長の余力』を自分に転用することで、あと二歳分くらいは成長できそうですけどね」
「それでも、十七歳か」
「いいんです。 結構、気に入っているんですよ。
この姿も、世界樹と共に在るこの生き方も」
ルシの晴れやかな横顔を見て、メギストス師父は何かを言いかけて、黙り込んだ。
教え子が、もはや自分たちの想像もつかない高みへと至ったことを、師として受け入れたのだ。
バナード師匠は、ルシの肩を無造作に叩いた。
「まだまだ鍛えてやる余地があるというのに、もったいない話だ」
「大丈夫ですよ。 この姿のままでも、いつか必ずバナード師匠を追い越して見せますから」
「ぬかせ、小僧」
バナードは鼻で笑ったが、その表情は愛弟子の成長を誇る喜びに満ちていた。
やがて、リーフが紺碧の瞳でルシを見つめ、問いかける。
魂の同期が解け、いつもの彼女の声が戻っていた。
「ねえ、ルシ。 それで、これからどうするの?」
ルシは空を見上げた。
戦火の煙の向こう側、かつて自分が救い、そして共に生きると決めた世界が広がっている。
「そうだな。 まずは、前に約束したこと……世界樹ユグドラシルの再構築かな。
この崩壊した世界の理を、もう一度あるべき姿へ整え直さなきゃいけない。
その前に、片付けておきたい問題が山積みだけどね」
「そうね……でも、私たちなら、きっとできるわ」
四人と、リーフの腕の中で眠る少年。
彼らは、不気味なほどに美しく黄昏に染まった王都の空を見つめ、新しい時代の始まりを予感していた。
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